3・6
その日の夜、昼夜はベッドの中で一睡もする事が出来なかった。
最後まで言葉を紡ぐ事が出来なかった自分自身に対する不甲斐なさと、それでも楽しかったよ、と言ってくれたこずえの言葉に完膚無きまでに叩きのめされ寝返りを打ち続けていた。
耳鳴りがするかのような静けさが昼夜を襲い見上げた天井が圧迫感を昼夜へと押し付けてくる中、彼はまぶたを閉じても襲いかかってくる事のない睡魔に何度も喝を入れながら朝を迎えていた。
夏の日差しから秋の日差しへと変わりつつある冷涼な朝を迎えた昼夜が寝不足じゃない訳がなかった。しかし寝不足だからといって絶え間なく睡魔が襲ってくるのかと言えばそうではなく、異常に頭の中だけが冴え渡っているのに気分だけが不快という、何ともアンバランスなコンディションが昼夜の身体を作りあげていた。
九月八日。金曜日である。
あと数週間で終了する半袖のカッターシャツに袖を通しズボンを穿く。何度も行ってきた特別何の感慨もない一日常の動作にすら昼夜は今まで感じた事もないような特別な思いを抱いていた。それに朝から続いている、外から聞こえてくるなんの違和感もない様々な日常生活音が昼夜の耳を刺激し、こだまする。
まるで何の変哲もなったただの日常から一夜明けて、フィクションの中に登場する主人公になってしまったかのような錯覚が昼夜を包み込み、襲っていた。しかしそれも当然の事なのかもしれなかった。
身なりを整えた昼夜に残された選択肢はこの部屋から出て、学校へと向かう事しかなかった。
もう二度と会う事のできない千駄木こずえが在籍していたあの教室へ、もう埋まる事はないだろうあの空席を確認しなくてはならないその現実へと、昼夜は歩を進めるしかなかった。
これは報いなのかもしれない。
昼夜は自分の過去をさかのぼりそう言い聞かせ、部屋を後にするのだった。
天気は雲ひとつない、目の冴えるような晴れ渡った快晴だった。一日経っただけで昨日まで連日続いていたうだるような暑さが引き涼しげな秋の風が昼夜の露わとなった肌を薙いでいた。
自転車で森林公園の中を通り抜けいつも通りの通学路を前進する。
これから見えてくるであろう日常の塊的風景とも言っていい通学路を行き交う高校生達を思うだけで昼夜の非日常を感じている心理状態がより酷く浮き彫りになりそうだった。そう思っただけで、予感しただけで鬱的な精神状態に昼夜が陥るのは当然と言えば当然だった。
計画実行時間、午前十一時三十分。
九月七日の夜、ベッドに潜っている昼夜の携帯に受信されたヤヨイからの伝言だった。たった一行だけの連絡文の下に読んだ後は消去をお願いしますの一言が入っているその簡素を超えた事務報告を連想させるかのような文書に、受け取った人間が気分を落胆させない訳が無かった。
計画は順調で滞りなく、全てにおいて抜かりがなかった。実行の中止が過ぎる一因すら見つける事のできない絶望的な状況の中、彼はその高校までの道のりへと向かう前進を後退と呼称してもいい逆走ぶりを見せながら昼夜自身の日常の、劇場となっている学校へと向かうのだった。
千駄木こずえのいない学校。
千駄木こずえが二度と訪れる事は無い学校。
千駄木こずえを苦しめた学校。
苦しんでいる千駄木こずえをただ傍観していた物部昼夜が在籍する学校。
守隠し、とわざわざ当て字を使ってまで自分の死に自殺とは違った意味の理解をしていたのはある種の負け惜しみだったのではないかと、ふと昼夜は思ったがそんな事を考える等無駄だと鹿思えなかった。
ありがとう、さようなら、楽しかったよ。
三種の別れ言葉を連続で叩きつけられた昼夜に出来る事は今や携帯電話の時計を確認し残り余命数時間となったこずえの命に憂いを覚える事のみだった。
AM七時五十三分。
デジタル時計に表示された無味無臭な数字の羅列が昼夜にはどぎついモザイク画のように見えた。
学校に到着した昼夜は努めていつもと変わりの無い様子を作りあげながら他の生徒達とコミュニケーションを取っていた。朝の他愛のない挨拶から取りとめもない会話。最近流行っている漫画やゲームの話し、どこにでも転がっているような他人の噂話。
