3・4
九月五日。火曜日。夕方の六時。つまり翌日。
昼夜の目の前には茶のブレザー姿のヤヨイが不満そうな顔をしながら立っていた。
「なに?」
ヤヨイの通う高校の正門での事である。
昼夜は下校と同時に電車に乗り二駅離れたヤヨイの住む街へと向かっていた。そしてなんの躊躇いも無く彼女の通う高校へと向かい、正門まで辿りつくとなんの確証もない待ち伏せを敢行したのである。当然携帯電話に連絡は入れていたがいつかけても留守番電話となる不通っぷりから業を煮やした昼夜がいつまででもそこで待ち続けてやると、既に下校をしてしまった可能性を全く捨てきった状態での待ち伏せに冷静さがそこにある訳などなかった。
そして待ち伏せから一時間弱。やっとの事で出会えたヤヨイを前に、昼夜は話しがあると彼女を連れ近場の喫茶店に入ったのだった。そして席についたヤヨイから開口一番、飛び出してきた言葉は昼夜からしてみても容易に想像が付く言葉だった。
「まさか今頃中止にしようだなんて思ってる訳じゃないでしょうね?」
だが昼夜は首を横に振る。確かにその事実が昼夜の中で蠢いていない訳では無かったが、その前にまず、確認しなくてはいけない事があった。
「一体何が目的なんだ?」
単刀直入な切り口にヤヨイが若干目を瞬かせた。しかし即座に切り返してくる。
「目的って、何の話し?」
当然のようにとぼけるヤヨイだったが、しかし昼夜は気になどしなかった。およそ一か月前。夏休みの最中、上野の占い師の店で出会ったのは事実なのだ。そしてその理由もしっかりと聞いている。
自分を孕ました男が誰なのかを確認したかった。
そう言ったヤヨイがその後こずえの誘う守隠し計画に参加するなどメリットが無ければあり得ない話しだった。
そうメリット。
ヤヨイにとっての有益。それが一体何なのかを昼夜は割り出そうとしていた。そして割り出した先にあるメリットによっては今後の展開が変えられるのではないかと、そう思ったのだ。
しかし
「物部、あなた昔っからそうよね」
ヤヨイはまるで昼夜の考えている事などお見通しだとばかりにため息をつきながら言い、続けた。
「それなりに頭は回るクセに肝心の行動がちぐはぐで、しかもそれを素直に表わす事が出来ない。たった一言、自分の気持ちを正直に言えれば状況が変わるっていうのに、知っててそれをやらないんだから性質が悪い。あなたは昔っからそう。素直に慣れないのは他人からの視線を気にしてるから。素直になった時の自分が他人の視線からどう写るのか怖くて、実行出来ない。ただの、いえ相変わらずの」
ヤヨイは残酷に言った。
「臆病者よ」
その言葉に昼夜は膝の上に置いた拳をギュッと握りしめていた。そんな事は知っていると。しかしそんな知っている事にさえ内面から直接向き合いたくないという、自分でもあきれ果てる程に臆病な性質がそこに巣食っている事に、昼夜自身気付いていた。だから昼夜は今こうして、ヤヨイと喋っているのだろうと、そもそもお門違いな訪問に腹さえ立つのだった。
「で?」
察しの良いヤヨイが昼夜の胸の内に土足で入り込んでくる。
「私の目的がなんなのか分かれば、分かった上でそのメリットを自分から与えられる事が出来ればこずえを殺すっていう義務的に行ってる契約が不履行になって殺人を止められる一つのとっかかりになるんじゃないかって思った訳?」
数瞬の沈黙の内に昼夜は頷いた。そしてヤヨイは吐き捨てる。
「回りくどい。というより」
それこそ道端に噛んだガムを捨てるかのように
「めんどくさい」
昼夜自身その通りだと思った。しかしこれはこれでしょうがないのだと諦めている自分がいる事にも気付いている。
「あなたいつまでこずえにコンプレックスを抱いている訳? 昔からそうだったけど、物部は昔からそうだったよね。なまじ自分が中途半端に優秀なせいか、それ以上の人間に出会うと自分がどう思われてるか気になって委縮しちゃうっていうね。まあ昔っていっても小学生の時しか私は知らないけど、結局関係性は変わらなかった訳ね」
それは、そうなのだろう。
と昼夜は心からそう思った。と言うよりも関係はより一層悪化しているとさえ思っていた。こずえに対して抱いていた劣等感、そこに更に加わったのはいじめを観察する傍観者としての罪の意識だった。
「本当にめんどくさいわね」
再び言うヤヨイ。
「一言あなたの口から言えば言いだけなんじゃないの? 死なないでくれって。案外それで事は解決するんじゃないの?」
だが昼夜にはとてもそうは思えなかった。
「……無意味だよ」
それはこずえを自分と同じ人間として扱った意味での返答ではなかった。
「あいつが自分で決めた事に対して口なんか挟める訳が無い。そもそも俺はあいつからの復讐の対象にされてるんだ。俺の意見なんか聞いてくれる訳が無い。それに」
昼夜はヤヨイの目から視線を逸らし、コーヒーに映り込んだ自分を見ながら言った。
「あいつの言っている事って、すべて正解なんだよ」
極端な話しだとも実際自分で思った昼夜ではあったが、しかしそれはすべからく外れでも無いとは思っていた。
「あいつは何一つ間違っちゃいない。言葉の一つ一つに虚飾が一個も混じって無いんだ。全て本気で、全て叶える。そして俺の考えの何周も先を言って、物事の本質と真実を掴んでるんだ。だから……」
「だから素直になれない?」
それは違うと、断言したかった。しかし出来ない。昼夜の中にあるこずえに対する劣等感が崩れ去る事はなかった。
昼夜の沈黙にヤヨイは呆れ果てたかのようにため息をついた。まるでもうこの話題をこいつとしても時間の無駄だと判別したかのように吐息を一つつくと再び口を開いた。
「で? 明日は小空の所に行く訳?」
見え透いているわね。と愚痴るように言った後ヤヨイは続けた。
「そんなんじゃ行っても結局何一つ変わらないと思うけど。こずえを殺す事を躊躇ってる当の本人がそんな様子じゃあ叶う望みも叶わないわよ」
「…………」
昼夜は黙る。もはやなにを言ってもヤヨイのペースから抜け出す事は出来ないと思ったからだ。しかし当初の目的だけは果たそうと、もはや何のためにここへ来たのか分からなくなっていると言っても言い程の混乱ぶりを露呈しながら彼は喋っていた。
「そんな事より、お前の目的はなんなんだよ」
と、今度はヤヨイが沈黙をする番だった。しかし明らかにヤヨイの沈黙は昼夜のそれとは違っていた。まるで値踏みするかのような目を昼夜へと差し向けてくるヤヨイが数秒の間を置いて後、素直に答えを語ってくれる訳等なかった。
「教えない」
更に続ける。
「というか、あなたバカなの? 今さっき私に素直になれって言われたばかりじゃなかった? それをどう曲解したらふりだしに戻る訳? もっとも、理解した上でふりだしに戻っているんだとしたらもう手がつけられないんだけど、私から一つだけ、あなたに忠告出来る事があるとすればこれしかないわ」
一間置いて、ヤヨイは言った。
「自分の行動の根本となっている原因と理由を探して、恥を捨てなさい。何故計画実行日を四日後にしたのか、どうして今私に会いにきているのか、よく考えなさい。そして」
まるで母親が告げる小言のようにヤヨイはこう言った。
「素直になりなさい」
