(Other Side) 這い寄る混沌の崇拝者 Case:美樹&桐人
オーロラが幾つも舞う青空。
うねる蔦と木々に囲まれた街。
荘厳な黄金の神殿。
神秘的な世界が眼前に拡がる。
「がはは! そうか、人、か。だが、知っているか? 貴様達、今を生きる人は本来の人ではないということを」
だが、その神殿の中庭だけは、その神秘を超える鈍重な空気を漂わせる。
その中央にいるカマエルの問いに、美樹は無表情に答える。
「知っている。『悪魔の子』、でしょう? 原初の人であるアダムと原初の悪魔であるリリスとの間に出来た子の祖先」
「そうだ。我が愛しの君主で在らせられるミカエル様が溺愛していた本来の人を、ルシファーと共に殺し尽くした悪しき存在っ!」
カマエルは怒号と共に、美樹に幾本もの腕に掴んだ武器を振るう。
「美樹ちゃんっ!」
咲月の叫びとほぼ同時だった。
「『召喚悪魔』、アスモデウス!」
美樹の叫びと呼応するように、空間を這い出る様に漆黒の肌の剛腕が眼前に出現する。
その手から放たれた巨大な黒炎は、美樹を突き刺さんとする武器達を一瞬で包み込み、霧散させる。
腕の次には、脚、顔、胴体と水面から浮き出る様に、漆黒の巨人が姿を現す。
「ふう、久しぶりに人間どもの世界に現界したせいか。どうも、調子が悪い」
「それを言い訳に負けたら許さないから。アスモデウス」
首を鳴らし、呟くアスモデウスに美樹は呆れ声を漏らして毒づく。
「ぐ、アスモデウスを召喚させるだとっ!?」
その漆黒の巨人を見たケルビエムがカマエルの背後から言う。
「な、何だと……! やはり貴様、只の人ではないなっ!?」
同時、動揺の声をカマエルも漏らす。
「驚いたでしょう? 過去、アスモデウスのインカネーターになった者達が出来なかった芸当なんだから」
「ふん。お前が特殊な目覚めさえしなければ、こうはならなかった。自身の幸運に感謝するんだな」
その動揺の声を満足気に聞き入れる美樹に対し、今度はアスモデウスが毒づく。
「あ、あれが、七つの大罪『色欲』を司るアスモデウス……」
その美樹が召喚した漆黒の巨人、否、威厳と圧倒的な威圧を持った、人が想像する魔王と合致する風貌に、ミシュリーヌは息を呑む。
「なんか、魔王、って感じだね」
そのミシュリーヌの思慮を、咲月は思わず言葉に出す。
「そうだな、小娘。私が現界した時、過去に何度も人間にサタン様と勘違いさせられたものだ」
首を少し捻り、アスモデウスは咲月の感想に答える。
鬼の様な形相の顔、偉大さを示す黄金の冠、漆黒の牡牛と羊で編まれたマント、極太の水鳥の様な足、そして巨大な蛇の鱗で覆われた尾。
それは、正に魔王と言っても過言ではない異質と恐怖を纏わせた風体。
「いくぞ、ケルビエム! こいつはやばいのは分かるだろうっ!? 本気を出すぞ!」
「分かっている! 『肥大なる懲罰』!」
「『破壊の罰』!」
ケルビエムの放つ大爆炎を発しながら突き進む雷撃を纏った衝撃波。
そして、カマエルの放つ空間を割きながら進む多量の槍群。
「くく、『漆黒の灼熱破』!」
だが、その圧倒的なまでの破壊力を誇る攻撃に対し、余裕の笑みでアスモデウスは手を振り払う動作を行う。
そして、長大な黒の魔法陣と共に、禍々しい漆黒の炎は猛々しく燃え狂い、その一撃を呑み込んでゆく。
だが、その勢いも徐々に弱まり、漆黒の炎はアスモデウス側へと押し戻されてゆく。
「いくら『元熾天使』の貴様でも、俺ら天使長の同時攻撃には勝てまいっ!」
「おいおい、私だけが相手だと思っているのか? つくづく、精神の緩い奴だなカマエル」
二人の会話の中、後方のケルビエムは嫌な予感を感じ、辺りを見回す。
(おかしい、あの娘がいない!?)
