本当に馬鹿なんだから
美緒に言われてシャワーを浴びてからパジャマに着替えて、マクラを抱きかかえ携帯を握り締め岡谷君の部屋の前に立ち尽くしている。
自分自身でも情けなくなってきた。いい歳して何をしているんだろう。
それにさっきより緊張していて今にも心臓が飛び出しそうだった。
すると携帯の着信音がなり響いた。
慌ててマナーモードにしようとして動いたら襖に体がぶつかってもの凄い音がする。
「ふふふ、あははは」
部屋の中から岡谷君の笑い声が聞こえてくる。
なんだか腹が立って襖を開けて岡谷君を睨み付けると携帯を握り締めた岡谷君が必死に笑いを堪えてた。
「酷いでしょ、笑うなんて。凄く凄くドキドキしてたんだから」
「同じだよ、真帆と。なんて声をかけようか緊張してドキドキしてた」
「そうなんだ、なんだ同じなんじゃん」
私の携帯を鳴らしたのは悪戯好きの岡谷君だった。
岡谷君の部屋はパソコン周りの電気が消され壁に掛けてある魚型の間接照明だけが付けられている。
「このお魚の電気って」
「大切な人から貰ったんだ。昔、誕生日に」
「今でも大切にしてくれてるんだ」
「簡単に壊れる物じゃないだろ」
「でも15年だよ」
「そうだな、物持ちがいいからな俺は」
自然と岡谷君の横に居られる、さっきまでの緊張感が嘘みたいだった。
岡谷君のベッドの上で岡谷君の横に居る、信じられないけれどこれが夢じゃない事ぐらい私にも判る。
岡谷君が体を投げ出すように横になり私もゆっくり横になった。
「あのさ、このベッドって大きいよね」
「小さなベッドは性に合わないんだよ。性というか体か。独りになってから新しく買い換えたんだ。こっちの方が聞きたかったんだろ」
「う、うん。あのね、元梨君とは何も無かったからね。何もって言うと嘘になるかな、キスはしたけどそれ以上はって事」
「そっか」
「知りたかったんでしょ」
「そうだな」
不思議だけど今なら判る、岡谷君が何を考えているか。
たぶんそれは岡谷君も同じなんだと思え。
「ねぇ、パソコンで何をしてたの?」
「書きかけの小説の大幅な変更というか書き換えかな」
「どんな小説なの?」
「主人公が長く生きられない事を知り、昔に別れてしまった彼女を探す旅に出る話」
「で、どうなっちゃうの?」
「2人の思い出の場所を巡り歩きながら、南の島に彼女らしき人が居ると知り会いに行くんだ。でも再会した彼女は事故で過去の事を何も憶えていなかった。そして彼女の横には見知らぬ男が彼女を支えていた」
「最後はどうなるの?」
「2人の男のあいだで彼女は揺れ動くうちに少しずつ記憶を取り戻していく。そして元彼の事を思い出した時には彼の命の火は燃え尽きようとしていたってラストかな」
「題名は?」
「雨虹」
「どんな意味なの?」
「ハワイの諺で『no rain…no rainbow…』雨が降らなければ虹は出ない、意訳すると涙を流さなければ幸せは見えないって事かな」
聞いているだけで涙が出そうな物語だった。
なんでそんな哀しい物語を書いていたんだろう。
「でも、なんで書き換えちゃうの?」
「美緒に駄目だしをされたんだ。そんな物語は哀しすぎるからって、『恋×』は仕方ないけど『雨虹』は絶対に駄目だって」
「どうして?」
「『恋×』も『雨虹』も、15年モノの片恋の話だから」
それって、何も言えなくなっちゃいそうだった。
実際に岡谷君は私の事を探していた、それを知って私は美緒を石垣島に行かせる計画を実行したのだから。
「真帆は美緒から報告を受けて知っていたんじゃないのか?」
「その事に関しては今更言い訳はしないけれど、最初だけかな細かく報告を受けたのは。途中から石垣島と言うより誰かさんに夢中になっちゃって有耶無耶にされちゃったの。岡谷君だって元梨君から情報が流れていたんじゃないの?」
「あいつの情報はいつもワンテンポ遅いんだよ。事が起きてから連絡が来る、まぁ無いよりはって程度だよ」
「なぁんだ、そうだったんだ」
本当に不思議、これが運命なんだろうなって今なら思える。
お互いに手探りの様な状態でいたのに今はこうして隣に居られる。
でも、一ヶ月以上も私の事をほったらかしにすること無いと思うのだけど。
普通には接してくれていたけど一応男と女なんだから。
美緒から聞いた岡谷君の言葉。
『言いたい事があるのならはっきり言え。判ってくれているなんて思ってると大怪我するぞ。言葉にして伝えないと人間なんて理解しあえないんだ』
それを実践して行こうと思う。
人間だもんね言葉があるんだからちゃんと言いたい事は言葉で伝えないとね。
「何で一ヶ月以上も真帆に触れようとしなかったの?」
「それは……怖かったって言うのが正直な気持ちかな。俺は真帆の心の傷を知っていて傷付けてしまった。それにそう言う事は嫌いだと言っていたしね。事を焦ってこれ以上失うのが怖かったんだ。独りの時は失うものなんて何も無いと思っていたのに、大切なものが目の前にあるとそれを失えば次は無いと思うと怖くて仕方が無かった」
「そっか、私もあの頃はまだ子どもだったからね。ああ、酷い。今、まだ子どもだって思ったでしょ」
「そう言うところが子どもなんじゃないか?」
違う、精神的に子どもだったと言う意味じゃなく。私は本当に子どもだったんだ、身も心も。
そして、それを岡谷君に知られるのが怖くて岡谷君を遠ざけ逃げ出したんだ。
そんな事を考えていると岡谷君が優しい瞳で話しかけてきた。
「まぁ、ひと回り近く歳が離れていればしょうがないのかな? 逃げ出したくもなるよな」
「…………」
言葉が出なかった。
今、岡谷君は『ひと回り近く歳が離れていれば』って言ったよね。
何で知っているの?