何度同じ事を言われたのだろうと、昼夜自身耳にタコが出来るのではないかと思えるほどに連呼されたそのワードを右から左へと通過させないように、いや、敢えて通過させるように聞き入れた。そして昼夜も同じ言葉を繰り返すのだった。もちろんそれは無理と判断した上での事ではあったが。
「で? 結局深澤の目的が何なのかは教えてくれない訳か」
「当たり前でしょ」
ヤヨイは言う。
「知りたきゃ自分で考えなさい。ヒントはもう既に出つくしてるんだから、それ位分かりなさいよ」
「ヒントね」
昼夜は腕を組みながら言った。もはやヤヨイから情報を聞きだすのは無理だと悟っていたが、それでもどことなく、彼女の言葉で少しばかり胸にかかっていた靄が溶けたような気がして気分はいくらか上向きになっていた。だからこそそんな彼女の忠告を取り入れようとした訳だったのだが、ヒントと言われても……と昼夜は頭を捻りかけた。
しかしそんな時だった。
「じゃあ最後のヒントを上げるわ」
とヤヨイが少し楽しそうに、まるでゲームをしているかのような口調でいつもの横柄さを醸し出しながら言ってきた。
「私の目的はなにもこずえを殺す所までがメリットとして成立している訳じゃない」
その言葉に昼夜は「じゃあ」と口を挟みかけたがヤヨイはそれを制して言った。
「ただ私には私の価値観からこずえのやろうとしている事にある種の共感を覚えている。それに利用させてもらった分だけ恩返しもしたいと思ってる。だから計画は完遂するまで手伝う。そこは勘違いしないでちょうだい。もう私の計画は半分達成されているの。あなた達と一緒にいる事によって得たチャンスを半分は物にしている。だから、勘違いはしないで」
半分は遂げられている……
昼夜がヤヨイの言葉を反芻する傍らで、彼女は珍しく笑顔で言うのだった。
「それが私から物部に贈れるヒント。だからもう私の事は気にしないでちょうだい」
それはある種の、ヤヨイから昼夜に贈られたもう一つの、最大のヒントでもあったのかもしれない。
「私は私の意思でこずえの計画を完遂させてあげたいと思ってる。だけど、物部、あなたにならこずえを別の形で守隠す事だって出来るっていう事を忘れないでちょうだい」
その言葉になにが込められているのか、昼夜が分からない訳がなかった。しかし、ただ単純にそれを実行する勇気と素直さが無い事だけに気付いている昼夜なのだった。
夕日が沈み、月が夜空を駆け抜け、太陽が正中線へと昇りつめた時。つまり翌日の九月六日、水曜日、十二時の事である。
昼夜は卓都と共に彼の実家、小空邸にいた。当然の事ながら学校はどうしたと、そもそもな疑問が付きまとう状況設定ではあったが、それこそ当然の如く、昼夜は学校をさぼっていた。
だからこそ、昼の平日の旧友宅訪問である。そしてその旧友宅訪問が懐かしながらも五年前に受けた時の衝撃よりも倍になって昼夜に降りかかっている事に、彼自身驚いていた。
小空卓都の一家は皆総じて医者である。診療所を営む父親にそれを切り盛りする医師免許をもった母親。二人の兄も当然医者で東京の大学病院と大手総合私立病院に勤務するエリート街道まっしぐらなバリバリの医療一族だった。
当然そんな医者の給料によって支えられた小空家の自宅がどこぞの一軒家と遜色ない訳無く、診療所と併設されたその豪邸みたいな屋敷に昼夜が驚かない訳がなかった。そして昨今の社会問題となっているニートと呼ばれる若者が、そんなエリート一家から排出されたのもまた驚きと共に意外でもあったのだ。
「なんだよ突然?」
インターホンの先から聞こえて来た卓都の声に、昼夜は会って話がしたいと言っただけだった。実際怪訝に思われるのは覚悟の上だったがそれでも数秒の間もなく自動式の鉄門が開いたのは昼夜にとって何よりも救いだった。
「学校はどうしたんだよ?」
玄関を開けたと同時に放たれた言葉に、お前に言われる筋合いはないと返してやろうかと本気で昼夜は思ったが、久々に訪れた小空邸の余りの豪奢さにそのような口が聞ける訳がなかった。
玄関だけで自分の部屋と同じ位の広さを誇るのではないかと思えるほどの靴脱ぎ場で昼夜はスニーカーを脱いで、案内されるがままに卓都の部屋へと通された。卓都は今し方起きたばかりと言った感じの風体でボサボサ頭に半パン半袖という、非常にラフな格好をしていた。
少なからず豪邸に訪れたと言う緊張感を緩和させてくれた友人の無意識的な計らいに感謝しながらも、しかし卓都の部屋へと通された直後、彼から言われた言葉に昼夜の機嫌は悪くなるのだった。
「まさか今頃中止にしようだなんて思ってる訳じゃないだろうな?」
なんなんだお前等はと、唐突に叫んでやりたくなったがその言葉の内に昼夜の本心のどれだけの成分が隠されているのかを考えたら、とてもそんな言葉を吐く事など出来そうも無かった。
だからだろう。昼夜は十畳程はあるだろう一介の十七歳ニートには勿体ないであろう雑然とした部屋を見渡した後、こう切り返すのだった。
「相変わらず汚ない部屋だな」
余計な御世話だ、と卓都は忌々しそうに返したがその後昼夜に同じ質問をする事はしなかった。
そして一しきり汚ないと認定されるべき部屋についての議論を交わした後、二人は落ちつくべき所へと落ち着いて(卓都はベッドの上で昼夜は直に絨毯へと座り)、腰を据えて話しをするのだった。
「卓都」
昼夜はわき目もふらずに、かつて博士と呼ばれた今は無き金髪少年を見据えながら言った。
「お前の目的はなんだ?」
それは昨日ヤヨイに問うた質問とまるで同じ内容の言葉だった。昼夜自身昨日と同様の質問を同様の意味で同様の心境で聞いている事に、自分の内面的成長が全く成されていないと自己認識している訳なのだが、そんな事は関係なかった。卓都にとって、その言葉は初耳なのだから。
「目的?」
卓都は意外な言葉が出て来たと、まるで表情で語るかのように昼夜へと問い返した後「ああ」と頷くのだった。何か思い当たる節があるのは確実な言動ではあった。そして直後の答えが揺るぎようの無いウソにまみれていたのは事実だった。
「そんなもん知らねえよ」
知らねえよじゃねえだろ。
昼夜はまるで卓都のお株を奪うかのように乱暴な言葉遣いを用いてその真意を問いただすのだったが昼夜は一貫して、いや、一転しながらも一貫して口を開く事はなかった。
知らねえよではなく、教えねえよ。結局の所卓都にとって昼夜へと情報を伝える気は無いらしく、その最初の言葉がどうでもよかったのは確かだった。知らねえよだろうが、教えねえよだろうが関係はない。結局の所、喋る気がないのだから。
「つーかわざわざ学校サボってウチまで来たんだったらもっと別の、楽しい事でも話そうぜ」
「話せる訳ないだろ」
昼夜はバスケの試合の速攻を連想させる間で卓都の言葉を否定した。
なに考えてんだバカと、侮辱をしていた。だが卓都は気にせず会話を続けていた。
「いや、最近思ったんだけどよ、オレなにか部活でも入ってたらこんな生活にはなっていなかったんじゃねーかって、心底思うんだよな」
なにを話しだすのかと思えば唐突に始まったのは現在の自分を顧みた結果の、たられば論であった。それこそ心底付き合いたくない話しの展開に昼夜は頭を抱え込もうか迷ったのだが、しかしそこに付随された情報に彼の耳が閉じる訳などなかった。
「こずえもそうだと思うんだよな」
何気なく言った卓都の言葉に昼夜は視線を上げる。そして目だけで問い返し、卓都と会話のキャッチボールをやってのけるのだった。
「いやだからさ」
