赤とんぼのルーチン
残暑の響きに混じって飛び交う静かな羽音は切なげで、それが所以であるかのように少女は紅色を頬へと伝わせる。
秋の心と――愁の哀しげを謳い聞かせる少年は告げて俯く。
――もう、会えなくなるね。
暦の初秋を感じるより先のことだった。少年が父の転勤を聞かされたのは。
十を過ぎてはや一年、もう時期に小学の最高学年へ達しようとしている少年である。致し方のない事情を察せられない稚拙な頭脳では、最早ない。小さな胸の許容量いっぱいに詰め込んだ遣る瀬無さを溢さないよう、必死に上着の裾を握り締めている。
「行っちゃイヤだよ」
しかし少女の返す切な懇願は我儘――そして意地悪く。
必死に合わせまいとして逸らしていた少年の視線を、無情にも整わせてしまう。据えた向こうの暮れが陰らす黒い人形の、その面相に滴る大粒の雫らは無言のままに少年の涙腺を刺激する。
甘美にしては些かに心苦しい誘いは、振り払おうとも払える気概を少年に感じさせる程の穏和さとは無縁であり、容赦も慈悲も疎外して、ただひたすらに少年を少女の写し鏡として成そうと働く。
「ごめん」
涙声の否定は、消えてしまいそうな蝋燭を彷彿とさせる弱々しさを孕む。が、少女の淡く脆く儚い希望を断ち切るには役柄が相応し過ぎたようだった。
下唇を食いしばった少年の歪んだ視界が再度、正面の眩しげな黄昏を見やる頃にはもう、色濃い人陰は消え去った後だった。
物心がいつの時分から着いていたのかしれないが、気づいた時にはずっと一緒にいた少女がいた場所を横切る赤とんぼの押し売り臭い秋の香りは、この時の少年にとっては酷く煩わしく感じ得たことだろう。
忘れ難きを胸に秘めた青年は肩に掛けるボストンバッグの重さも程々に、久方ぶりの生まれ故郷の変わり果てた光景を前にして微笑んだ。
ここ十年の間で舗装に舗装を重ねたであろう駅前の小綺麗な道色は違えど、傍を飾り立てる銀杏並木は代わり映えることなく先の先まで続き立つ。
そう言えば、と。青年は歩き慣れない道を進みながら、首を左右へ何度も行き交わせる。懐かしさは朧な記憶がそうであるのと同じく、薄ぼやけた感傷を湧かせるだけ。それ以上は何も訴えかけて来ない。それどころか寧ろ、僅かな緑色が残る黄色い道の隙間から覗く、灰色のシャッター群の方が幾らか心の傷を抉るような思いを与えてくる。
通った駄菓子屋。母親に付いて回った八百屋に魚屋、破けの程が著しい黄色いビニール製の雨除けが痛々しい精肉店。
「少し、さみしいな」
やり場に困った左手をパーカーのポケットへ入れると、右手でスマホのロックを解除する。
磨りガラス状の待ち受け画面が消えた途端、緑色の枠淵が現れる。頭上でチラつく自然色とは一味も二味も違う人工的な緑色は鮮やかさに欠け、枠内に表示された無機質なメッセージがより一層、無味で淡白な印象にさせる。
――今日、帰るよ。
一方的な呟きは依然として二車線の片側を進んだ先で停滞したまま、もう一方の車線は酷く寂しげな様子を醸していた。
午前十時十一分の表記を目にした後、青年は左腕の二時三十五分を指し示す腕時計を見やり、吐息を一つ。細めた目は再度、疎らな人の往来を見せる前方を据える。
「まあ……昔のまま、とはいかないか」
心情と反する表情は、どこか和やかだった。
最寄りの駅から真っ直ぐに進んだ先に聳える六階建ての分譲マンションが一棟、その禿げたネズミ色を携えた白い外装が見下ろしている女性が一人いる。
幼い頃より視力の衰えた節がないにも関わらず、女性は長方形のレンズ越しに黄色を着飾る道を眺める。胸の前に持ってきている両手に大切そうに支えられているのは、淡いピンクのカバーに包まれたスマホ。
「どうしよう」
慌てているのか、それとも落ち着きは手放していないのか。どうとでも取れるどっちつかずの様相を呈する女性は取り敢えず、手にしたスマホを開いた。
流行りのSNSアプリの起動画面が消えると、次いで表示されるのは滞った会話――否、一方的で独り言のような報告を載せた白い吹き出しが一つだけ。
会話に至らない最大の理由は他でもなく彼女自身にある。が、それを打開しようにも、無慈悲な時間の超過がそれを許そうとはしない。
今更なんて、と。会話という形態を取り成す唯一の方法である返事の内容について、彼女の小さく混乱する頭は事欠いているのである。
――いま着いた。
昼頃をゆうに通り越してからの起き掛けに初見して以来、何ら変化を見せようとしなかった一車線の道へまた一つ、新しいメッセージが「ポン」という電子音と共に姿を見せて来た。
これにより、事態は女性にとっては好転を見せることになった。
暮れの刻が近づいて来たこともあってか、外界の殆どが茜に染め上げれているかのような色調を彩り始めた。
黄色鮮やかな銀杏の葉も、ヒビ割れが目に付いてきた白壁の一棟も、ベンチが一つだけ拵えてある極小規模な公園で寄り添う一組の男女等も。例外も特例も、偏見も差別もなく全て――その全てを紅に上塗りさせる暮れの陽。
凡そ当事者の二人のみが噛み締めているだけに過ぎない再会の喜びを見守りつつ、野暮に思われんとして羽音を潜めて飛ぶ赤たちは、さながら暮れの陽の使者と言わんばかりに揺蕩い続ける。
人の世の移ろいと停滞。それぞれが内包する美しさがより引き立つこの頃合いに於いて姿を見せ、それらの美景を粒な眼に収めることこそが彼等の生業にしてルーチンワークなのである。
そして今年の赤とんぼ等は、そう永くもない一生の内で随分と良い物が見れた代であった、とも言えるのかもしれない。