(Other Side) 阻止 Case:アルバート
「ふむ。やはり、『海底二万マイル』は良いね。子供の頃の高揚がまた蘇ってくるよ」
醜悪なうねる粘着質が空間を覆う機械に纏わりついた世界。
その世界は、機械音と共に、まるで生きているかのように『動いて』いた。
激しい発砲音と爆発音が響く中、心地よく珈琲を啜る音とページを送る音が合間合間に静かに聞こえる。
「社長。望郷に浸り、とてもご満悦な所、大変申し上げにくい事があります」
その空間で、社長と呼ばれた高級なスーツを身に纏う四十半ばの中年の男性は、ステンレスに黄金の装飾が施された椅子に腰掛けていた。同色のテーブルに、啜ったティーカップを置き、穏やかにその声の主に声をかける。
「なにかね、キャシー?」
「いえ、実は、その……」
頭上から落ちてくる弾丸を詰め、そして対象である天使に撃ち込みながら、キャシーはとても恥ずかしそうに口籠る。
「どうした? 君らしくない」
世界有数の大手証券会社の社長、そしてアダム・アメリカ支部の支部長を兼任するアルバート。その彼の秘書、キャシー・ブルックスは優秀である。
来客の応対、文書作成、スケジュール管理──様々な秘書として求められる技能を水準以上に持っている。
そんな彼女が最も光る技能は『報告』である。必要とする情報を処理し、的確な情報を無駄なく簡潔に述べる。その技能こそが彼女の最も得意とすることである。
そんな彼女が報告を口籠る事など、久しくアルバートは見ていなかった。
「そ、その、尿意をも、催しまして……」
耳まで紅潮し、とても恥ずかしそうに告げるキャシーを、アルバートはきょとんとした表情で見つめる。
だが、それは一寸の間であった。
「は、はっはっはっは! 何を、突然、言い出すかと思ったら……!」
声を張り上げ、アルバートは豪快に笑う。
「やっぱり、君は最高の秘書だ。私のツボをとことん突いてくるよ! そのまま、君の失禁プレイを観賞するのも一興だが、そろそろキザイアの奴が動き出す頃合いだろう。こいつの相手は『無限』を司る奴に任せるとしよう」
「あ、ありがとうございます。社長」
下半身をガタガタと揺らし、告げるキャシーを見て、アルバートは思う。
きっと、この任の間にずっとギリギリまで我慢をしていたのだろう。
そのキャシーの自身への忠誠の高さを誇りに感じ、そして自身のミスを少しばかり反省する。
(今度は、お手洗いの時間も設けなければ、な)
パチンと、アルバートが指を鳴らした後、空間は急激に様相を変えてゆく──
ささやかな水の音色が聞こえる。それは、不浄を清める清潔の音。
「ふう……」
壁に腰掛けるアルバートに安堵の声が響く。
「これは、これで良いものだがね」
満足そうに、顎に手を当ててアルバートは呟く。
「お待たせしました、社長。申し訳ありません……こんな醜態を晒すなど」
「いや、良いんだ。むしろ良い」
「はい?」
公衆トイレから出たキャシーは首を傾げ、アルバートを見つめる。
「いや、何でも無い」
少し、慌てふためき、そして平静を取り戻してアルバートは告げる。
「所で、君はこの状況、どう見る?」
「エレンの通信が途絶え、しかしこのメイザース・プロテクトは健在。キザイアは善戦しましたが、エレンに敗れたと見て間違いないでしょう」
アルバートの問いに、キャシーは寸の間もなく答える。
「うむ。では、プランを変えよう。この状況だと天使勢が優勢となるに違いない」
「では──」
「そうだね。やれやれ、潰す組織に助け船を送らなければならん」
首を項垂れ、アルバートは呟く。
「社長、お気を付けて」
「何、少し『道』を設けるだけだ。造作もない」
そう告げ、アルバートは空間に歪みを造る。
「ああ、そうだ。キャシー」
その歪みに歩を進めたアルバートは、その足を止め、振り返る。
「何でしょうか、社長」
「良い夜景が見えるホテルを予約してある。今回の件が終わったら、そこで『祝杯』を挙げようじゃないか」
そのアルバートの言葉に、キャシーはとても嬉しそうに、答える。
「……はいっ!」
その表情は、恋い焦がれる乙女そのものであった。
「では、行ってくる」
その表情を満足気に見て、アルバートはキャシーに背を向ける。
「ああ、社長……」
空間から姿を消した後も、キャシーはそのアルバートの居た場所を見つめ続けていた。
闇夜が包む城下町。