ケルビエムが気付いた時は既に遅かった。
カマエルの背後から飛び出した黒の閃光。
「ぬぐ、あああああああぁぁぁぁっ!?」
それは、カマエルの背中を深々と突き刺す。
「隙が出過ぎて、逆に誘い込まれていると思っちゃうじゃん」
そう、カマエルの背中に硬化させてランスと化した触手を突き刺しながら、美樹が呟く。
同時、カマエルが放った槍群は力を弱め、そしてケルビエムの衝撃波と共に、漆黒の衝撃波と相殺する。
「ええい、小娘っ!」
ケルビエムが大剣を振るうと、いとも簡単に美樹は両断される。否、それは美樹の影で形作られた『分身』であった。
「ふふ、天使長ともあろう方が、こんなに簡単に翻弄されちゃうなんて」
だが、空間内に響く美樹の声が、その存在が未だ生きていることを証明させる。
「貴様……! 絶対に捕まえて、蜂の巣の刑に処してやる……!」
「美樹を甘く見ない方が良いぞ。何せ、幾人もの『色欲』を味わい、陰ながら死線を潜り抜けたんだ。その精神力は、貴様らの対峙するアダムの支部長クラスに成長している」
アスモデウスは告げると同時、掌に極大な精神力を込めた黒炎を発現させる。
「糞がっ……! 舐めるなよおおおぉぉぉぉぉっ!」
カマエルが自身と同等の巨大な剣を発現した時であった。
「ふへへへ、そこまでですよぉ?」
「……新手か」
辺りをどす黒い瘴気が包み込む。
アスモデウスは、その瘴気を前にため息、そして頭上を見上げる。
「誰だ、貴様はっ!?」
アスモデウスが問い掛けようとした言葉を、先にケルビエムが問い掛け、同時に大爆炎をぶつける。
が、
「ふへ、ふふふ……怖いなあ。自己紹介の前に殺しに来るなんて。これだから、天使は嫌いなんだよぅ」
何事もなく、舞い降りながら黒のローブを纏った男は呟く。
「お前は、『ゾロアスターの悪星』っ!」
その男の服装を見た美樹が、アスモデウスの影から這い出て叫ぶ。
「御名答! ですが、それだけじゃあ私自身が分からないじゃあないですか」
地に着地し、男はにやりと笑みを浮かべる。
その顔は、傷だらけであった。額には何度も縫い直した怪我の痕。
潰れかけた左目は上を向き、微動だにしない。
長い黒髪は、その男の不気味さに、さらに拍車をかける。
「では、ご挨拶を。僕の名は、マシリフ・マトロフ。不浄の大悪魔『ドゥルジ』を宿すインカネーターです。以後、お見知りおきを」
ふへへ、と不気味に笑み、男は告げた。
「『ドゥルジ』だと……? そうか、貴様らか。この世界に興味を無くしたアビスの『奴ら』を呼び戻した輩というのは」
うねる蔦に包まれる、黄金の神殿。
数々の攻撃で、空間毎に破砕された無の空間が点在する。
「ふへへ、流石ですね、やはり自身達が管理する世界の情報は大抵、知り得ているみたいですね」
告げたカマエルに対し、屍鬼のような気味の悪い男──マシリフ・マトロフは下卑た笑みを見せる。
「ふん。大体、貴様らの企みは知り得ている」
そのマシリフ・マトロフに、アスモデウスが鼻で笑い、告げる。
「企み? やだなぁ。私達は、『世界平和』の為に動いているだけですよぉ?」
「世界平和? 笑わせないで。じゃあ何故、咲月ちゃんを狙うのっ!?」
美樹がマシリフ・マトロフのふざけた様子に苛立ちながら叫ぶ。
「私も、アスモデウスも知っているんだよ!? あんた達、『這い寄る混沌』の信者どもが咲月ちゃんを使って世界を破滅させようとしているのを!」
