3・7
自転車の立ち漕ぎがこれ程までに苦行めいた物だとは思わなかった。
昼夜は真正面から迫りくる向かい風と地球の磁場によって発生された重力に両の腿を酷使しながら生まれて初めての感想を抱いていた。
教室を飛び出した昼夜はそのまま駐輪場へと駆け込みスタンドを乱暴に跳ねあげていた。
時間が無いと言う気持ちから周囲の物を一切かえり見る事のない滅茶苦茶な馬力を駆使して彼は高校の敷地から飛び出していた。
目指すべき所は一つ、町外れにある安アパートの一室である。
町の中心部からその外れへと向かって伸びる主要道路へと出るとそこから続く限りなく続くかのように思われる直線道路を昼夜はひたすら走り続けていた。
中心部から外れと言ってもそれ程大きな町では無い我が地元に対して、これ程までにありがたいと思った事のない昼夜がその両のペダルに込めた思いは掛け替えの無い思い出のようにキラキラとしていた。
こずえ
昼夜は息を切らしながら、次第に交通量の少なくなっていく道路を北上しながら、思い、願うのだった。
死ぬな、と。
死なせるわけにはいかないと、昼夜は強く思い自転車をこぎ続けていた。
考えてみればおかしな話だった。
守隠しと称してその行為の敢行を昼夜へと押し付けてくるこずえは言い続けて来たのだ。
自殺じゃないと。更には死ぬって事でもないんだと。
それがこずえから昼夜にとって、どのような暗喩になっているかも気付かずに過ごしてきた彼が、自分のバカさ加減に気付いた時、既に時刻は差し迫っていた。
ヒントは紛れもなく彼女の言葉の中にあったのだ。
思いを伝えるのに言葉っていうのは、それ単体では信頼度が低すぎると、その自らの提言を覆すかのような発言が昨夜、昼夜の前に現れたのが引くに引けなくなった彼女からの紛れもないメッセージだったのだ。
素直になれよ
ヤヨイと卓都から言われてきたそのまんまの言葉を、昼夜はそっくりそのまま別の相手へと返していた。
「バカ野郎」
それは紛れもなくこずえに対する本心だった。
「素直にならなきゃいけなかったのは、アイツじゃないか」
学校から出てどれほどの時が経ったのか、今までだったらバスで来ていたその道を自転車だとどのくらいの時間で来れるのか、何もかもが不明のまま昼夜は自転車をこぎ続けていた。
ギアの変速もする事ができないチェーンを酷使し、すり減ったブレーキをまるで使う事なく赤信号を全て無視し、通り過ぎるいくつかのバイク達に目を光らせながら、昼夜はもはや彼女の元へと互いが生きて辿りつけるならなにがどうなってもいいと思った。
そしてドアを開けながら開口一番で「こずえ」と、叫んで思いっきり罵倒してやりたかった。
復讐、言葉の本質、死の概念、昼夜への想い、周囲の環境、そして、
守隠し。守り、隠されるというその言葉の意味をはき違えた昼夜にとってそれらは全て耳の痛くなるような思い出話としたかった。だから彼は言うのだった。
「復讐なら、生きてやれよ」
まるでその場にこずえがいるかのように
「生きてさえいれば、俺がいくらでも付き合ってやるから」
時計を確認する暇も惜しみ昼夜はアパートへと到着していた。既に体中から吹き出た汗が塩の結晶となる程に強烈な向かい風に晒されていた昼夜がフルマラソンを完走したランナーのようにへろへろになりがらも、それでも山を背景に立てられた1Kのアパートに最後のスパートをかけ全力で階段を駆け上がっていた。途中何度か膝が抜けそうになりその度に拙い足音が木造のアパートに響き渡るのだったがそれでも膝を地面に付ける事なく昼夜は二階へと上がりきった。
間に合ったかどうかはわからない。しかし昼夜はドアを開けた瞬間に放つ言葉を既に決めていた。そしてそれが出来れば、無駄に終わらないでくれとばんかんの思いを込めて鍵を取り出し、それを差し込み口へと射し込んだ。
死ぬな。
昼夜は呟いた。そして叫んだ。
「こずえ!!」
ノブを握りしめドアを勢いよく開けた先に待っていたのは最悪の光景だった。
天井から伸びた縄に首を絞め上げられたこずえが宙空で制止したまま動かず、床に散りばめられた汚物の水溜まりが異臭を放っていた。
彼女の瞳は見開かれたまま閉じる事は無く、その整った口角から流園される唾液が彼女をまるで別人のように仕立て上げていた。
「こず……え……?」
時刻十一時三十五分。
昼夜の思いが千駄木こずえの元へと届く事はなかった。
○