純白の羽を持つ天使達と人間達の激しい対峙は、その静寂を司るかのような夜を血と叫び声で騒ぎ立てる。
だが、その喧騒の中、異質の存在が一人。
誰と対峙するわけでもなく、その戦場を怯え、恐怖するわけでもない。只、その男の周囲には多くの天使や人の残骸が転がる。
「ふう、さて、後は事の顛末を眺めるだけだが」
煙草を吹かせた男の月夜を眺める灼眼の瞳は、徐々にその輝きを薄めてゆく。
「うぐっ、ごほっ!」
無表情に月夜を見ていた男を、突然吐き気が襲う。
口を抑え、その吐瀉物を吐き出す。
その口から吐き出された赤い液体を眺め、男は呟く。
「ふん。まだまだ、俺もこの程度という事か」
歯をぎしりと噛み、男は呟く。
「はっはっは! どうした、その醜態は? 浅羽……まさか、サイモンに返り討ちされたわけではあるまい?」
「アルバートか……目障りだ。失せろ、道化」
背後から聞こえる陽気な笑い声に、浅羽はとても不機嫌そうに答える。
「はっはっは! あー、悪かったよ。今のは、冗談だ。あの驚異的な力の増幅を感じれば、直ぐ分かる。で、君の目的は達成出来たのかい?」
「勿論だ。後は、あのルシファーの破滅がどの程度の被害を生むかだ」
「それだけじゃあ、無いだろう?」
座りこむ浅羽を、アルバートは覗き込む様にして見つめる。
「京馬君は、どこにいるかね?」
「ああ、あの餓鬼か。今頃は、天使に捕えられているんじゃないか? もう俺には関係ない事だ。ミカエルがその後、姿をくらやませようと関係ない」
「やれやれ、アダムに代わるこの世界の支配者となるのが君の目的らしいが、そんな悠長な事を言っても良いのかね?」
「……? どういう意味だ?」
「『サンダルフォン』という『天使』を君は知っているかい?」
「……名前だけは、な」
「そうか、そうか。いくら情報通の君でも分からない事があるらしいね」
「鼠の様にコソコソとその情報を収集する貴様には言われたくはないな」
「はっはっは! 私は、君やサイモンの様な脅威的な力を持ち合わせていないのでね」
「ふん。白々しい道化め……」
「まあ、御託はここまでにしよう。さて本題だが、浅羽、君の古代の利器を使わせてもらえないかね?」
「そう易々と俺が貴様に貸すと思うのか?」
「思っていないさ。だが、その力を使わないと世界が滅ぶとしたら、どうするね?」
「……何だ、それは。先程の『サンダルフォン』と関係があるのか?」
「その通り。君は察しが良くて助かるよ。その『サンダルフォン』なのだが、実はある天使と一対になっていてね」
「聞いた事があるぞ。確か、その対となるのは、『御前の七天使』が一人、『メタトロン』最も正体が不明とされる、『最古』の天使」
「そうだ。そして、『メタトロン』はこの世界を造った神の樹の守護を目的としている。この意味が分かるかね?」
「何だ、貴様は俺と知恵比べでもしようとしているのか? さっさと要点を言え」
「はっはっは! 悪い癖が出てしまったね。失敬、失敬」
苦笑し、アルバートは続ける。
「つまりは、『サンダルフォン』という天使、いいや、捕縛結界と言えば良いか? それは、『神の樹』へと至る『頂き』へと続いている。そこに、『サンダルフォン』を『所持』しているミカエルが、ガブリエルを持つ京馬君を運んでいるとすれば?」
「っ……! それを、早く言えっ!」
アルバートの言葉に、浅羽は焦燥の表情を浮かべ、漆黒の円柱状の物体を空間に発現させる。
「『トバルカインの遺産』、モノリスの一つか……是非とも私も欲しいのだが、幾らぐらいの投資で譲ってもらえるかね?」
「何、呑気にしているっ!? 貴様も、自分が支配しようとする世界を壊されたくないだろう!?」
「そう急いても始まらんよ」
そう呟き、アルバートもその石柱に手を置く。
「いくぞ! 精神力を注ぎ込み、念じろ!」
浅羽はモノリスを右手で掴みながら告げる。
しかし、振り返り、アルバートに指示した浅羽の視界の遠方に、異様なものが移る。
「あら、珍しい物を持っているのね」
それは、この戦場において自身と同様の異質を秘めた女性だった。
紫と赤の刺繍が入った浴衣を着る彼女は、焦燥も、戦慄もなく、殺気もない。
ただただ、穏やかな表情で歩み寄る。
「夜和泉、静子……!」
だが、その異質な存在を浅羽は知っていた。
自身の計画、その中で最たる『不穏分子』となる可能性のある正体不明の人物。