とここで卓都お得意の分析論が始まるのだった。
「こずえって頭の中で勝手に自分の答えを見つけてそれを絶対の物としてるじゃん。それって他人から見たらバカみたいだと一見思われるんだけどさ、実際こずえのは違うんだよ。何故ならあいつは絶対にその考えを他人に押し付けないから。他人と考えを共有しようとしないから、そもそもあいつは別次元にいるんだよ。普通人間って奴は自分の考えがあるとするとそれを他人に披露したり、それが正論だって押し通したりしたくなるものだろ。そこには確実に他者に対する関心があるからそういう気持ちが生まれるんだと思うけど、でもこずえは違う。あいつは他人なんか関係ないんだ。自分の世界の中で答えを出して、終わってる。導いた答えをそのまま全て自分の物にして離さないんだ。この場合話さないっていうのとも掛かってるんだけど、まあ上手くはねーか。いやまあそれはどうでもいいんだけどよ、だからさ、あいつが出してる人間としての本物臭もそこらへんい起因しているような気がするんだよな。
どことなく、他者を気にしない能力的に高い奴って、孤高とか、天才とか、そういう印象うけるだろ? こずえもそれと同じな訳だ」
長い卓都の説明に昼夜は少しウンザリしながらも会いの手を入れる。
「で? それでなんで部活が出てくるんだよ」
「だからよ」
卓都は嬉々として言った。まるで喋り相手が出来て喜んでいる牢獄の中の囚人のように。
「あいつの中にある閉じ込められた確たる答えが他者に対して絶対的な印象を与えているのはあいつが他人に関係しようとしないからだ。これはあくまで本質的な意味でだぞ。外面的には喋ったりするかもしれねーけど実際は違うって意味だ。あいつの思考は自分の中だけで完結している。だから今回の事にも繋がっているのかもしれねーけど、だからこそ、あいつは部活をやるべきだったんだ。
部活なら何でもいいって訳じゃね―けど、そうだな、テニス部とか、そういうった感じの勝敗が付くような部活、つまり相手の事を気にしない事には始まらないスポーツをやるべきだったんだ。
そうすりゃアイツの中で解決しちまっている全ての答えに対して、反対の意見をぶつけてくれるヤツが現れてくれるはずさ。アイツはなまじ能力が高かっただけに、自分に対して反論をぶつけてくれるヤツがいなかったんだよ。オレや昼夜、ヤヨイだってそうだろ。アイツに適う訳がないって、そう思いながら勉強も、会話もしていたし、それは本来的外れでしかない人間性に対してだって当てはめられていた。だけどスポーツは違う。アタマデッカチな奴がいくら考えて頑張ったってどうにもできない時がある。そりゃ当然さ、相手だって負けたく無くて必死なんだ。そこにあるのは能力的な先入観や刷り込みなんかじゃない。負けたくないって言う、強い互いの気持ちなんだ。だから」
「自分の中にある答えが必ずしも正解では無いって、そうこずえに気付かせられるって訳か?」
「そうだ」
卓都は言いきった。
「あいつは迷わないんだ。人間誰だって自分の考えや決定した事に悩んだり迷ったりするもんだけど、あいつは迷わない。さっきも言ったと思うけど、そもそも思考する力が高いだけに簡単に正解へと導かれるせいで、それに加えて本質的に他人なんかどうでもいいと思っているからこそ、あいつは迷わないで、簡単に自分の考えに殉じる事が出来る。だからこんな結果に繋がっているんだ」
「でも」
昼夜はそこでふと思う。
「あいつの守隠し計画はクラスのいじめが原因だぞ。今じゃもうすっかりなりを潜めた風ではあるけど、未だに陰湿な形でいじめはつづいてるみたいだし、そんな他人なんか関係ないと思ってるやつが他人からのいじめ何かで自殺を選ぶと思うか?」
「だから守隠しなんじゃねえの?」
「あ……」
昼夜は何となく納得してしまった。こずえが自殺という言葉を使わない理由。守られて、隠されて、救われる、その言葉を使用していた意味が、今になってやっと、感覚的に分かるような気がした。しかしあくまでと、卓都は続けていた。
「あるいは、本当は違う理由があるのかもしれねーけどな」
その言葉を聞いた瞬間何故か秦雄一のだらしない顔が連想されて寒気がした。考えただけでもゾッとする正体不明の中年男に昼夜は恐怖すら覚えていた。そしてその恐怖の根源が何なのか、卓都にだったら話せるのではないかとそう思った。
「……秦雄一」
「あ?」
卓都からしてみれば唐突に放たれたであろう知らない人名に表情が怪訝になったのは当然の事だった。しかし昼夜は気にせず言った。
「卓都は知らないか? こずえの両親が離婚した話し。多分あれは俺達が中学二年の時だったと思うけど、父親が出て行ってこずえと母親はそのまま家に残って……」
秦雄一が現れた。
昼夜は自分でそう言い終えた後、何故か違和感を覚えた。
一体今の言葉のどこに違和感の正体があったのだろうと、まるで今までの人生の中で大事な部分を見落とした事に気付きながらもその正体を見破れないモヤモヤとした感じに苛まれそうになった時だった。
「へえ、噂でなんとなくは聞いてたけど、出て行ったのは父親の方だったのか。普通持ち家だったりしたら金銭的な事も考えて母親と子供の方が出て行く事が多いのに、なんか逆だな。で? その秦雄一って誰だよ?」
そう言われた瞬間に昼夜はハッとした。それは秦雄一に関する別のアプローチでの、新たなる猜疑心となる事実だったが、それでもこれでまた一つ、昼夜は彼に新たな不信感を抱かずにはいられなかった。
確かによく考えてみればおかしかった。こずえの家はそれほど小ぶりな一軒家ではない。それこそ中の上に位置していそうな家庭が多額のローンを背負って持つ事の出来る一戸建てという感じである。そんな一言で裕福と言っていい家庭の大黒柱を失った母子が養育費や慰謝料を含めてもそのままあの家に継続的に住む事が可能だろうか? 或いは住む事が可能だったとしても家族二人であの大きな家に住む事を選択するだろうか? 更に言えば秦雄一というヒモ同然な男の存在に対して、こずえの母、清子は仕事らしい仕事はほとんどしていなかった。こずえからそう言った話しは聞か無いし、界隈で噂になっているくらいだからどこの職場に勤めているとか風のうわさで回って来そうなものだがそう言った物も一切ない。
それなのに一年前に千駄木家へと言った時見たのは高級感溢れるインテリアに囲まれたリビングだった。
購入費、維持費が共にかかりそうな調度品などが並べられている部屋の中で清子はなんの仕事もせずにぬくぬくとヒモと娘を養って生活している。
更に中学時代から近所で立ち始めた噂も今になってみれば、昼夜自身その噂の本質を見抜けていなかった。
今までの状況を全て踏まえるととある一つの出来ごとが連想される。これは行きすぎた、ある種日常の家事に飽きた主婦達の遊びの一種なのかもしれないが、なんとなく的は得ているような気がした。
離婚と同時に自宅を開け渡し出て行った旦那。生活の質を落とさないどころかヒモさえこしらえ自宅に入り浸らせる妻。離婚後誰も見た事のないこずえの父親。こずえは父親の事を一切話さず、家族の事について、秦雄一の事についてまるで戒厳令を敷いたかのようですらある。
そして昼夜は更に思い出す。
ひと月前、こずえと共に訪れた占いの館でのこずえの言葉である。