「おやおや、何か勘違いしているようですねぇ?」
美樹の真実を突き付けるかの様な問答。しかし、マシリフ・マトロフは首を傾げ、神妙な顔をして言う。
「私達、『ゾロアスターの悪星』は、その子に眠る『神の実から生まれ出でるもの』を封印しようと思っているだけです。最初は様子見でしたが、日に日に成長するその子を見て危険だと判断したまでですよぉ?」
「嘘だよっ! だったら、あなた達の中の『不穏分子』である賢司を殺すなんて考えられないっ!」
「え……? 賢司君が死んだ……?」
美樹とマシリフ・マトロフとの問答でさらりと告げられた事実に、咲月は驚愕する。
「そうだよ! 咲月ちゃんは気付かなかっただろうけど……キザイアと賢司の力の差は歴然だった。あの私と咲月ちゃんが『発信源』に行くまでの時間を考えると、賢司は死んだとしか……」
「ふへへ、その通り。ほら、これを見て下さい」
美樹の咲月への悲痛な声を遮り、マシリフ・マトロフは告げる。
そして、ローブから何かを取りだした。
「それは……!」
そのマシリフ・マトロフが取り出したものを見て、咲月は絶句する。
「見て下さいよ。この汚くて貧相な腕を。よく、こんなものに宿ろうとしたものです。あの方の一部であるのに」
マシリフ・マトロフが取り出したものは、千切れた腕だった。噴き出した血が乾いて、服にこびり付いている。
「うぅ……賢司君、私の為に……!」
涙目になる咲月を、一寸、見つめ、そして美樹はマシリフ・マトロフに視線を戻す。
「賢司は身を挺して、咲月ちゃんを助けた。それは、お前達からこの世界を守ろうとしたから。違う?」
「残念ながら、違いますよぉ?」
美樹の確信めいた言葉を、またマシリフ・マトロフは否定する。
「あいつは、あいつ自身が楽しめる展開に持っていきたかっただけです。それは、あのお方達の意志とは反していた。だから、消した。単純な事です」
「それを、信じられると思って?」
「信じる信じないは自由です。何て言ったって、私、無理矢理連れ去っちゃいますから」
「そんな事はさせない! アスモデウス!」
ふへへ、と笑むマシリフ・マトロフに美樹はアスモデウスの大黒炎を浴びせようとした。
「だからぁ。私、それをできちゃうんですよぉ」
瞬時に、男は緑の魔法陣と黒の魔法陣を発現させる。
「『漆黒の沼』!」
突如、空間と男は溶ける様に瓦解する。アスモデウスの放った空間を埋め尽くす大黒炎も同様に、消え失せる。
「合成魔法!?」
「そう、私は長年のアビスの研究で、独学でこの技法を得た。アダムでも、この技法を使えるのはごく一部じゃないかなぁ?」
デロデロに流動する世界の中、マシリフ・マトロフの声が響く。
「この程度、解除するのは容易い。『深淵の糾弾』!」
アスモデウスが黒の魔法陣を発現し、叫ぶ。
解読不明の言葉を発する叫びが世界に響き、空間は元の形に瞬時に戻る。
「でも、遅かったですねぇ?」
「咲月ちゃん!」
空間が元に戻った時、瞬時に美樹の目に映ったのは、空間に浮かぶマシリフ・マトロフに担がれている咲月。必死に呼び掛ける美樹の声に、咲月は無反応。目を閉じ、意識を失っている。
「良くは、分からんが──」
目的を果たし、満足気な笑みを見せるマシリフ・マトロフの背後、長大な剣が振り上げられる。
それを、マシリフ・マトロフは自身の手から発現させた群青色の網の様な鞭で防ぐ。
「貴様を見過ごすのは、不味そうだ」