時刻が午後の二時を回り正午を超えた日射しが昼夜へと強く降り注いでいた。なにをする事もなくただひたすらうつむき、座り込み、頭を抱えてアパートの廊下で硬直した少年を誰も目撃しなかったのはせめてもの救いだったのかもしれない。
もし誰か、アパートの住人にでも声をかけられていたら昼夜は何一つ偽ることの出来ない真実をありのままに語っていたに違いなかった。
友人が、幼馴染が、千駄木こずえが、死んでしまったと。
昼夜はこずえの死を確認した直後気分が悪くなってそのまま玄関で嘔吐していた。心臓の鼓動が不必要に早くなりすぎ胸から喉にかけてせり上がってくる圧迫感は朝食でとったトーストを重力を物ともせず逆流させていた。
気分が悪いと思った瞬間に口内から汚物の塊が吐きだされ玄関は一面吐しゃ物にまみれていた。
本来だったらすぐにこずえを縄から外し卓都とヤヨイへと電話し事前に購入していたトランクを持ってきてもらうように手配するのが計画的な流れだったのだが昼夜はそれらの事を一切、何一つ行う事なくそのまま玄関にて回れ右をして外に出るとそのままドアを閉め、背を扉に預けずるずると座り込むしか出来なかった。
結局卓都とヤヨイに電話を入れたのは死体発見から二時間が経過した午後一時半の時の事だった。
卓都とヤヨイはすぐに向かうと短く言って電話をすぐ切っていた。そして彼等は必要な物品を持ってくるのだろう。こずえの身体をしまうトランクに、もし必要ならば部分部分の箇所を切断する為に使用する小型チェーンソーを。
再び昼夜の中で落ち着きを取り戻していた不快感が込み上げてくる。未だに部屋の中で宙釣りにされているこずえの身体が自分達の手によって解体されていく様を想像しただけでもその付随する感情は正に常軌を逸した物でしか無かった。
死後二時間以上が経過した状態では死体が思うように曲がらない可能性が高いのは知っていた。
と言う事は必然的に胴体以外の四肢を切り取らなくては行けなくなる。
人間の腕と足を切る作業にどれほどの時間がかかるのだろうか? 或いは日用雑貨店なんかで売っている小型チェーンソーなんかで本当に人体の一部を切断など出来るのだろうか?
そして自分達に実際、そのような事が出来るのだろうか?
疑問と不快感ばかりが沸々と沸いてそれと同時にこずえの言葉を思い出す。
『死んだあと、物部君は私の身体を好きにしていいんだからね。これは言っておくけど成功報酬だから、遠慮しなくてもいいよ』
なにが成功報酬だ。
昼夜は寒気を覚えながら奥歯を強く噛みしめた。
どうかしている。
死姦、という言葉を昼夜が知らない訳では無かった。しかしその言葉を知っているからと言って死んでしまった人間に対してそのような感情が湧く訳もなく、そしてそのような事実を成功報酬と言いきってしまっていたこずえのその感覚にも、それを拒否しなかった自分の甘さにも、全てにたいしてどうかしていると、一年前の自分に対して言ってやりたかった。
フローリングの床一面に敷かれたブルーシート。縄によって首を支点に宙釣りにされたこずえの体内からあふれ出た汚物達がそこにぶちまけられ目を見開いたまま絶命しているこずえのあの表情が脳裏に焼き付いて忘れる事が出来ずにいた。
どうかしている
昼夜は頭を抱えながら呟いた。そして今更ながらに思う。
どうしてこうなる事を予測出来なかった? と。
もしかしたら心の奥底、それもどこかでこんな事が実現されるはずがないと、そうたかをくくっていたのではないかと、昼夜は改めてそう思っていた。
自分の死を他人にチラつかせるヤツほど死とは対極の位置にいるという通説がこずえに通用しない事は分かっていた。だからこそ昼夜があれほどまでの必死さで学校から飛び出したのだ。
あの時、あの瞬間の昼夜の気持ちは紛れもなく本物でそこに付随されていた危機感も正真正銘の死に対する忌避感だった。しかし事が終わってみればそこに着色されていた感情が全て嘘だったのではないか、悪い冗談が本当になってしまったのではないか、とそう言ったもはや取り返しのつかない事態に陥ってしまった事の顛末に昼夜自身言葉を失う以外他にするべき事が見当たらなかった。
と、その時だった。木造で出来たアパートが微かに振動し二階へと続く階段から誰かが上がってくる足音が響いてきた。
時刻は既に二時を回っており、卓都とヤヨイが到着するには充分な頃合いだった。二人に出会ったらまず最初になにを言うべきなのだろう?