そして周囲にとって新鮮である千駄木こずえの欠席。
ホームルームが始まった直後担任の教師がその空席を見つめ目を丸めその理由を昼夜へと聞いたのが良い例だったのかもしれない。
千駄木こずえはこれまで皆勤だったのだ。遅刻もせず休みもしない、テストの点数だけはとれるが言動がおかしい真面目な生徒の無断欠席に担任は眉をひそめ、周囲のクラスメイト達は小声で耳打ちをした。
当然の如くここ一年、金魚のフンを連想させるかのように周囲に張り付いていた昼夜へとその視線の矛先は向かうのだったが担任からの質問を素っ気なく受け流した昼夜の答えに、それ以降質問を重ねてくるようなクラスメイト達は一人もいなかった。
特別何かがある訳でもないホームルームがいつもの惰性のように流れて行き十分間の小休みの後に数学の授業が始まった。
進学校の教室らしく皆隠れて居眠りをするような者はいなく、机に広げられた教科書とノート、そして黒板に板書された数式の三か所を順繰りに見据える生徒達の図がそこにはあった。
昼夜も同様にその例に漏れず一つでも多く知識と知性を得る為にその三角関係の視線転換を繰り返し行うのだったが今日だけはそういう訳にはいかなかった。
自然と向かうのは教室最前列の教卓前にある空席である。
千駄木こずえはいつもそこでノートを開く事なく板書された情報の中から自分にとって必要だと思う部分だけを抜き取り直に教科書へと書き写していた。
授業中何度かその事を教師から注意されてはいたが一向にそのクセが直る様子はなく、というよりも直す様子すら見せないこずえに教師たちはあきれ顔を示すのだったが、それでも結果的に試験の点数が軒並み百点近くの高数値を示していた事にある種の呆れを通り越した辟易を覚えていたのかもしれなかった。
最終的に何の注意もされなくなったこずえではあったが、その横着ともとれるスタイルに周囲のクラスメイト達から嫉妬にも似た反感が覚えられない訳もなかった。
異質で異端で、本物な彼女の存在にクラス中が嫉妬をしていた。
彼女自身の実力を示すテストの結果がどれだけよかろうと彼女の回りに人だかりは出来ず、気が付けばそこにあるのは周囲から疎まれた結果出来あがった異端者を作りあげる空気感だけだった。
本物は誰からも理解されない。本物が本物として認められるのは結果を出した時のみである。何故なら他人は本物を妬んでいるから。自分が偽物でしかないと既に認識していまっているから。だから素直になれない。そして本物に嫉妬し、憎み、理解しない。いや、理解出来ない。
こずえは紛れもなく本物だった。上限の定められた減点式の実力考査などで彼女の能力が全て相手に知れ渡るはずもない。
昼夜は思っていた。
彼女は将来、そのまま生きてさえいればどの分野でも必ず何者かになれる存在であったと言う事を、その身を以って思い知っていた。
だからこそクラスの生徒達はこずえの打ちだし続けるたかが実力考査の結果になびく事はなかった。
それに加えて存在していたのがこずえの発する言葉の数々に秘められた正しさだった。特別真面目を連想させる発言をする訳ではないこずえではあったが、その言葉の端々、あるいは奥深くにはいつも彼女が物事の真理を付いているかのような、そんな雰囲気がそこにはあった。
そして実際彼女の言っている事がそれぞれの主観を抜きに、客観的に見て正しい事が多かったのはクラスの誰もが知っている事実だった。
しかしだからこそクラスの人間は誰もこずえの事を認めなかった。こずえの言葉の一つ一つを正しいと認めてしまえばそこにあるのは自分の小ささや不甲斐なさなのである。
喋るたびに真実と正しさを振りまき対象者に自らの劣等性を、極自然、或いは当たり前のように押し付けてくる千駄木こずえに他の人間が反感を覚えない訳が無かった。
そして周囲に燻った反感によって徒党を組まれた千駄木こずえが高校入学から続けていた皆勤を終了させるまでに一年と数カ月。
「…………」
教卓の前にある最前列中央、そこに存在していたある意味特等席と呼んでいいだろうその場所は空席になっていた。今後一生埋まる事は無い永遠の空席である。