『私が本来ここに来た理由、つまり無言を以って相手にそのメッセージを伝えるという手段も、占いと言う手法から持ってすればそれは邪道だし、何より失礼だと思ったからです。私の口からは言えない私の事を、占い師さんを通じて誰かに伝えるなんて、それは間違いでした。そう気付かされました。だから、占いを辞退させていただきます』
私の口からは言えない私の事を
彼女は昼夜に何かを伝えようとしていたのだ。無言を以ってして。しかしマエストロ桂子の占いはそう言った類の物では無かった。あの老婆の占いはこれからの人生相談に近い形での物だった。だからこそこずえは占いを拒否した。これからが無いから。もう終わる人生だから。
ただこずえが欲したのは、自分からは口に出来ない事実を看破され隣りにいる昼夜にその事実が伝わる、伝えられる事だった。そしてその事から導き出された昼夜のひらめきに、今さっき、卓都に言われた言葉を加味させる。
『あるいは本当は違う理由があるのかもしれねーけどな』
昼夜は思わず立ち上がっていた。そして開口していた。
「殺された」
「は?」
卓都がキョトンとする横で、昼夜は考える。
妙な噂が立っているにも関わらず千駄木家があの家に住み続ける理由。こずえが秦雄一の話題を嫌う理由、秦雄一がこずえに接触するなと言ってくる理由、こずえが家に寄りつかない理由、その全てが、あくまで推測でしか無い域ではあるが解決されたような気がした。つまり、
こずえの父は多額の保険金か何かを掛けられた状態で殺され、防腐処理等を施され千駄木家に隠されている。
あくまで推測でしか無いと、そして本当に猥談の類いでしか無いと、昼夜はそう思った。しかし何故か今までのこずえの言動を見ているとその行動の全てがこの事実に直結しているようでもあった。
三人で殺した。そしてこずえはそれを苦に思っている。考えてみれば確かにおかしかった。こずえは他者を相手にしていない部分が確かにある。それは小学生時代から中学生時代にかけてもそうだったし、今でもそれは同じだった。それなのにいじめを苦に自殺というのはどうにも違和感があるのは確かだった。しかしこずえはその違和感を昼夜への復讐と称する事によって曖昧にし、守隠しと称する事によって物事の本質から、真実から目をそむけさせていた。
だからこそ……
「卓都」
昼夜は立ち上がったまま卓都を見降ろし、改めて同じ質問を彼へと投じた。
「お前の目的はなんだ?」
だが卓都は同じように首を振るのだった。
いえね―なと。
だがヒントだけはくれた。
「あの落とし穴関連でのやりとり聞いて分かっているとは思うけど、オレとこずえは繋がっている。裏の目的でな。だからオレの目的を言う事はこずえの真の目的をばらす可能性にもなるからそれは言えない。まあ、実際はそれ程オレとこずえの目的がリンクしている訳でもねーんだけど、どこから情報が漏れるかは分からね―からそれは言えない。どうせこれからヤヨイの所にでも行くんだろうけどアイツだって――」
「もう行ったよ」
昼夜の言葉に卓都は「二番目かよ」と少し悔しそうな言葉を口にしながら続けた。
「まああいつも同じで目的は言わなかっただろう? アイツの場合はこずえと協調しているというよりもこずえの守隠し計画を利用していた、という認識の方が強いんだろうな。もちろんこずえもその事には気づているけどな。まあ要するにお前は誰からも情報を手に入れられないって事だ。本当に望んでいる事があるんなら自分の足を動かして、目的の所まで行かなきゃ何も始まらないっつーことだ」
結局の所卓都もヤヨイと同じだった。最後のしめは彼女と殆ど同じで、最終的には自分がどうしたいのか自分で考えて素直に行動しろと、そういう事なのだろう。
しかし昼夜はそれ以上にもしかしたらあり得ているかもしれない唐突な衝撃的事実で頭が一杯だった。それに卓都が言ったこずえの裏の目的、という単語も無視をする事など出来なかった。
「まああと二日もあるんだし、とりあえず家にでも帰って頭冷やしてから行動しろよ」
いや
昼夜はかぶりを振りながら言った。
二日も必要無いと。必要なのは学校が終わるまでのあと四時間だけだと、そう断言して昼夜は卓都に礼を言うのだった。
「助かったよ」
卓都にしてみれば求められた答えを解答していないのにも関わらず真っ直ぐに放たれた感謝の意に当惑をするしか無かったのだが、昼夜はそんな若干のうろたえを見せる卓都の表情に面白味を感じる暇もなく、脱兎の如く卓都の部屋から出て行くのだった。背後から掛けられた卓都の声を聞きながら。
「あんま入れ込み過ぎるなよ!」
この時まだ、昼夜はその言葉の本質的な意味を理解出来ていなかった。
卓都の家から飛び出した昼夜は一目散に学校へと向かった。携帯を取り出しながらこずえへと電話をかけるがまだ授業中なのだろう。携帯は留守番電話サービスセンターへと速やかに移送され昼夜のいきり立った思いが彼女へと伝わる事はなかった。
このまま学校へ乗り込んでも大丈夫だろうか?
正午を迎えた真夏の日差しを受けながら昼夜は走っていた足を止め思考した。そもそも今日、自分が風邪を引き学校を休んでいるという事になっている事を思い出し、そして更に考える。まだ守隠し計画実行までは二日ある。何も今日、焦って彼女の所へとぶつかりに行く必要はないのではないか。そして生まれた疑惑を確かめるには今、この時間を利用するのがベストなのではないかと、ただ立っているだけで蒸れそうになる暑さの中、昼夜は住宅街の路上で一人佇み考えていた。そして行きついた答えは案外に調子のいい物だった。
冷静になった状態での状況整理。あくまで昼夜自身がこずえに対してどのような感情を抱いているのか、という根本的な問題を除外した上での。
つまりそれは問題の表層の上をなぞるだけの行為でしかなかった。そもそも昼夜が提言したこの四日間はこずえの為にあるのではなく、昼夜がこずえの死を迎え入れる為に必要な、物部昼夜の為の猶予期間なのである。それを有効的に使う為昼夜はヤヨイの元を訪れ、そして卓都の元をおとずれた訳なのだが、そもそも昼夜自身が素直になれない為に、その与えられた猶予期間を物事の根本に投射する事が出来ていないのである。
その事実を当の二人にも指摘されたばかりではあるのだが、しかし昼夜の視線は冷静さを欠いていないにも関わらず、別の方向へと向いていた。
千駄木家内における父親の殺害。
冷静に考えてみれば見るほど眉唾としか言いようの無い疑惑だった。しかし昼夜はこの疑惑にすがるしか無かった。こずえを自殺へと追い込んでいる原因を解明し、解決する事が出来れば自分自身がいじめの傍観者として復讐される対象から除外されるのではないかと、そう思えたからだ。それに、素直にこずえに対して死なないでくれと懇願する事の出来ない昼夜がその原因を突き止め消失させてしまえば事は解決するのではないか、こずえが守隠しに遇う必要がないのではないかと、如何にも昼夜らしい回りくどい考えかたが発生し彼を奮起させていたのだった。
昼夜自身、ヤヨイと卓都から言われたアドバイスをまるで無視した状態での奮起に後ろめたさを感じない訳は無かったが、それでも無視を決め込んだその精神状態が本質的に彼等の言っている事が理解できていないという表れでもあった。しかし彼はそれに気付く事なく、ひどく迂回した経路を辿り問題を解決しようとするのだった。
まずは確認からだ