「おやおや、手が早いですねぇ。流石、炎雷の天使。その纏う炎雷の様に気が短い」
マシリフ・マトロフが不気味な笑みを見せる手前、その周囲に大爆炎が発生。
が、
「不浄なれっ!」
その一言と共に、全てが萎れたように畏縮し、空間には灰のみが巻き上げられる。
「ふふ、中々に力を使いこなせているな。そうか、貴様──」
「おっと、急いでいるのでね、結論は、また後日」
そうマシリフ・マトリフが告げた瞬間、ケルビエムの大剣の炎と雷は勢いを無くし、さらに剣には錆が。
「逃がさない!」
マシリフ・マトロフの周囲。さらに、美樹が発現した幾本もの赤の触手と黒炎が取り囲む。
「無駄、無駄」
だが、マシリフ・マトロフに至る前に、黒炎は萎み、触手は砂に変わる。
「くらえっ!」
「無駄だって」
そして、しばらく様子を見ていたミシュリーヌの大槍の投擲でさえも、錆び、朽ち果て、マシリフ・マトロフに至らない。
「それでは皆様、後は素敵な殺し合いを繰り広げて下さいね! ふへへ、お邪魔しましたぁ」
「『屈服』しろ」
空間に避け目を造り、マシリフ・マトロフが咲月と共に姿を消そうとした瞬間であった。
捕縛結界に存在する疑似太陽。
その太陽に合わさり、影を作る者。
それは、聖と邪を合わせたその存在を物語る様であった。
「ふ、ぐあああっ!?」
その存在の一言で、マシリフ・マトロフは縛り上げられた様に、腕を痙攣させる。
「アスモデウス!」
美樹は、マシリフ・マトロフの手から離れ、降下する咲月をアスモデウスに受け止める様に指示をする。
「あ、あなた様は……!」
咲月を掲げ、アスモデウスは上空を見上げる。
その声は、感嘆の声。
「久しぶりだな、アスモデウス。お前を現界させるとは、美樹ちゃんは思った以上に強くなった様だな」
「……どうも」
その存在の声に、美樹はほんの少しの嫌悪感を覚える。
知っている。美樹はその存在を、否、その『人』である形を知っている。
「貴様……! ルシファー!」
激情の声で、カマエルは、その声の主を呼ぶ。
「カマエル……それにケルビエムもか。やれやれ、ウリエルの相手をしなければ、もっと事態を好転出来たものを」
そう言って、ルシファー──否、桐人は、自身が拘束した人物に問うた。
「おい。貴様らは、咲月を誘拐して何をするつもりだった?」
「ぐ、ふふ。私達は、この子に眠るものが危険と判断し、封印をしようとしただけ……」
「封印? それは、どういった方法でだ?」
「……簡単な方法ですよぉ。あのお方の深淵にこの子を幽閉させる。そうすれば、この子に眠る奴を物語から排除出来る」
「そうか」
「ぐ、ぎゃ、ぎゃあああああぁぁぁぁぁっ!」
マシリフ・マトロフは、告げた後、悲痛な叫び声を挙げる。
「それは、つまりはアビスという空間においての更に奥地。人の精神では耐え切れず、死よりも恐ろしい場所だ。そんな所に、咲月を幽閉するだと?」
桐人はマシリフ・マトロフを汚物でも見ている様な蔑みの瞳で睨みつける。
「ふ、ぐ、あ、ああああぁぁぁぁっ!?」
その桐人の瞳に呼応する様に、マシリフ・マトロフを締め上げる力が強くなる。
「わ、分からないですねぇ。この子の中の奴は……あなたの野望の障壁となるのに、何故その災いを守ろうとするのです? まさか、あなたともあろうものが情けでこの子を生かそうと?」
「違うな。どうやら、貴様は俺の根本を理解していないらしい」