「物部」
不意に数学教師が昼夜目がけ言葉を投げかけて来た。黒板に視線を送った昼夜の瞳に映ったのは一つの節代である。
「集中してないみたいだな。気つけに一問解いてみせろ」
教諭から向けられる成績優秀者への期待と叱咤の視線を一身に受けながら昼夜は立ち上がり黒板へと向かった。しかしその問題がいつも通り、スラスラと解ける事はなかった。
二時限目の授業が終わった、十分休みの時間の事である。
「……深澤?」
昼夜は教室を出て中庭へと移動し、ヤヨイへと電話をしていた。
『深澤? ってあなた、一体誰に電話しているつもりなの? そこの携帯電話のナンバーディスプレイに表示されている者の名前は一体誰?』
開口一番に手痛い発言をしてきたヤヨイの登場に現在の鬱的心理状態の昼夜が反論を示せる訳も無かった。
通話中に最も行ってはならない沈黙を擁し彼女の言葉に小さな反抗を示すのだったが、彼女はそれをめんどくさいとばかりに受け流していた。
『一体何の用?』
あらかじめ拒否を含んだかのような冷たいトーンの発言に昼夜は言葉を模索し、それを切り開こうとしていた。しかし機先を制される。
『もう中止には出来ないわよ』
痛烈な言葉だった。しかし昼夜はそれを匂わせないよう懸命に努力し別の言葉を見つける。
「……計画は順調なのか」
昼夜の問いにしばしの沈黙を保って開口した彼女の言葉に淀みや揺らぎは一切なかった。
『ビックリするくらい順調ね。このまま行けば確実に今日、午前十一時半にこずえは死ぬわ』
「…………」
情け容赦のないヤヨイの言葉が昼夜の耳を穿った。電話を自分から掛けて置いてガチャ切りしたくなるかのような衝動に駆られるが携帯電話を持った右手にべたつく汗を感じながら彼は言うのだった。
「……こずえの選んだ事……なんだよな」
ざらざらとした不快な言葉がデジタル変換され電波を通してヤヨイへと伝わったのだろう。ヤヨイの言葉にも特有のざらつきが混入した。
『なんのつもりな訳?』
それはある意味ざらつきを通り越した刺々しい言葉でもあった。
『結局自分の口で気持ちを素直に表せないから全ての責任をこずえに負わせようって事? 俺は悪くない。あいつがそれを望んでるんだから仕方がないって、そう認識して物部は自己満足に浸る訳?』
「……いや」
歯切れの悪い昼夜が言葉を一つ重ねる間もなく、その合間にヤヨイは二つ三つの言葉を織り込んでいた。
『いい? いっておくけどあなたの言っている事はただの言い訳よ。中学生がよく使う俺は何にも悪くないし的な意味しかもたない最ッ低の言葉。こずえが何を望んでいたのかなんて関係ないでしょ? あなたにとってこずえの死はなにを意味するの? こずえの死に自己責任を感じてるからこうして私に電話をして助けを求めているんでしょ? それなのに見つけた言葉はこずえが自分でそれを望んでいるから? バッカじゃないの? 物部、あなたは中学生以下よ。自分の気持ちにすらウソをついて一体何になるってうの? もしこずえの死に自己責任を感じているのなら最後まで責任を取りなさいよ。それが中学を卒業した少年から青年へと変貌を遂げる十七歳の男子が取るべき正当な行動なんじゃないの? あなたには失望したわ。もうアドバイスなんか二度としないから電話は掛けて来ないでちょうだい』
そして昼夜が何の反論を示す間もなく電話は強制的に終了させられそれと同時に二時限目のチャイムが鳴り響いたのだった。
二時限めの国語の授業は驚くべき程に時間が急速に流れて行った。時計の針を凝視しながらのこり二時間を切ったこずえの死までカウントダウンを始めた昼夜の心境がおよそ正常だったとは言えないだろう。加えて救いを求めて掛けたヤヨイへの電話も物の見事に空振りをした現状、昼夜が取るべき行動は一つ、現実からの逃避だった。
国語の教師が教科書を片手に古典文学の一節を読みあげているその光景がどこか別世界のように思えてならない授業があっという間に過ぎ去り時刻が十時半を過ぎ二時限目があっと言う間に終了していた。