昼夜は亜熱帯を連想させる気候の中一度自宅へとその歩を転回させた。実際に千駄木家の人間にその事実を確認する訳にもいかない昼夜が頼ったのは母だった。以前家族ぐるみで付き合いのあった母の事である。いくら千駄木家と離婚後関係が疎遠になったからと言ってその後旦那がどうなったのか、どこへ行ったのか、風の噂でも耳に入っていない訳がないとそう思った。
そしてそれを元に一度ネットを経由して蒸発した人間の確認マニュアルやら過去の保険金殺人の判例、離婚と称して旦那を殺し生命保険の金を受け取る事が出来るのか、或いは周囲の人間達に旦那が別れたとだけ伝えて実は殺されていると言う事が隠しとおせる物なのか、とにかく調べなければいけない事が山ほど増えた。
鬱陶しいはずのセミの鳴き声が心地いいBGMへと変換されかりそめのやるべき事を見つけた昼夜の足取りは軽かった。熱く熱せられたアスファルトの上を跳ねるかのように飛びまわり自宅の途へとついた彼が半ば病的に玄関を開けたのは、それはある種の兆侯だったのかもしれない。かつて占い師が発した昼夜の今後の可能性。それを示唆するかのように昼夜は目を背ける事の出来ない事実に穿った責任感を抱きながら、斜めの角度から真実へと近づこうとしていた。
「母さん!」
昼夜は帰宅するなり開口一番、母を呼んでいた。それこそかりそめの病を感じさせない程に。
「昼夜?」
昼夜の母は怪訝な表情をしながらリビングから出て来た。昼夜は自分が仮病を使っている事すら忘れて、靴を脱ぎ散らかしながら質問していた。
「母さん、聞きたい事があるんだ」
だが昼夜の普通ではないその様子に母も異様さを感じたのだろう。
「聞きたい事の前に」
昼夜の母はその瞳に宿った昼夜も真っ青な鋭く尖った、母としての責任感をぶつけてくるかのよう視線を昼夜へとぶつけていた。
「あなた今日は風邪を引いていたんじゃなかったっけ? 確かそれで学校を休んでいたんでしょ?」
ああそうだよ、その通りだ。
昼夜はまるで説得力の無い言葉を叩きつけながら質問を継続していた。
「そんな事より聞きたい事があるんだ母さん。千駄木の、こずえの家の事について――」
「学校を風邪で休んだ事がそんな事だとは私は思えません。もしあなたが仮病を使って、私にウソをついているんだとしたら私もあなたの質問に正直に答える事が出来ないわ」
なんなんだよ
昼夜は思い切りふてくされた。たった一日仮病を使って学校をさぼったくらいで何故ここまでの反応を示されなければいけないと、今日び垣間見る事の出来ない世間の一般的高校生の家庭とはかけ離れた自らの家族に不満を爆発しそうになった。しかし昼夜の母はそれを計算で行っているかのように、昼夜の不満の爆発を制して言った。
「ウソをつく場合、ついた者に対して徹底した責任を負う事を忘れてはダメよ。そして一番してはいけない事は中途半端な事。それをした場合、ウソをついた者は負いきる事の出来なかった責任のしっぺ返しを食らう事になるのだから」
母の言葉に昼夜は半ば閉口した。そしてその言葉に、母のらしさ、という物を感じてため息をつきながら言うのだった。
「……病院に行ってたんだよ。医者からは特に問題ないってさ。しっかり寝て水分だけとっとけって」
「そう」
昼夜の母が笑顔で頷いた。そして昼夜は質問の権利を得るのだった。
「で? さっき言ってた聞きたい事って?」
昼夜は思いつく限りの何気なさを装い質問をしようとした。何しろこれからこずえの身に降りかかる事を考えればまず自分が第一に疑われない事を前提としなければいけないのはそもそもの確定事項だった。しかし、既に風邪を引いている状態の中息せききって帰宅した息子がまず質問があると、そう告げた時点で母の不信感は最大限だったに違いない。だから昼夜は数秒間の間を思い切り苦悩に満ち溢れた表情をした後、最終的にはやけっぱちの心境で母へと質問をするのだった。
「こずえのおじさんについてなんだけど」
その言葉に一瞬、母の眉根に皺が寄った。確かにこの話題が千駄木家はおろか、物部家にとってもタブーなのは事実なのだろう。実際家族ぐるみで交流があった五年前を遡って現在を比較してみればそこにあるのは、誰もが黙認の上で成り立っている既成事実だけだった。
そしてそれは周囲の環境もそうだったに違いない。しかし昼夜は臆せず言った。
「母さんがこずえのおじさんを最後に見たのって、いつ?」
この質問の答えがどれほど正確な物なのか、そしてその答えが正確であったとしても、どれほど意味のある事なのだろうかと、昼夜自身情報の信ぴょう性自体に一筋の嫌疑をかけた状態で会ったのは確かだった。しかし他に聞きようが無い以上こうするしかないのだ。だからこそ飛び出た質問であった。対照的に、昼夜の質問の意図を測りかねている彼の母はその言葉に即答できないでいた。というよりも覚えていないという感覚の方が強いと言った具合に少しばかり悩んだ表情をしながら頭を捻っていた。
「最後に見たのって、随分前だから」
「じゃあ質問を変えるよ」
昼夜は躊躇わず言った。もはや彼に躊躇すると言う心理的サイドブレーキは存在しないのだろう。
「こずえのおじさんとおばさんが別れてから、母さんはおじさんを一度でも見た?」
かなり分かりやすく答えやすい質問をしてやったという自負心が昼夜の中にあった。これで即答だろうと、そう思いながら昼夜は口を動かしていた。そして母にとってもその通りだったようで昼夜の言葉に首を横に、まるで頑なに何かを否定するかのように振るのだったが、それはあくまで違う意味だったのかもしれない。
「昼夜、あなたなにを調べている訳?」
母の視線が一気に昼夜の本懐へと飛び込んでくる。
「人様の家の事を嗅ぎまわってどういうつもり? なにか聞きたい事があるんだったらちゃんとこずえちゃんに直接聞きなさい。もちろん何か理由があった上でそんな事を聞いているんだとは思うけど――」
「本当に?」
しかし昼夜は母の話しなど聞いていなかった。彼は母が答えたたった一つのフレーズだけ頭に留めて反芻し、そして病的とも言える真っ直ぐな瞳を母へとぶつけていた。
「本当に、たったの一度もおじさんを見てない? 離婚した後、通りかかっただけとか、すれ違った時見たとか、そう言うのを含めても、一度も見てないんだね?」
昼夜の異様とも取れる迫力に今度は母がたじろぐ番だった。昼夜の迫力に気圧された母は首を縦に動かす。
「まあ、そうかしらね。確かに一度も見てはいないと思うわ。でもね昼夜、さっきも言ったけど――」
しかし後の言葉が昼夜に届く事はなかった。彼は母の答えを聞いた瞬間に廊下を走りぬけていた。そして階段を駆け上がり自室の机に置いてあるノート型パソコンの電源を入れる。
液晶画面に濃淡の黒が溶け込み機械が起動する駆動音が静かに鳴り響いた。画面に映し出された色鮮やかなウインドウズのロゴを睨みつけながら昼夜は右手にマウスを握りしめはやる気持ちを人差し指へと移送させていた。
カチカチと鳴り響くクリック音が室内に響く中、今か今かと立ち上がりの遅い一世代前のPCに苛立ちを覚えている時だった。階段を駆け上がってくる音が聞こえた。
母がまた小言を継続しにきたのだろうと昼夜は舌打ちをした。その証拠にノックも無く戸をあけて来た母親が電話の子機を片手に昼夜へと言うのだった。
しかしここで昼夜は気付く。
電話?
