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丘の上にぽつんと建つ、癒竜専門店『グロッバ』。周囲には草木が生い茂っている以外、何もない。
しかし、グロッバにとってはこの無駄に広いスペースがむしろ好都合であり、作業は主に店外で行われる。
「聞いた? 宝石店の窃盗犯が捕まったらしいわよ」
ほぼ全身を覆う黒褐色の頑丈な鱗と鱗の間には、特に塵や埃が詰まりやすい。細い針金で掻き出してゆくのだが、この時に鱗付け根の柔らかい部分を傷付けてしまう恐れがある。鋭利な先端を湾曲させて、極力皮膚に触れさせないようにする必要がある。
「なんかねぇ、犯人の一人が変なこと言ってるらしくて」
人間の胴回り程ある強靭な前足と後ろ足には、それぞれにスラリと伸びた爪が生えていた。大木を切り裂いてしまいそうな鋭利な爪は、歩行のしやすさに深く関わるので鉄ヤスリで削ってしまう。非常に硬い爪に力任せになりがちだが、バランスを考えて一つ一つの爪の長さを調整していかなければならない。
「空を飛ぶ竜を見た。翼が生えて恐ろしい形相をしていた……って」
頑強な鱗に唯一覆われていない腹部は、手で押すとむにっと沈み込む程に柔らかい。腹を地面に着かせることが多いので、必然的に最も汚れやすくある。ブラシで擦ってやると、くすぐったいのか全身をぷるぷると小刻みに揺らす。
「そんな生き物、童話の中でしか聞いたことないっていうか……聞いてる? パレット」
人間一人なら軽く飲み込んでしまうだろう大きな口には、爪と同様に鋭利な牙が生え揃えていた。肉と一緒に燻製された薪を鼻先に持って行くと、ゆっくりと口を開き薪を咥える。パキパキと音を立てながら薪を咀嚼することで、牙の表面についた汚れを落とすことができる。
仕上げに全身を、木の実から作った保湿性のある油脂でコーティングするのだが……。
「あれ……?」
作業台に伸ばしたパレットの腕は空を切った。定位置にあるはずの油脂が忽然と消えていた。
「んー? お探し物はこれかなー?」
悪戯っぽい声と共に、パレットの背中に伝わる柔らかいもの。そして眼前には油脂の入った缶が差し出された。
「クロマ……まだ作業中なんですけど」
パレットは苦笑いを浮かべたまま、背後から抱き付かれた体を捩る。クロマと呼ばれた若い女性は妖艶に目を細めて、パレットの肩に顎を乗せる。
「だってさぁ、話しかけてるのに何の反応もないんだもん。お姉さん、寂しくて……」
そう言いつつ、空いている方の手でパレットの脇腹をくすぐる。
「クロマっ……やめっ……くすぐったいって!」
「あら……また痩せた? だめよ、しっかりご飯食べなきゃ」
目に涙を浮かべながらケラケラ笑うパレットを開放すると、彼女に油脂入りの缶を手渡した。そして、今しがた座っていた木製のベンチに戻る。ゆったりとした白色のワンピースにつばの広い帽子を被ったクロマは、端正な顔立ち相まってベンチに座るだけでも絵になっている。
「まあ、この店の店長として一人で切り盛りするのは大変だと思うけど」
「店長じゃないよ。あたしは店長『代理』だから」
笑い疲れたのか肩で息をしながら缶の蓋を開けると、作業に戻ることにした。
とろみを含んだ油を手ですくい、直に塗りたくっていく。乾燥しやすい皮膚はひび割れを引き起こすため、定期的に保湿しなければならない。
「ほい、終わったよ」
空っぽになった缶を片手に、施術を終えたパレットは、鱗に覆われた体をぽんぽんと叩く。すると、大きな鼻先を彼女の体にすり寄せてきた。これは竜にとっての感謝を表す行動である。
『竜』と呼ばれるものたちは、古くから人間と生活を共にしている。大きな体に似合わず、性格は大人しく人を襲うこともなかった。
「お疲れさま、パレット。はい、これいつものね」
施術代金と共に、布に包まれた箱のようなものをパレットは受け取る。それは、彼女の食事情を案ずるクロマお手製の弁当であった。放っておけば、パン一つで済まそうとするパレットのことだ、無理はない。
「わあ、ありがと! 掃除が終わってからいただきます!」
気付けば、日は沈みかけ空も朱色に染まっている。朝食のパンとミルク以外、口にしていないパレットの腹からくうっと虫の声がした。
「それじゃあ帰りましょうか、バルデロ」
クロマに声を掛けられた竜は、四足を用いてのそのそと彼女の方に向かって歩き出す。鞍と手綱を着用することで、馬同様に騎乗することもできる。個体差はあれど、体長は頭の先から尻尾の先まで五メートルほどあり、その大きな体と頑丈な四脚は馬とは比較にならない。優雅さは馬が勝っているが、騎乗のしやすさで言えば竜が勝る。
「またね、パレット」