そして救いを求めるべく昼夜がとった行動は愚かとしかいいようがなかった。
「卓都」
休み時間中、彼の手中にある携帯電話から発信された電波が向かった先は小空卓都の元だった。
『なんだよ』
数回のコールの後、不機嫌そうに帰ってきた彼の声が昼夜を迎え入れてくれる訳がなかった。しかし昼夜はその事に気づく様子もなく、いや、余裕もなく言葉を重ねていた。
「どうすりゃいいんだよ?」
『はあ?』
情けない事だとは充分分かっていた。しかし実際どうしたらいいのかサッパリ分からない昼夜が紡げる言葉はこれしかなかった。
「これから千駄木は死ぬ」
それはもはや逃れる事の出来ない確定事項のようでもあった。
「今の俺は……物凄く不安定だ。なにが何なんだかサッパリだし……混乱してて……その挙句お前なんかに電話してる。精神的に酷い状態なんだ」
『その挙句お前なんかにって、そりゃ随分と酷い言い回しだなオイ』
昼夜の弱り切った独白に卓都は思いの外フランクに言葉を紡いでいた。
『そんなに辛いんだったら学校なんか耽って家にでも閉じこもってろよ。引きこもるッて言うのは案外そう言う時に役立つ行動の一つなんだぜ。結構バカにされがちだけど』
卓都の意図した軽口が昼夜の精神にプラス的な意味合いで作用する事はなかった。現在、ただひたすらに昼夜の中で存在しているのはたった一つの懸案事項でしかなく、そしてそれを解決へと導くために必要な要素を内在している自分に対して、劣等感を抱いていたからだ。
「……卓都はどう思ってるんだよ」
昼夜の回りくどい質問に、それでも卓都は苛立ちを見せる事なく答えた。
『前にも言っただろ』
彼は冷静に言った。
『オレとこずえは協力関係にあるんだ。あいつを裏切る事は出来ないし、あいつはオレに対して裏切られないような行動をとってきた。だからオレはなにもしないよ。それにどう思っているかって問われればこう答えるしかない。あいつの願った計画が成功する事を祈ってるって』
「…………」
昼夜自身、卓都に電話をして何かが変わる等とは思っていなかった。一昨日彼の自宅を訪れ話しを聞いた時点で卓都が自分と考えを同じくしている等という希望は捨て去ったし、加えて昼夜自身の預かり知らない所でこずえとの密約が交わされている事に絶望すら覚えていたのだ。
立場が違ければ考え方も違うし、ましてや人と人などそもそも根本的に違う存在なのだ。
卓都が昼夜の足りない気持ちと言葉を補う為の一要素となる事などあり得なかった。
『つーかさ』
昼夜の沈黙をそのまんま沈黙として受け止めた卓都が改めて、気だるそうに話す。
『別にオレの意見なんか関係ねーだろ? その様子だとどうせヤヨイにも連絡したんだろうけど、昼夜、お前ヤヨイになんて言われたよ? 結局オレもヤヨイと同じ事しか言えそーにないから予め断っておくけど』
卓都は一言に言い放った。
『いつまでも子供のつもりでいるんじゃねーぞ。それにカッコつけ過ぎようとしててカッコわりいんだよ』
十七歳ニートから放たれた真実味を帯びた言葉に昼夜は絶句していた。しかし、それでも昼夜の中で眠っているそれらしき理由と言う物が蠢き、無様な醜体を晒す。
「……別にカッコなんかつけてない」
その発言自体がどのような意味を相手にもたらしているのかも理解しないまま、彼は続けていた。
「俺は、俺はこずえの気持ちを理解しているつもりだ。アイツは死ぬ事を守隠しって言葉に変えて、自分のプライドを守るために死ぬんだ。だけどアイツの中で死ぬって言うのは普通の人間が死ぬっていう風に考えるのとは違くて、人生の終着点だとは思ってないんだ。それに俺には責任がある。こずえがいじめられているの知っていながらそれに目をつぶっていた幼馴染としての罪と、昔好きだったっていうこずえからの気持ちが、俺の行動があいつを追い詰めた。だから今更俺がアイツに対して言える事なんて――」
『なに言ってんだか全然わかんね―けど』
強引に断ち切られた昼夜の言葉を、それでも卓都は救いとるにして言った。