マシリフ・マトロフの問いに、桐人は鼻で笑って告げる。
「俺の根本は傲慢だ。そんな『孕み神』如き、屈服させて従わせるまでだ」
その桐人の言葉に、マシリフ・マトロフは意を突かれた表情をする。
が、
「おやおや、これはまた大層な傲慢だ。そうでしたね。それこそが、あなたの『罪』でした。忘れてましたよ」
下卑た笑みでマシリフ・マトロフは言う。
「ですが、あなた如きで本当にアビスの頂点に君臨する『神の実から生まれ出でるもの』を従わせる事が出来るとでも? 残念ながら、私には到底無謀だと思いますが」
「ほう。貴様の様な溝鼠でも、そんな力量の判断が出来るのか?」
「出来ますとも。恥ずかしながら、この溝鼠風情でも『飼い主』にその様に調教されましてね?」
マシリフ・マトロフが言葉を終えた途端、周囲の大気が淀んでいく。
空は滑り、紫の瘴気が辺りを包んでいく。
「ふふ、この俺の『屈服』に耐え切り、力を行使するか。中々に骨がある鼠だな」
「ふへへ。窮鼠猫を噛むってことわざが確かこの地にはありましたよね」
「だが、それも結局はただの悪あがきだ。猫に手傷を負わせようと、最終的には鼠は猫に喰らわれる」
両者の間に、緊迫とした空気が流れる。
「では、その悪あがきをとくとご覧あれ!」
口を吊り上げ、先に動き出したのはマシリフ・マトロフであった。
叫び、そして黒の魔法陣と緑の魔法陣を同時に周囲に幾つも発現させる。
「『人神結合』!『ドゥルジ』!」
マシリフ・マトロフが告げると、その体が瘴気に包まれ、急激にその体が変化してゆく。
腕と足には黒い甲虫の皮膚、背中には蝿の羽が幾重にも生え、血の様に紅い光彩の瞳、そしてその周辺をガスマスクの様な漆黒のマスクで覆われる。
「自身と化身の境界を破り、一体化する技法か。下手したら、自身の理性が化身に奪い取られる危険性のある禁呪。アダムでは、封印されたインカネーターの技法の一つとして使用を禁じられているものだが……」
興味深く、桐人は化身と一体化したマシリフ・マトロフを見つめて呟く。
「あなたの様な、『元々がその状態』の人と渡り合うにはそうでもしないと対等に出来ないのですので」
マシリフ・マトロフはそう言って、網上の鞭を振るう。
「悪あがきは止せ」
だが、桐人に至る前にその攻撃は寸で止まる。
「では、これは如何でしょう?」
ふへへ、と不気味に笑い、マシリフ・マトロフは黒と緑の魔法陣を発現させる。
「『不浄神の喘ぎ(ドゥルジ・ブレス)』」
桐人を囲む周囲の空間が汚泥が垂れるように崩れてゆく。
「ぬ……? ほう、やるな」
その崩壊は空間だけでは無かった。
桐人の右腕も同様に爛れる様に崩れ落ちてゆく。
「神をも腐らせ、腐敗と化す私の力! ですが、その程度でやられるようでは──」
「首尾はいいな。だが」
呆れ声を漏らし、後に桐人は叫ぶ。
「本気を出せっ!」
桐人の怒号と共に、マシリフ・マトロフの腕が捻子曲がる。
「くあ、あ、ああああぁぁぁぁぁぁっ!」
あまりの痛みに、絶命に近い悲鳴をマシリフ・マトロフは叫ぶ。
「さあ、俺の『服従』に屈してみろ!」
更に、桐人の言葉でマシリフ・マトロフの腕は複雑に捻子曲がり、そしてその腕は千切れ飛ぶ。
「あ、ああああぁぁぁぁっ! そんな事、言われても、私は、本気で」
涙を流し、懇願の様な声でマシリフ・マトロフは訴えかける。
「その程度で本気なのか。よくもでかい口が叩けたな」
ふう、と桐人はため息を吐き、続ける。