そしてその気付きに母はプラスアルファを加えて来た。
「あなたに電話よ」
まだ何か言いたそうな顔をしている母ではあったが受話器を持っている以上怒鳴り散らす事も出来ないと言った風だった。そして、よりにもよってと、まるで無言でそう言っているかのような表情をしている母に、昼夜がパソコンから目を離しこう質問しない訳が無かった。
「誰から?」
その質問に母は答えた。
「こずえちゃんのお母さんから。あなたと外でお話しがしたいって」
その瞬間、昼夜の中で嫌な予感が走らない訳がなかった。しかしその直後に、パソコンとネットを駆使するよりも単刀直入に行う事の出来る最善の調査方法がある事に、そしてこの状況を利用すれば今すぐ実施出来る事に、昼夜は気が付き、そして何故か微笑んでいた。
こずえの母、清子からの電話の内容は以上のような物だった。
こずえの事について、今すぐ母の私と、今現在一緒に住み父の代わりとして保護者となっている秦雄一と三人で、話しがしたい。
簡単に説明するとこう言った内容の電話だった。
昼夜はその美味しすぎる話しに、まるで夏のスズメバチを連想させるかのような動もうさを著しながらこう言うのだった。
「では駅前の喫茶店でどうでしょうか?」
と。
そして快諾した清子と秦雄一の視線をかいくぐるかのように、昼夜は一人、千駄木家の前に立っていた。
西東京市の一戸建てが立ち並ぶ田舎町の中、その中でも確実に中の上とランク付けしてもおかしくない家が昼夜の目の前に聳え立っていた。昼夜自身決して母子家庭に対してどうのこうのと差別的な偏見を持っている訳ではない。つつましやかに生きろとか、アパートへと引っ越せとか、でかい家に住むなとか、そのような悪感情など一つも覚えた事はなかった。しかし今となって思えばと、昼夜は立派な千駄木家を見上げながら思う。
母子家庭の家族が住んではいけない家だとは思わない。しかし、母子家庭の家族が住める家だとも思えなかった。
「ふう」
昼夜は胸の内にたまった緊張の息を解きほぐし、吐き出した後インターホンを押す事なく小ぶりな門を開けて庭の中へと入って行った。待ち合わせは十四時半である。現在の時刻は既に十四時二十分である。家を出てすぐに携帯から千駄木家へと電話を入れた昼夜の耳元に響いて来たのは留守番電話サービスセンターの女性の声だった。つまり今現在、二人は確実に自宅にはいないという事である。
緊張した面持ちのまま昼夜は庭を横切り玄関の前まで行くとそのまま直接ノブに手をかけた。しかし当然の如く鍵がかかっている。昼夜は五年前、よくこずえの家に遊びに行ってた頃の事を思い出した。小学生だった当時、こずえと一緒に学校帰りのまま千駄木家へと遊びに行った数々の思い出の中でこずえの母、清子が買い物などにでかけて家を空けている事は多々あった。そしてそんな時、鍵を持ってないこずえは得意気に、こんな事もあろうかとなんていいながら玄関から右手側に回り込んだ、リビングに面した鍵の予め空いてあった窓を開けるのだった。
「案外不用心なんだよね。うちのお母さん」
小学生時代のこずえの得意気な顔を思い出しながら昼夜は、昔と変わらず鍵のかかっていない窓を開け放ち、靴を脱いでリビングへと入るのだった。
「…………」
当時と同じ方法で侵入した先に待っていたのは奇妙な違和感だけだった。侵入ルートが過去をトレースするものだったからと言ってその先に広がったのが以前と同様の感覚とは限らない。
以前あったはずの庶民を匂わす調度品の数々は消失し、違和感ばかりが漂う高級家具類がひしめくリビングが昼夜の前に広がっていた。
昼夜はポケットに入れてもってきたビニール袋に靴を入れ頭の中を整理する。
まずなにをどう探すのか、昼夜はリビングを見渡しながら考えた。
まず優先すべきはこずえの父の遺体のある場所を探る事だろう。或いは遺体がこの家のどこかにあるという事を匂わせる証拠を突き止める事である。
昼夜は辺りを見渡しながら一歩、また一歩と家主のいない民家の中で無意識的に足音を忍ばせ絨毯の上を歩いていた。
豪華な皮貼りのソファに壁に立てかけられた見た事もなるタペストリーを眺めながらリビング内を数周回り、とりあえず電話が置いてある立派な茶箪笥へと手を伸ばした。
ガラス張りの観音開き式の戸を開け預金通帳や生命保険に関する文書などが無いかチェックをする昼夜。しかし出てくるのはこずえの母、清子が飲用しているであろうサプリメント的な薬やら救急箱、本当に読んでいるのかも怪しい小説などとは違った書籍類達だけだった。
こんな事をしていていいのだろうか? 昼夜は収納されているタンスの戸棚を一つ一つ開ける度に、自分のしている事が立派な犯罪である事を認識しながらそう自問していた。
そもそも死体がこんな所に隠されているのだろうかと、そもそも前提として置いていた千駄木家内での殺人すらが疑わしく思え昼夜の茶箪笥の中を漁る手が止まる。
漫画やアニメ、ドラマや映画の見過ぎだ。
昼夜は戸棚から手を引くと自分の頭を抱えてその場で座り込んでいた。五年前に両親が離婚し父親が自らの家を出たからと言ってそれがどうして殺人と繋がる?