『お前、なんで自分がオレやヤヨイに電話してきたか分かってね―訳じゃないだろ? もう何度も言われてると思うからいわね―けど、ホントいい加減カッコつけんのも大概にしろよ。つーかそれ自体がもう大分ダッサイ事してるって事にも気付けよ。そうじゃねーとホントに取り返しのつかない事になるってのにも気付け。ああ、あと』
卓都はまるで思い出したかのように付け足した。
『こずえって言えんじゃん』
それは昼夜にとって新鮮なフレーズであった。
『去年合った時から気になってたんだけどよ、お前ずってこずえの事千駄木って呼んでたじゃん? 小学校の時はこずえって呼んでたのにさ。まあ別に呼び方がどーこーって言うつもりはね―けど、もし昼夜、お前が自分の気持ちに素直になれて、カッコつけるって言う事がどういう事なのか分かってその時、目の前にこずえがいたら言ってやれよ』
卓都は敢えて一幕開けて、そして言った。
『こずえ、ってさ』
それは昼夜にとって使い古された、少し恥ずかしさを覚える言葉だった。
『もしかしたらそれがお姫様を現実へと引き戻す魔法の言葉になるかもしれね―ぞ』
そう言って卓都との通話は終了を告げた。
千駄木こずえ
その者の名が昼夜の中で確たる物として確立されたのは小学五年生の時だった。平日に行われた授業参観の日、突然算数で分からない問題を当てられた昼夜が右往左往している時、その隣りに座っていた彼女が小声で答えを教えてくれたのが彼にとって千駄木こずえとの最初の思い出だった。
小学生時代は全学年を通してクラスが一つずつしかなかったのだがそれまで昼夜とこずえの接点は殆どと言っていいほどなかった。というのも小学三年から突入した中学年の時期にクラスは男子と女子のグループに二分され、それぞれがそれぞれの領域を守るかのように活動していたのだから当然と言えば当然だろう。そして更に当然の如く、その時期男子グループのリーダー的な存在が昼夜だったのに対し、女子グループのリーダーがこずえだったのもその能力と容姿から言えば自然な流れと言える事だった。
しかしその小学五年の授業参観を機に互いを認識し合った昼夜とこずえが、気が付いたら母親同士がうまの合う存在であった事を知らされ、互いがくだらないグループの抗争めいた物に振りまわされている事に気付かされ、そしてそれらのしがらみがめんどくさいと思えるようになった時、既にクラス内における男子対女子などの構図はなくなっていた。
そして高学年へと突入した小学生達を待ちうけていたのが男子や女子といった括りに分類される事のないグループの微細化だった。
更に小学六年生に突入した頃になると中学生への憧れゆえか、以前にも増して勉強が出来る者を持て囃す空気が出来あがりグループの微細化とは別に、四教の四天王なる異名までもが出来あがる。そしてそれと同時に、どこのグループにも属する事のなくなったこずえの特異性が他の生徒達から、特に人間関係に細かな気配りと厭らしい根の回し方をするグループ達から嫌悪の目で見られるようになり始めたのだった。
誰か特定の人間とつるむ事を意図的にしない生徒は確かにいた。しかしこずえはそれを意図的に行っているのではなくごく自然に行っていたのだ。単純な話し、属するグループを複数に跨いで活動する生徒は自分の調子を相手の調子に合わせる事が上手い連中だった。
一方のグループで違うグループの悪口が飛び交えばそれに同調するし、逆もまたしかりだった。
それを意図的に行い交友関係を円滑に結ぶ者に対し、こずえはまるで真逆の対応を取っていた。
簡潔に述べればこうなる。
こずえは自分の調子を相手に無理やり合させるのが得意だったのだ。というよりこずえがその輪に入った時点で話しの流れはすべてこずえに根こそぎ奪い取られ主導権もかじ取りもエッセンスもスパイスも、全てがこずえ主導の元航行されるのだ。
それに疲れを覚えない生徒がいない訳無かったし、拒否を示す人間がいない訳もなかった。
客観的に見れば小学校中学年にてピークを迎えたこずえの人生折れ線グラフがそのまま下降線を辿るのは自明の理と言っても良かった。
しかし実際はそうではなかった。