「死ぬがいい。『黒の暴虐』」
無情の声で桐人は黒の魔法陣を発現し、告げる。
「ぬわ、あ、ああああぁぁぁぁぁぁっ! 見誤ったのかっ!? ルシファーがこんなに強大な力を持っているはずっ……!」
後に続く言葉は無かった。
マシリフ・マトロフは黒の球体に呑まれ、そこには何もなかったかの様に消滅する。
「『失楽園』の時の俺しか知らん風情が調子にのるからだ」
不機嫌に舌打ちをし、桐人は無くした右腕を見やる。
「まあ、貴様の一部分は『服従』して、俺の一部にしてやろう」
千切れ飛んだマシリフ・マトロフの腕が桐人の右腕に寄り集まる。
閃光と共に、それは桐人の体に『服従』し、桐人の腕の形状に変化する。
そして、その腕は桐人の右肩に吸いつき、右腕は何事も無かったかのように修復した。
「相変わらず、とんでもねえ化け物だ……!」
その桐人の様子を怯え、そして威嚇する様にカマエルは見つめていた。
「だが、ミカエル様は必ず奴めを滅すると私は信じている」
しかし、ケルビエムは確信めいた口調で言う。
「ふふ、ミカエルは当時のルシファー様を『嵌めて』、辛くも勝利したではなかったではないか。見てみろ、今のルシファー様は以前よりも数段、崇高に力を付けているぞ?」
「黙れっ! 裏切り者めっ!」
感嘆の表情で告げるアスモデウスに、ケルビエムは憤怒の声で叫ぶ。
「あれが……悪魔の首領、そしてアダムの──人の救世主」
ミシュリーヌは、神妙な表情で呟く。
それは、そこに立つ人類の救世主の、人のイメージである救世主とは似つかわない風貌と言動によるものであった。
「やっぱり、私には好きにはなれない。アスモデウス、よくもあんなものに心を開けるね」
嘆息し、美樹はアスモデウスに言う。
「お前のそれは自己嫌悪とも取れるが?」
「そう」
不機嫌に、美樹はアスモデウスの問いに一言で返す。
「京馬君を追ってここまで来たが、どうやらすれ違った様だな」
地に翼をはためかせ、桐人は降りる。
「──京馬君は、そっちの悪人面した男と一緒にここから逃げ出しました」
「そうか。一歩遅かったか」
ミシュリーヌの情報に、桐人は苦虫を潰した様な表情を覗かせる。
「京ちゃん……」
美樹は顔を伏せ、心配そうな声色で呟く。
「まずいな。懸念する事が多い上に、状況は最悪、か」
そう言って、桐人はカマエルへと目線を向ける。
「大人しく、ここを去るわけにもいかないだろうしな」
「勿論だ。今日の為に俺達天使は我慢してこの穢れた世界の管理をしてきたんだ」
カマエルは、空間に多量無数の武器を発現させ、桐人に告げる。
「私も、闘おう」
その背後、ケルビエムは言う。
だが、
「いいや、お前は逃げろ。悔しいが、お前はミカエル様から選ばれた『母体』だ。新世界の為の、な」
そうカマエルがケルビエムに告げた時だった。
「な、何だっ!?」
桐人が、驚愕の声を挙げる。
が、その場にいる者全てが、その声を聞く事は無かった。
重々しく、そして今まで感じた事の無い、圧倒的な力。
それは、どこか遠い所、否、それは、近いかも知れない。
だが、そんな距離さえも等しく感じる様な色あせる事なく、減退する事無き圧倒的な氣は、全ての者の意識に捻じ込まれる。
「この、圧倒的な力は……!」
が、一人だけは別の表情を晒す。
「咲月ちゃん?」
眠っていた体を起こし、咲月は茫然とした表情で告げる。
「もう一つの、『神の実から生まれ出でるもの』」