クロマは手を振り丘を下ってゆく。バルデロもそれに続き――ふと、首を曲げ肩越しにパレットの方に二度、頭を下げる。人と長年共生してきたがためか、竜は知能が高く礼節を弁えるほどであった。
彼女たちを見送ったパレットは、作業場の後片付けを始める。脚立と作業棚をガシャガシャと音を立てながら店舗の中に戻していく。作業場は店舗のすぐ隣にあるのだが、パレットの細い腕では重労働になり得ていた。
額に汗を浮かべながら、今度は忘れないようにと『グロッバ』と書かれた看板を取り込む。
エプロンを外して一息。こうして、一日の業務を終える頃には辺りはうっすら暗くなっていた。藍色の空には星々がぼんやりと輝いている。
日中はロビーとしている一階の部屋は、業務を終えた夜中にはリビングとして使用されている。
大窓の前には、木製のテーブルとそれを挟むように、簡易なソファが二つ置かれていた。パレットはその内の一脚に腰かけて、テーブルの上に先程クロマに貰った弁当を広げる。
鶏肉のグリルをメインに、色とりどりの野菜が所狭しに並べられているそれは、いかに健康を心配されていることが分かる。
鶏肉を齧ると、ひとたび口の中に肉汁が広がった。ほどよい塩味と香味が効いており、瑞々しい野菜との相性は抜群だ。空腹なことも相まって、どんどん食が進む。
あっという間に空になった弁当箱を片手にパレットはキッチンに向かう。食器洗い用の溜め水で綺麗に汚れを落とすと、水気を切り乾燥させる。
ついでに食料の備蓄を確認するべく、床に置かれた木箱を開けた。明日の朝食にと残しておいた、一口大の麦パンが転がっているだけだった。
「……さすがにマズいかな」
とりたてて、お金に困っている訳ではない。店長代理として自分のために浪費するのは極力避けたかった。
だからといって、クロマから何かと心配されることは大変申し訳ないと、パレットは思う。パレットより五つ上のクロマは、妹のように可愛がり毎日のように店に顔を出している。そんなパレットもクロマを姉のように慕い、懐いていた。
(明日は街へ買い物に行こう)
大窓から見えるポアレン市街地には、外灯の明かりがぽつんぽつんと頼りなく灯っている。それでも市街地の様相がはっきり分かるのは、空にある丸々とした月のおかげだろう。
そびえ立つ鐘楼に刻まれた、翼を広げた鳥の壁画もくっきりと映し出されている。ミアレスト王国の国章と呼ばれるものだ。
店内にも月明かりが差し込まれており、床に置かれたランプが無用の長物と化していた。
パレットはそのランプ跨いで、二階の寝室に繋がる階段を上がる。彼女の寝室は、ベッドと向かいにある衣装の収納された戸棚が置かれているだけの空間だった。一階のリビング同様、小窓から漏れた月明かりが床を照らしている。
パレットはおもむろに戸棚を開ける。戸棚は上下三つに区切られており、上段の広にはブラウスが数着掛けられ、中段にはズボンと寝衣が畳まれている。寝衣以外はパレットが今まさに着用しているそれらと、差異のないものばかりであった。
パレットはしゃがみ、下段に置かれた木の箱を取り出した。蓋を外すと、中には真っ赤な背広がきっちりと畳まれ収められている。手に取ると、頑丈な造りであろう、ずっしりと重みがあった。
血を塗りたくったような鮮明な赤色の肩部には翼を広げた鳥が刺繍されている。つまり国章であり、それはミアレスト王国の軍服であった。
パレットはブラウスの上から軍服を羽織ると、さらに木箱を漁りだした。木箱の底から、寒い地域で使用される耳当ての付いた帽子とゴーグル、木製の精巧な作りのスリングショットが出てくる。
それらを手に再び階下へと降りると、そのまま外に出ると作業場の方へ向かった。月が雲に隠れて辺りは真っ暗になっている。
ふいに、草木が揺れて擦り合う音。次に、腹に響くような地鳴り音。その振動はパレットに近づくように次第に大きくなり、突然ピタリと止んだ。
直後に雲の間から月が顔を出し、作業場が照らされる。
パレットの眼前に、白銀の鱗を持つ竜が現れた。月光に反射して妖しい輝きを放ち、竜の周囲を漂う粒子も銀色に染まっている。
一般的に、竜の鱗は個体差があれ、黒みがかった色と相場は決まっている。クロマのパートナーであるバルデロも黒褐色の鱗を纏っている。
白銀の鱗を持つ竜は一度たりとも、確認されていない。一般の竜に比べ、しなやかな体躯の背中には鞍が取り付けられており、さらに本来あるべきはずではないものを携えていた。
「今日もはりきって行こうか。ライラック」
パレットの呼びかけに答えるが如く、白銀の翼が広がった。パレットはおろか、隣の店舗をすっぽりと覆い被せる程、巨大な両翼である。
パレットは身軽な動きで背中の鞍に跨ると、翼を羽ばたかせる。