圧倒的な完璧力を誇るこずえが中学へと入学したのを機に轟いたのは天才と言う名の称号だった。
中学一年の中間期に行われる全国統一の実力考査の結果が一位だったのを皮切りに彼女の行動が一々凄みを帯びて見えるようになったのはその冠が一地方の方田舎の町にとってまばゆすぎたからに違いないからだろう。
中学一年が終了する間際には既に英検、漢検、数検の一級を保持しトーイックの試験まで軽々と突破するその秀才を超えた天才ぶりに周囲はこずえに対して一目を置かざるを得なかった。
だがそれと同時に並行して生まれて行ったのがこずえの、俗にいう空気を読めないという対人関係においての能力の欠落だった。
だが当時のこずえは昼夜にこう言っていた。
「空気を読むってさ、実は周りと同調する為にあるんじゃなくて誰もが思ってる言い出しにくい事を読んでそれを発する事なんじゃないかな」
こずえの言う核心を突いた言葉に昼夜は沈黙するしか無かった。中学時代のこずえは現在とは毛色が違かった。俗に言うクラスに一人はいる真面目な奴、という雰囲気が当時は少なからずあった。仲間はずれにされている者を見かければ傍へと駆けより、理不尽な事件があると知ればその解決へと乗り出し、不正があったと認識すればその間違いを正す、そんな行動原理を元に生きているかのような、そんな少女だった。
そして当然の如く周りとの溝は深まって行く。しかし結果だけを着実に残していくこずえのその実力に周囲から生まれていた嫌悪と蔑みに加えて、露わにされる事のない妬みがそこに加わったのだった。
当時、まだ中学二年生だった昼夜はこずえにこう切り出した事がある。
「もうちょっと目立たない様には出来ないのか?」
と。思春期の少年がてらに、幼馴染の少女が周囲から嫌われている事は嫌だったのだ。元々容姿は可愛らしかったし長年の付き合いから本質的に悪い奴ではないと思い親切心と心配心から昼夜はこずえに、とある日の帰り道にそう言っていたのだが彼女の放った一言が昼夜に対してある種の決別的な意味合いをもたらせていた。
「なんか、ちゅーやもつまらないヤツになっちゃったよね」
その瞬間、小学五年生から徐々に積み上げられていたこずえに対する劣等感の塊がはじけ飛んだ。
昼夜は小学生のころから勉強、スポーツ、そして友人関係においても優秀とされる能力と結果を出している子供だった。周囲からはよくできた子だと褒めそやされ、友人たちからは何でも出来る凄い奴という認識を持たれていた。
しかしその影で常に昼夜よりも上に立っていたこずえの存在を、彼が知らない訳が無かった。
小学五年生まで同じクラスでありながら関わり合いにならなかったその奇跡的な男子対女子の構造も無意識の内にリーダーである昼夜が作りあげていたのではないかと、後になってから彼自身が思う。何故ならこずえとの接触を避ける為である。
昼夜は子供の頃から褒められるのが好きだった。だから周囲の中でも自分が一番でないと嫌だと言う、表には決して見せないがそう言った願望は確かにあった。だからこそ自分の世界の中に千駄木こずえと言う少女の存在を入れたくなかったのだが、しかし小学五年の授業参観を機に彼女は彼の世界の中へと侵入を果たしてきた。
しかし当時の昼夜はその事について深く考える事はなかった。それは彼がまだ十一歳という幼い年齢だったのもそうなのだろう。無意識的に感じていたこずえに対する劣等感を真正面から受け止めそれをコンプレックスとして認識するにはまだまだ彼は幼かった。
そして彼女との交流が始まり行動を共にするようになり、徐如に蓄積された彼女への感嘆、憧憬、賞賛、そして嫉妬。
それが中学二年のとある帰り道のある時、彼女の一言によって爆発したのだ。
翌日から昼夜はこずえの事を千駄木と呼び、そしてこずえはそれを意図してか、それとも先日言った通り気恥ずかしいから、という理由からかは不明だが昼夜の事を物部君と呼ぶようになった。
次第に二人の関係は薄れて行きこずえの状況は悪化の一途を辿って行った。
中学三年の夏、彼女は一体誰と共にその一ヶ月近くもある休みを過ごしたのだろうと、昼夜はよく他の友達と遊びながら思った物だった。
