貼り紙
膀胱が破裂寸前……。俺は必死の思いで、公園のトイレに駆け込んだ。
至福の瞬間……。俺は目を閉じて、少しずつ穏やかな、優しい気持ちになっていく。
よく頭の中を真っ白にして何も考えずに瞑想するのは、なかなかできる事ではないと言うけれど、この一瞬だけは簡単にできる。さすがにギリギリまで耐えただけあってよくでるな。
確か、膀胱そのものの容量は成人で五百ミリリットルくらいで、究極の限界は八百ミリリットルらしいから……。もし、究極の限界で転んだりしたら破裂してしまう……危ないところだった。
それにしても、やけにながいな、止まる気配がしない……。
俺は腕時計の秒針を見た。一分が経過……。
おいおい、大丈夫か……俺……。少し心配になってきた。かと言ってどうする事もできない。ただ、ひたすら終わるのを待つだけだ。しかし、二リットル以上は出ている。普通ではない。限界容量を越えている。俺は無理矢理止めようとしたが、それでも止まらない。
別に急いでいる訳ではないけれど、気持ちは凄く焦っている。焦ることはない、あれだけ我慢したんだ、このくらい出てもおかしくはない……。そう自分に言い聞かして、気持ちを落ち着かせた。
ながすぎる……。このままずっと止まらないのか?
どうなってしまうのだ? 干からびてしまうのか?
干からびる……? 思考がおかしくなってきた。
しばらくすると子供が隣に来て、俺の方をチラッと見てズボンをおろした。
「そこの便器でしちゃったの? もう止まらないよ……」
子供は残念そうな顔をした。
「えっ? どういうこと?」
「貼り紙見なかったの?」
俺は目の前にある貼り紙に今気づいた。貼り紙には、この便器は止まりませんと書いてあった。
「見てなかったんだ……というより、見る余裕がなかった。どうすればいいんだ?」
そう言うと、子供は少し呆れた顔をしてこう言った。
「大人なんだから自分で考えれば?」
子供は遊び場に走って行った。次に杖をついた老人がゆっくりと歩いてきた。俺の存在を気にする事もなく隣にきた。 それが普通だが、今の俺の状態は普通ではない。助けを求めたいが、どう言えばいいのか……。
もし、隣の人に尿が止まらないんです! 助けて下さい! といきなり言われたら、変な奴と思って絶対無視するな。でも、一応言ってみよう……。
「じいさん、もうかれこれ二十分ぐらい尿が止まらないんだ……どうしよう……」
老人は無言のまま目を閉じている。
「じいさんっ!」
少し強い口調になってしまった。
耳が遠いのか?
老人は出し終えると、またゆっくりと歩いて出て行った。
俺は死んでしまうのか? 尿が止まらなくて死ぬなんて聞いた事がない。そんな恥ずかしい死に方は嫌だ……。
「まだ、しているの?」
さっきの子供がニヤニヤしながら戻ってきた。
「う、うん……止まる方法を知っているのなら教えてくれないかな?」
俺はすがる思いで聞いた。
「大人なのにわからないの?」
「…………」
俺は満面の笑顔だったが、心の中は鬼の形相だった。
「貼り紙をよく見たらわかると思うけど……」
俺はもう一度貼り紙を見たが流水の事だと思った。
「流水の事ではないのかい?」
「違うよ……大人になると頭がよくなると思っていたけど逆なんだね」
俺は少しだけ顔も鬼の形相になった。
「大人は貼り紙に書かれた事をあまり守らないから、こんな事になるんだよ」
子供が説教を始めた。
「ゴミはくずかごへ。お年寄りに席を譲りましょう。迷惑駐車はやめましょう。大人は貼り紙に書かれている事を見て見ぬふりをする……」
「確かにそうだね……今の俺のようにね……」
この状況より恥ずかしくなった。
俺は貼り紙をもう一度見た。
【この便器では止まりません】
この便器では……? 俺は三つある便器の真ん中にいる。
「そうかっ! 隣の便器に移動すればいいのか!」
そう言って子供の方を見ると姿はなかった。遊びに戻ったのか……子供は自由だな。 俺はそう思いながら隣の便器に移動しようとすると、もう一枚の貼り紙が目に入った。
【トイレは綺麗に使いましょう】
今回だけは見逃して下さい……俺は隣の便器に移動した。
止まらない……。
子供がゲラゲラと笑いながら、また戻ってきた。
「移動したの?」
「移動しても止まらないぞ!」
俺はイライラしてきた。
「入り口の貼り紙見なかったの?」
「入り口?」
俺は貼り紙の内容を聞いた。子供は、その貼り紙を剥がして俺の所に持ってきた。
「見たい?」
子供は、じらして遊んでいる。
「見せて……お願い……」
もう少し遊びたいけど、どうしようかな?」
「頼む見せてくれ!」
俺は必死の思いで叫んだ。子供が渋々、貼り紙を見せると、こう書いてあった。
私は、あれから毎日この公衆トイレを掃除している。それでも当たり前の様に落書きをしたり、汚していく無神経な人間が悲しかった。私は、この公衆トイレを綺麗に保つ為にある貼り紙を書いた。
【この便器は生きている人間は止まりません。死んでいる人間のみ止まります】
この貼り紙の効果なのか、なぜかトイレは綺麗に使われる様になった。……というより気味悪がって、よっぽどの事がない限り、誰も寄り付かなくなった。それでも、私は毎日トイレ掃除を続けていった。
トイレ掃除をしている彼の姿を空から見つめながら、男の子達はこう言った。
「あんな貼り紙がなくても、もう誰も寄り付かないのにね」
「そろそろ彼に教えてあげれば?」
「ずっとこのままにしておくよ。 公衆トイレで首吊り自殺したのは、汚す汚さない以前の問題だからね」
俺は張り紙を読んだ。
【このトイレは死んでいる人間のみ止まります。生きている人間は止まりません】
止まった……。
完
公衆はもちろん、お家でもトイレは綺麗に使いたいものです。最後まで読んで頂き、ありがとうございます。