別におかしな話では無いじゃないか。少しばかり大きな家だからって母子家庭の親子が住めない訳じゃないだろ? もし父親が生きているんだとしたら慰謝料と養育費が千駄木家には振り込まれている筈だ。元々母親が専業主婦で父親だけの稼ぎでこれほどまでの家を購入できたのならそれなりにお金だって支払っているに違いない。
冷静に考えてみれば見るほど千駄木家の中に父親の死体がある事はおろか、そもそも一家で共謀して父を殺したなどあり得る話しではなかった。
なにを考えてるんだ俺は……
今現在、千駄木家に不法侵入している事実を顧みながら昼夜は頭を抱えるしか無かった。こんな状況を傍から見られたら、いや、昼夜自身、本人から見たとしてもその行動は異常以外の何物でもなかった。
勝手に人の家庭の実態に疑問を抱き、それを暴こうと不法侵入する高校生の像はどこからどうでもて異様だった。しかし
昼夜にとって一つだけ気がかりな事実もあった。それは昼夜が根本的に何故、守隠し計画を四日間もずらしヤヨイと卓都、そして最後にはこずえへと個人面談をする予定になっているのか、その理由の本質だった。
いや、理由の本質など昼夜にとってみればそれは明らかな事だった。しかしその本質の願望をこずえに素直にぶつける事が出来ない昼夜はヤヨイと卓都に理由を求めた。
お前達の目的は何だと
しかしそれでも帰ってくる事のない、得られる事の出来なかった昼夜の理由づけに次に登場したのが千駄木家内の父親殺人事件だった。しかしそんな物だって冷静に考えてみればおかしな話でしか無い。
そもそもどうして殺したはずの死体をリスクばかりが付きまとう自宅に隠しておく? このような話題はこの一年間、散々こずえと共に行ってきたではないかと、自分の浅はかさに昼夜は舌打ちをしながら次なる思考へと展開を巡らせるのだった。
そう、素直になれない昼夜が取るべき次の思考は、こずえの死を止める為に必要な理由づけはこう展開されたのだった。
秦雄一の存在。
彼の存在理由が昼夜の中で明確になった瞬間だった。昼夜の千駄木家侵入の名目は父親殺害の実地検証から秦雄一という男の正体への確認へとシフトしていた。
「……とりあえず二階だな」
先ほどまで不法侵入をしている自分に精神的異常性を見出していた昼夜自身が、目的を挿げ替える事によってその明らかに見て取れる自身の異様さを覆い隠していた。
あんたは近い将来病気になるね
一瞬、一か月前に占われたマエストロ桂子の言葉が昼夜の脳裏を過ぎったが彼はそんな事等無視しながら階段を昇り、自分の目的を補填する為に秦雄一の正体を確かめようとするのだった。
携帯電話の時計を確認した昼夜の視界に入ってきた時刻は十四時五十分だった。もうそろそろ昼夜が待ち合わせ場所に来ない事に対して不満、或いは不信感を覚え始めるのではないかと想像が出来る千駄木家へと侵入してからの二十分間。昼夜はその短い時間を一階のリビング捜索に充てた後、目的をシフトして二階の、各人のプライベートルームへと足を進めていた。
標的はそう、秦雄一の正体だった。
彼が何故昼夜に直接、こずえに会うななどと言う事が出来るのか、この千駄木家の中でどのような役割を担い、ポジションについているのか、そしてこずえが秦雄一の存在を苦に死を選びとっているのではないか、それらの事実と推測を確認する為に昼夜は一段一段、誰もいない家の中だと言うのに静かに足を置きながら階段を上がっていた。
階段の軋む音すら一切響かない静寂の千駄木家の中、昼夜は階段を上がりきると懐かしさを思い出していた。
そこに広がっていたのは東西南北に引かれた十字路のこぶりな廊下で、最奥、つまり階段から向かって北に存在する戸を見た瞬間、五年以上前にもなる千駄木こずえのお宅訪問を思い出していたのだ。
『ちゅーやだけしか部屋に入れた事ないんだからね』
小学生時代の、まだあどけなさばかりが目立つこずえの天真爛漫な顔が眩しく思い返された。
昼夜はその事実に驚きながら、今現在自分がしている事に嫌悪感を抱き階段から向かって右手、つまり東の通路へと曲がりその先にある戸を開いた。
「…………」
こぶりなシングルベッドに書棚、窓辺に置かれた観葉植物や壁に立て駆られた品のあるイラスト、小洒落た感じのする鏡台。その一つ一つがどれをとっても、どこか洗練された雰囲気のある部屋が昼夜を迎え入れた。
昼夜は一目見た瞬間気付く。
ここが母、清子の部屋だなと。
そして少しばかりの興奮を体の中心に集めている事にも気が付き、慌てて自分の中に存在する雄の部分をかき消してその部屋を後にした。
用があるのは秦雄一の部屋である。
どさくさに紛れて他人の女性の部屋に入るなど、とまるで小学生時代のヤヨイを思い出させるかのような生真面目さを露わにしながら対面の部屋、つまり階段から見て西側にある部屋へと向かい歩いた。
千駄木家の二階は合計四つの部屋からなっており東西南北に延びた廊下の突き当たりに一つずつ部屋が設置されていた。東に清子の部屋、北にこずえの部屋、そして西の部屋に至る途中の壁に設置されているのが倉庫代わりとして使用されている事を知っていた昼夜は、西の最奥にある戸が目的の最終地である事を認識していた。
ノブを握る瞬間に幾ばくかの緊張が走る。本来であるなら、この先にあったスペースはこずえの父の物であったはずだ。しかし五年間にわたり千駄木家へと入り浸る秦雄一が自分のスペースも持たずこの家に出入りする事が出来る筈もない。
昼夜は覚悟と決意を胸に伸びを握りしめ、捻っていた。
虎穴に入らずんば虎子を得ず、ということわざを生まれて初めて自分の人生の中で実体験として使った昼夜の覚悟の後に、その視界の先に待ち構えていたのは驚きというよりも、ある意味での衝撃的な部屋だった。
ベッドが一つとその脇にスタンドが一つ、ただそれだけだった。
フローリングの床が冷たく、開け放たれたクローゼットの中にはなにも入ってはいない。窓が半開きになっているせいか外から温い風が昼夜の頬を打ち、髪をたなびかせていた。
あいつはここに住んでいないのだろうか?
ふと昼夜は思ったが、まるで部屋の主として君臨しているかのような一つのベッドはつい今朝方まで誰かを包み、包んでいたかのように無造作な皺がいくつも寄っていた。
ただ寝る為だけの部屋、そういう事なのだろうか?
ふと昼夜が首を傾げ視界の先に天井が入った瞬間だった。彼はギョッとする。
「……鏡?」
天井に張り巡らされているのは一面の鏡だった。天井を見上げる昼夜が、間逆の世界に存在するもう一人の自分に見降ろされる奇妙な光景がその場を形成していた。
「なんだって鏡なんか……」
何の用途でこのような部屋の作りにしているのか、昼夜にはその鏡の意味を理解する事が出来なかった。なにかを思いつこうとしても最終的には、奴はナルシストなのだろうかというどうでもいい結論だけが頭の中で先行し本来の答えにまでその真意を直結する事が出来なかった。
天井一面に張り巡らされた鏡の意味を測りかねた昼夜は首に疲労を感じ、ベッドへと視線を戻していた。
まるでさっきまで主がそこで眠っていたかのようなしわくちゃのシーツにタオルケット。どこか生々しさを感じずにはいられない、温もりが伝わって来そうなシーツを眺め、昼夜はとある事に気付いた。
「…………?」
枕が置いてある両脇付近のシーツ部分だけが、異様に劣化していたのだ。いや、よく観察してみればそれは劣化というよりも小さく、幾つもの穴があいているようでさえあった。
「……破れてる?」
昼夜はもっとよく観察しようと身体をベッドへと乗せ顔を枕付近に近付けた。しかしその時だった。ふと何かが昼夜の手に当たった。それはシーツの中に隠されているかのようにベッドマットとリネンの間に挟まれていた。
なんだこれ?
昼夜はごく自然に、まるで布団の下に漫画が置かれてしまってそれを取り除く中学生のようが動きでその中にある物をまさぐり、表へと出した。
そして言葉を失っていた。
「…………」
それはヒモというよりも、縄という方がシックリ来るだろう程にシッカリとした、しめ縄のような物だった。
何故このような物がベッドのシーツの下に隠れているのだと、昼夜は一しきり疑問に思った後、それがベッド上部の左右にある両脇の柵に繋がっている事に気が付き、愕然とする。
二本の縄が右と左、両端の柵に繋げられていた意味など昨今の高校生ならそれが何を意味するのか、分からない訳がなかった。
それは清子と秦雄一の関係を考えてみれば一目瞭然の答えでもあった。そして天井に張り巡らされた鏡。
昼夜は確信と共にベッドから飛び降りていた。
大人達が行う夜の淫美に充てられたかのように呼吸を荒げ、一歩、また一歩とベッドから遠ざかった。
プレイの一種なのだろう。
昼夜はそう直感し、何故かそれ以上追及しようとは思わなかった。当然と言えば当然だと、男と女という関係がそこに前提である以上それは否定しきることの出来ない事実だった。
結局枕の両脇にあるシーツの無数の穴は何なのかよくは分からなかった昼夜ではあったが、もう充分だとばかりに部屋から出ていた。
自分の母親と同年代くらいの女性がそのような行為に耽っているという事実が、昼夜の気持ちを不快な物にさせていた。
おばさん、と呼び親しんで来たこずえの母親がよがり狂う姿を想像すると不気味と気持ち悪さが込み上げて来た。まだセックスという物を知らない昼夜がそれを想像力で補完する事は出来なかった。ただ漠然とある未知の体験に思いを馳せ、股間を勃起させ、目を背ける事しか昼夜には出来なかった。
「…………」
火照った体をフラットに戻すかのように、冷静さを取り戻そうとする昼夜は改めて後ろ手で秦雄一の戸を開け、隙間から中を覗き込むのだったがやはりベッド以外にありそうな物は何一つない。ただセックスをする為だけの部屋。そんなダイレクトな言葉と印象が昼夜の中で確固とした物として出来あがりその部屋の探索になんらそれ以上の意味をもたらす事はないだろうと、確信させていた。
という事はである。
「……どうするかな」
結局は何一つ見つける事の出来なかったこの侵入劇に昼夜は肩を落とすしか無かった。危険を冒してまで得られた物といえば幼馴染の母親とその愛人が妙な趣向の性癖の元セックスをしているという事実だけ。これが到底こずえを死に追いやる程の理由だとは思えなかったし、秦雄一の部屋からそれ以上の物を見つける事は出来なさそうだった。
退散した方がいいのだろうか?