一方、その中学二年の夏ごろより千駄木家にまつわる後ろ暗い噂が流れるようになっていた。
両親の離婚に、見知らぬ男の頻繁な出入り。噂にどのような尾ひれがついたのか当時十四歳だった昼夜がその詳細を知っている訳もなかった。しかし事実としてあげられる物の一つとして物部家と千駄木家の両母親間で行われていた交友がその夏を境に一切なくなったという事だけしか昼夜にはわからなかった。
学校でも当のこずえは何一つその話題を口にする事もなかった。そして様々な疑問が解決される事がないまま、昼夜とこずえの中学時代は終焉を迎えた。
猛勉強の末に入学する事が出来た進学校に思いを馳せながら、それでもこずえが自分と同じ高校に難なく受かった事を知っていた昼夜が既に彼女に対して自ら声をかける事は殆どなくなっていた。
関係ないと、昼夜はそう思っていた。例えこずえと同じ学校だろうと、同じクラスになろうと、もはや彼女は関係ない。確かに幼馴染という関係を抜きにして彼女を語る事はできないが、現状の自分を語る上では必要不可欠な存在ではないのだと、そう認識する事によって昼夜はこずえに対して生まれる自身の劣等感を隠し高校へと通った。
入学から一ヶ月。奇しくも同じクラスとなった彼女へと舞い降りたのがクラス総勢で行われたいじめ、いや攻撃だった。
こずえはその理不尽な仕打ちに反抗を示した。ありとあらゆる正攻法を辿り、大人を頼って、正論をぶつけ、報復をしなかった。まるでガンジーの非暴力、非不服従を連想させるかのようなその行動にクラス中の生徒達が余計に怒り、いや、苛立ちのボルテージを上げない訳が無かった。客観的に見た場合、確実に自分達が悪者とされている事に気付いたクラスメイト達の熱気は最高潮に達していた。
具体的になにをされてきたのか、実際どのような被害に合ったのか、正直な所昼夜は知らない。もちろん教室内で行われた休み時間中の小競り合いぐらいならその内容を知ってはいるがその背後に隠された陰湿で暴力的な内容のいじめと称される攻撃を、こずえがどのように受けていたのか、彼はそれから二カ月間、目をつぶり続けていた。
関係ないと、そう自分に言い聞かせながら昼夜は目を全力でつぶり続けていた。こずえの方からも昼夜を頼るようなそぶりは見せず、子供がいじめられた時に頼るべき存在を順序立てて当たりそれらが全て不意に終わっても、彼女は一日も遅刻する事なく、休むこともなく登校し続けた。
昼夜の中で千駄木こずえと言う幼馴染が半ば化物染みているとさえ思えるようになってそれが彼の中で=関係ないと結論付けられそうになっていた。
しかしそんな時だった。
一年前の夏休み直前の終業式直後の事だった。事もあろうにこずえは言うのだった。
「守隠しって知ってる?」
そこから始まった昼夜とこずえの奇妙な関係が何をもって成り立っていたのか、それは未だに昼夜自身分からない事だった。
関係ないと決め込んでいたにも関わらず耳を貸してしまった昼夜。まるでその場に幼馴染などいないかのように振る舞ってきたこずえの態度。
二人の意思が中学二年から遡り一年半振りに交錯した瞬間、そこにあったのは復讐心と罪悪感だったのかもしれない。
少なくとも昼夜はそう考えていた。そしてそれを名目にこずえはそれこそ化物染みた感覚を昼夜へと押し付け無理難題を吹っかけて来るのだった。
守隠しとは死ぬことではない。
こずえの滅茶苦茶と言っていいだろう理屈が昼夜の中で非現実的な日常を作りあげ固まって凍りついていた関係に熱が加わり始めた。
多くの言葉をかわし、奇妙な関係の元進んでいく話し。
傍から見ればそれは友達以上恋人未満的な関係に見えたのかもしれないし、小学生の時から続く旧友とのじゃれあいに見えたのかもしれない。
しかし昼夜の中にあったのは確実なる罪悪感で、こずえの中にあったのも恐らく復讐心だったのだろう。
こずえは昼夜の事が好きだったと言った。それは紛れもなく過去系で自らがいじめられているにも関わらず助けてくれない想い人に呆れを通り越して半ば八つ当たり的な復讐心を抱いたのは昼夜からしてみればこずえにも若干の人間味があるのだなという、新たな発見でもあった。