昼夜はふととりとめもない、半ばどうでもいいような疑問に駆られる。しかしそんな疑問に対して答えを得る暇もなく足音が階段を昇り切り、角を曲がって昼夜へとその姿を露わすのだった。
「昼夜?」
まず最初に現れたのが卓都だった。その手には大型のトランクが持たれ、恐らく中には小型チェーンソーが入っているのだろう。そしてその後ろに続いて現れたヤヨイが昼夜を見つめるなり、どこか機械的に表情をフラットしたかのような目つきをしていた。
「…………」
昼夜はなにも言う事が出来なかった。ただ黙ってその場で座り込み、数秒の沈黙が続いた内に立ちあがってドアの前から退いた。
卓都とヤヨイが意図的に作りあげた分かりやすい無表情を装いながらドアの前までつくと再び沈黙が生まれた。しかしいつまでも黙っている訳にもいかないと、ヤヨイは重たい空気を叩いて伸ばすかのように口を開いていた。
「鍵は?」
与えられたきっかけに昼夜は頷きながら答える。
「……開いてるよ」
何てことないただのやりとりが昼夜にとっては苦痛以外の何物でもなかった。間延びした空気が三人に沈黙を共有させ行動を鈍化させていた。
「確認はしたんだよな?」
卓都の言葉に昼夜は頷くしかなかった。「ああ」と、そしてもはや死んでいると確定するしかないこずえの生前の面影もない姿を思いだし、感覚がマヒする。
「こずえは死んだよ」
今更こずえという呼称を使った所で表現されるのはただの女々しさだけだと言う事は昼夜も知っていた。しかし彼女が死んでしまった以上、もはや彼女の行動に殉じる事でしかその思いを発露する事が出来ない昼夜にしてみたらそれは最後の足掻きに近い言葉だったのかもしれない。
実際それを卓都とヤヨイがどう受け止めるかは定かでは無かったが、しかしそれでも昼夜が何を思い、どう考えているのかは大雑把にそれぞれ納得したのだろう。二人は彼の言葉に頷くとドアへと視線を向け、そしてノブを握りしめていた。
「じゃあ、希望通り守隠してやらないとな」
それが本当にこずえの希望だったのかどうか、もはや昼夜には分からなかったが、彼の思いとは裏腹に再びドアが開けられた。こずえが絶命する為にあつらえられた専用の部屋の入口が開けられ、彼等も息を呑むのだろうと、昼夜は思った。
生で見る圧倒的な死と言う物の現実に目をそむけたくなるのだろうと、今まで生きていた友人が死体となって、魂を抜き取られたその無残な姿にどのような思いを馳せるのだろうと、昼夜自身彼等の背中を見ながら部屋に入る事なく廊下で待ち続けた。
しかしドアを開けたまま、いや、玄関で止まったままの二人がそのまま硬直する事もなく、そして気分を害した様子もなく、二人して同時に昼夜へと振り返っていた。そこに宿っているのは不可解と言う名の三文字の表情。一体何が? と昼夜が言葉を開きかけた瞬間だった。
「いない」
卓都唐突に言い放った。
「こずえがいないぞ」
なにを言っているのか理解出来なかった昼夜が、首を傾げるしか無かったのは当然だろう。
というよりもこの期に及んでふざけるのも大概にしろと、むしろ怒りさえ覚えそうになったのだがそれを制するようにヤヨイが昼夜へと道を開け、言うのだった。
「本当にこずえは死んでたの?」
なにを言っている
昼夜は瞳に怒りを宿しながら言葉を荒げ部屋へと上がった。見えないなんて言わせないと、唾を撒き散らしながら豪語した。
しかし彼等が言っている事は本当だった。二時間半前に訪れた際、そこにあったはずのこずえの死体は綺麗さっぱり、その場から消え失せていたのだ。
「…………な」
三人を囲む沈黙が先ほどの物とは明らかに変質していた。一体何が起きているのかサッパリ分からない昼夜がこの時気付けなかったのは無理もないだろう。
神隠し
その単語が宙に浮かび昼夜の思考能力を奪う中、
千駄木こずえがばらまいた復讐の因子が本当の意味でこれから間もなく開花するという事を彼は気付く事が出来なかった。