昼夜は廊下を歩きながら十字路の中央に立ち、ふと考えた。しかしまだ調べていない所があると、そう認識している自分がいる事にも気付いていた。そしてそこはこずえの死にまつわる真相を調べる上では間違いなく訪れておくべき場所である事も十分承知していた。
昼夜は無言で左手側にある通路へと視線を向け、その先にある戸を見つめた。
こずえの部屋。
五年以上前に訪れてから一切入る事の無かった、幼馴染の部屋である。その中になにがあるのか、五年と言う月日がこずえの部屋をどれだけ変化させ、その精神状態を投影させたのか、容姿が精神に由来するのと同様に、個人が所有する部屋もその人間の内面を露わす一つのファクターでもあった。
ここまで来たのだから調べない手は無いと、昼夜は心の底からそう思った。しかし最初の一歩が重たかった。まるでトレーニング用のアンクルを両足に付けているかのように足を上げる事が困難に感じられた昼夜が、その先にある戸に対して気おくれを感じない訳がなかった。
五年のブランクがあるとは言えど、今まで散々通い詰めた部屋である。
昼夜は自分にそう言い聞かせ無断で幼馴染の部屋に入る事の後ろめたさを払拭しようと躍起になっていた。そして正当なる理由をみつくろい一歩、また一歩と人形師が操るマリオネットのような歩き方で戸口の前まで歩き続けた。
これは必要な事なんだと、ドアノブを掴んだ昼夜が自分に言い聞かせそれが功を奏し戸が昼夜の意思とは関係なく、仕方が無く、開かれた瞬間だった。
唐突に、一階の玄関から鍵を解錠する音とそれに伴いドアが開かれる音が響いていた。
誰かが帰ってきた。
突然訪れた予期せぬ来訪者に昼夜は一瞬身体を硬直させたがすぐさまこずえの部屋に入ると音をたてないように戸を閉めた。そして周囲の環境を気にする余裕もなく携帯電話を取り出し時刻の確認をした。
現在の時刻は午後の三時二十五分である。
この事からまだ授業中であるこずえの帰宅の線が消える。そして当然のように浮かび上がってくるのが待ちぼうけを食らっている清子と秦雄一だった。凡そ一時間という待ちぼうけに業を煮やして帰って来たのだろうか? 昼夜は自宅へと掛けられた筈であろう清子からの確認の電話を母から伝えてもらうよう手配していなかった事を悔んだ。もっとも昼夜の母がそのような頼みを聞く訳がないとも思うが。しかし少なくとも侵入場所に一時間も長々と居続けた昼夜のその行動は明らかに愚の骨頂としか言いようの無い行動で、更に状況は悪化するのだった。
「こずえ?」
聞こえて来たのは野太い男の声。秦雄一の物だった。
「こずえ? いるのか?」
誰もいないと判断すべき状況の中で、何か感じ取る物でもあったのか秦雄一は誰かの存在を感じていたようだ。
心臓が早鐘のように鳴り響く昼夜。もうここにはいられないと、こずえの部屋を調査する暇もなく部屋の隅に隣接されたベランダへと向かって移動した。
もうこずえには会うなと、そう釘をさされた保護者面をした怪しい男に、愛人の娘の部屋で発見され等したらそれこそどうなるか分かった物ではないと、未だ階段を上がってくる様子さえない秦雄一の存在に怯えながら綺麗にせいとんされた部屋の中を横切りベランダへと向かって一歩二歩と、足早になっている時だった。
昼夜はフローリングの床に落ちていた何かに足を取られ膝を直撃した。
ドン、という大きな音が部屋中に、いや、家中に響きこずえを探していた秦雄一の声がピタリと止まる。
不味い……
昼夜の顔に青筋がサッと引かれる。しかしこんな時だというのに人間心理とは正直な物で、転んだ時足を取られたものを時間が無いにもかかわらず確認してしまう無駄な一作業を、昼夜は律儀にも行っているのだった。
そんな事をしている場合ではないだろうと、痛む膝を庇いながら立ち上がりそのつまずいた者を視界に入れた瞬間だった。昼夜の表情が固まる。
『物部君へ』
そう書かれた茶色の封筒に入った便箋が床に落ちていた。
昼夜は思わず立ち止り、その封筒を手に取るべきかどうか、瞬間的に悩んだ。しかし時は無情にも刻一刻と過ぎ去り、秦雄一が明らかに階段を上がってくるドスの利いた足音が徐々に昼夜の身へと差し迫っていた。
考えている余裕が無かった昼夜が、勝手にこずえの書いた手紙を持ち去ると言う選択肢を瞬間的に取れる訳がなかった。
彼はその手紙をすぐ横にあったベッドの下へと滑り込ませると物凄い勢いでベランダへと足を掛け、その身を外へと躍らせた。それと同時に秦雄一の声が響く。
「こずえ、帰ってるのか?」
もはや迷っている暇は無かった。
昼夜は二階のベランダの柵に足を掛け思い切り飛んでいた。丁度真下に草がきがあったとか、柔らかい土が地面に敷いてあったとか、そういうご都合主義的展開は一切なかった。しかし事の他運動神経に恵まれていた昼夜が何とか着地とまでは行かずも、落下とは呼べないぶなんな地面への到達を実施出来たのはそこがコンクリートではなく土だったからだろう。
身体全体に走った痛みに鞭を打ちながら昼夜は直ぐに立ち上がると袋に入れて持ち歩いていた靴に感謝をしながら即座に千駄木家の庭から這い出て(つまり塀を超えて)靴を履きなおすと走った。
途中から足をくじいている事に気が付き徐々にまともに走る事はおろか歩くことすらできない状況に陥っている事を痛感するのだったが、それでも立ち止まる事は出来なかった。
秦雄一が後ろから追ってくるようで怖かった。わき目もふらずに前を見続けやっとの事で家に帰った時、昼夜は初めて後ろを振り返り、息を切らせながら思うのだった。
物部君へ
そう書かれた封筒の中に、なにが入っていたのだろうと。あの手紙がもたらす意味を解明する事が出来ればこずえの守隠しを防ぐ事の出来る理由が見つかるのではないかと、そう思った。
しかし再びあの家に侵入する事など考えたくも無かった。
父親が不在の母子家庭の家に存在したセックスをする為の部屋。
その存在が昼夜にはどこか不気味で、気色の悪い物に思えて仕方が無かった。
千駄木はどんな気持ちであの家に帰っているんだろうと、昼夜はふと思い、そして彼女が家に寄りつかないと言う事実を今更のように思い返していた。