しかしそれ以上に昼夜とこずえが過ごした一年間は膨大な時間でありながら、明らかに空虚でもあった。
学校でも毎日会っていると言うのに、それ以外でも三日に一回は顔を突き合わせ計画の話しをしていると言うのに、そこから脱線が始まる与太話へと続くいつも通りのレールは半ばマニュアル化しているかのようでもあった。
多くの言葉をかわし、今後の事を話し、互いの腹に抱えた本心を隠すその会合に意味はなかった。
そう、昼夜はこの一年間何一つ、こずえに本音を語った事はなかった。
こずえから提案された刑罰に誘われただ彼女に手を引かれて歩いていた日々。こずえが発する言葉の数々に自身との性質の違いを抱きながらそれを劣等だと決め込み本心を抱え込む日々。
再び出会う事となった旧友たちから耳にタコが出来るほど言われた言葉。
こずえは笑顔で最期にこう言った。
ありがとう。
さようなら。
楽しかったよ。
後ろを振りむかず背中を見せ続けながら言った彼女の言葉に、彼女自身が釘をさす。
言葉に意味なんかはないと。
言葉は楽しいと言う思いを共有する為の道具だと。ただその為だけにある物だと。こずえは最後に昼夜へとそう伝えた。それが一体何を意味するのか、もはや昼夜にその答えが分からない訳が無かった。
この一年間彼女が自分の前で悲しい顔をしていた事があったか?
二人でマックにいって計画の話しをしながら、それとは関係ない話しをしている時、彼女が笑っていなかった事があったか?
上野に言った時、買い物をしている彼女の目が輝いてはいなかったか?
「楽しかったね。アメヤ横丁」
「さすが物部君」
「どしたの物部君?」
「責任重大だね」
様々なこずえの言葉が昼夜の中で浮かび、そのどれもが彼女らしい天真爛漫な笑顔で彩られている時、最期にこずえの言葉が過ぎる。
「なにが起きか分からないから、転換点なんだよ。歴史上死んだ人間が一度も生き返ったなんて事実は一度もないでしょ? だから死の先になにが待っているのかなんて誰も分からない。もしかしたら本当に天国や地獄があるのかもしれないし、生まれ変わりのチャンスだってあるかもしれない。或いは未だに誰もが想像した事のない未知の世界が待っている可能性だってある。人間は皆死って言う物を一括りにして人生の中で最終的に迎える仕方の無い物として割り切っているけど、私はそうは思わない。科学的にその先になにが待っているのか立証できない以上それは人生の終了だと言いきる事は出来ないし、転換点であるべきだと思う。何も一括りに死を忌避すべき物や逃れられない物として一概的に当てはめて考える必要もないと思うの。
人間は皆それぞれ思考し、直感する事が出来るんだから私にとっての死と物部君にとっての死が違うのは当然だし、それを死と認識するか、傍から見て不幸な事だと分類するか、それこそ無意味だと思う訳」
昼夜は思わずため息をついた。
そして気が付く。
今回もまた素直にはなれそうもないと。何故なら気が付いてしまったから。そう思う事にしてしまったから。それが自分なりのカッコの付け方だと認識してしまったから。
千駄木、いや、こずえ。
昼夜は授業中のその最中、決然と立ち上がり、クラス中の生徒が衆目する中で決心するのだった。
お前はウソをついている。
あの言葉に込められた彼女の気持ちを昼夜はウソと断定する事に決めた。だから、動く覚悟が出来たのだった。
お前は守隠しなんか望んじゃいない。
本当に望んでいるのは、誰かが、いや、この俺がその行為を、顔色を真っ青にしながら止めてくれるっていうその事実なんだ。
そうだろ?
だってお前が言ったんだもんな?
言葉なんて信用するに足らないツールだって。
言葉の本来の目的は楽しさを共有する為にあるってさ。
昼夜は教室の時計に視線を送った。
時刻は現在十一時十分。守隠し計画実行まで残り二十分だった。
昼夜は誰の目も気にする事なくこずえの元へと向かって走り教室を後にした。