「何の用だ。俺は今、忙しいのだが」
「何で?」
威嚇する様に睨みつけて告げる浅羽を、まるでからかう様に静子は問う。
「貴様に知る権利はない」
『この世界』に留まっている詳細な理由が分からない、その『現人神』を浅羽は危惧していた。
静子──日本人でありきたりな、だが少しばかり時代遅れ感のあるその名称の彼女。
だが、精神力を無視して一瞬で人に『死』を与える彼女の力は驚異的だ。
下手すれば、『解放』した自分でも敵わない彼女は、浅羽にとって天敵となる。
しかし、その彼女が告げた『この世界』での目的は意外な事に、あの『噂の桐人』、ルシファーだった。
さらに監視を付け、尾行させた部下の報告では、自身が計画の為に動いていた時に静子は無関心であった。
『この世界』を楽しむ様に、街を廻り、家電製品やゲームセンターなどに目を丸くして、まるで観光でも来た様であった。
自身が手を出さなければ、何も恐れる事はない──
そう結論付けて、浅羽はその異質を静観していた。
だが、浅羽に宿る『傲慢』は、彼女の恐れを表情に出す事を拒否した。
「どうした、君らしくない。震えているぞ」
にやりと、嫌な笑みでアルバートが浅羽に告げる。
「くっ……!」
浅羽は、小刻みに震える自身の右手を、その震えを抑える様にモノリスに押し付ける。
「意地悪は酷いわ。折角、私もリチャードさんの為に天使と戦いに来たのに」
嘆息し、静子は呟く。
「何度も何度も復活する天使も、私がその『存在』そのものに『死』を与えれば二度と復活させない様に出来るのよ?」
自慢げに手に持つ扇を掲げて静子は告げる。
「おお、はっはっはっは! それは、心強いねえ!」
『手を貸される必要はない』、そう、浅羽が告げようとした時、横から大笑いと共にアルバートが言う。
「実は、あの京馬君が天使達に捕えられているかも知れなくてね。私達が助けにいこうと思っていた所なんだよ。はっはっは! いやぁ、そこに君の様な脅威的な力を持った美しい女性が来たものだ! 願ったり叶ったりだよ!」
「あら、あの可愛らしい子が?」
「ああ、そうなんだ。実は、彼はガブリエルという『この世界』のキーとなり得る存在を化身に宿していてね。天使の手に渡ったら、『この世界』が滅亡する危険がある」
「それは、本当なの?」
「本当だ。君も、あの桐人──リチャードの世界が消えるのは、嫌だろう?」
そのアルバートの言葉に、静子は初めて表情を変化させる。
「……嫌ななんてものじゃないわ! 絶対に阻止しなきゃ! どこに京馬君はいるの!?」
「まあまあ、そう急くものじゃないよ。このモノリスに手を翳し、精神力を注ぎ込んでその存在を念じるんだ。そうすれば、一瞬でその者の傍に辿りつける」
焦燥に駆られた静子を宥める様に、アルバートは告げる。
「分かったわ!」
静子はその場から消え失せ、一瞬でモノリスの傍に駆け寄り、その壁面に手をつける。
「ああ、それと──はは、もう行ってしまった」
さらにアルバートは言葉を付け加えようとしたが、静子は間髪を入れず、その姿を消す。
「全く、レイシアには手を出すなと言いたかったのに」
ふう、とため息を吐いてアルバートはぼやく。
「何故、得体の知れない奴にあの事を話した? あんな出鱈目な奴に横槍をされたら、何が起こるか見当が付かんぞ?」
笑みを消したアルバートに、静子とのやり取りを見つめていた浅羽は問う。
「何故も何も、彼女はリチャードの事になると非常に協力的だよ? 利用する以外ないじゃないか?」
「だが、それも本当の目的の為のフェイクかも知れん」
「それは、無いよ」
アルバートは笑み、断言する。
「何故分かる?」
「彼女は、本当にリチャードに『ぞっこん』なんだよ。そう、例え世界を敵に回しても彼の為なら、その世界を滅ぼしかねない程に、ね」
「だから、何故その様な事が貴様には分かるんだ?」
浅羽の問いに、アルバートは口を少し吊り上げる。
「ああ、そういう女も、いるんだよ」
アルバートの言葉に、浅羽は首を傾ける。
「……まあ、良い。貴様の『それ』は今に始まった事ではないからな」
「はっはっは! 君も中々だよ!」
さらに首を傾ける浅羽を無視し、アルバートは続ける。
「さて、私は『傍観』を続けるとしようかね。いやはや、いらん手間が省けた」
確信に満ちた笑みを零し、アルバートは天を仰いだ。