「怖かっただろうな。ボロボロに傷ついてその場から逃げ出したくって、嘘までついて石垣島に来たのに。ひと回り近く歳の違う男に捕まって、そして……」
「違う! それ以上は言わないで」
堪らず私は岡谷君の口に手を当てて『そして』に続く言葉を掻き消した。
すると岡谷君が一息ついてから私の手を掴んで口から外して相変わらず優しい瞳で見ていた。
「いっぱい大好きな海に連れて行ってくれたじゃん。まん丸のお月様や天の川を見に連れて行ってくれたじゃん。凄く嬉しかった。仕事も優しく教えてくれるし、少しずつだけど良いかなって。この人なら良いかなって、でも素直になれなくって。そうしたら……」
今度は岡谷君の人差し指で『そうしたら』に続く言葉を掻き消されてしまった。
「全部、判っているから」
「えっ」
「あの時、何があったのか。その後の事まで知っているんだ」
頭の中が真っ白になりそうだった。
私の歳の事も、あの時の事も知っているってその後って……
それを知っていて岡谷君は?
私と接していたの?
そしてそれでも私を……
「どうして?」
「ルイさんに聞いたんだよ。全部」
女優であり歌手でもある柴崎ルイは唯一無二の私の大親友で、最初は私の噂を聞いてネイルアートをしに来たのだけど常連さんになってくれて公私共に何でも言い合える仲になったの。
そんなルイに私は無理な頼み事をした。
ルイの演技力で石垣島に居る岡谷君を誘惑して翻弄してと。
するとルイは何も聞かずに二つ返事で引き受けてくれた『久しぶりに美緒ちゃんの顔が見たいから』って。
でもそれは去年の9月の事だ。
そして岡谷君は私の計画も元梨君から連絡を受けていた。
どこまで知っているんだろう全部それとも怖くて聞けない。
岡谷君に聞いても過ぎた事だからって笑い飛ばすだろう。
それでも私はどうしても聞きたかった。
「岡谷君、聞いても良い? 正直に答えてね。ルイから何を聞いて、どこまで知っているの?」
「真帆が歳を誤魔化して石垣島に働きに来た事。俺との事もあったけど年齢を偽っているのを知られるのが怖くなって内地に帰った事。1人で苦労して美緒を育てた事、そしてそんな苦労をして育てた美緒が荒れていた事かな」
「それで本当に全部? 私を探しに石垣島まで来た元彼の事は?」
「あの頃に何となく判ってたよ」
そうだよね、子どもだった私がどんなに誤魔化そうとしてもバレバレだよね。
『何となく』は岡谷君の優しさ、だって岡谷君は凄く敏感な人だもん。
人の僅かな変化にも直ぐに気がついてしまう、だから余計に怖くなって逃げ出したんだもん。
「元梨君からは?」
「たいした事は聞いてないよ。事が起きた後であいつから連絡が来るから、ああこれは計画の内なんだって。それ以上にあいつは美緒の事を心配してたよ」
「そ、そうなんだ」
本当にこの人は馬鹿なんだって思った。
計画のイレギュラーで生死の狭間を彷徨う羽目にあっても、私の計画に最後まで付き合ってくれた。
でも今なら判る。
どれだけの覚悟がこの人にあるのか、そしてこの人が言ってくれた言葉も信じる事が出来る。
私が誰を選んでもこの人は私と美緒の幸せを人生が終わるまで祈り願い続けるに違いない。
自分の人生なんて本当にどうでも良いって考える大馬鹿なんだって。
だから私は一生側にいて仕返しをしてやるの、お返しなんてこの人は絶対に受け取らないと思うから。
だってこの人は美緒が言うとおり私と同じくらい素直じゃなくて天邪鬼なんだもん。
だからこれは一番初めの仕返し。
「本当に馬鹿だよね。優し過ぎるんだよ」
「それは元梨が? それとも俺が?」
ほら、少しだけ岡谷君が揺れた。
「元梨君は馬鹿なの、岡谷君はその上を行く大馬鹿なの」
「で? 横に居るわけだ」
で? って優しい笑顔で返されていくら仕返しをしても絶対に勝てない気がした。
人は鏡だって聞いたことがある笑顔で返せば笑顔で答えてくれるって、素直になったら素直に返してくれるかな。
「私も大馬鹿だから大馬鹿が良いの」
「そうか真帆も大馬鹿なんだ」
「うん、って違う。違う。何か私に言う事無いの?」
「そうだなぁ」
岡谷君が難しい顔になって本気で考え込んでいる。
泣きたくなってきて自棄になって叫んでしまった。
「本当に大馬鹿なんだから! 私は岡谷君が大好きって言ってるのに!」
「素直にそう言えば良いだろ」
へぇ? 岡谷君に言われて体中から力が抜けていく。
私、素直じゃなかったの? そうだよね『大馬鹿が良い』は素直じゃないよね。
素直は真っ直ぐって言う事だもんね。
謝ろうとして顔を上げると優しく岡谷君に抱きしめられて心臓の鼓動が跳ね上がって、何も言えなくなっちゃった。
「大好きだよ。真帆」
「もう1回言って岡谷君」
「岡谷君か。余所余所しい呼び方だな」
本当に岡谷君は意地悪?
違う、真っ直ぐなんだ。
心から名前で呼んで欲しいって思っているんだ。
でも恥ずかしくって隆史君なんて言えないよ、だから。
「隆君、もう……」
「大好きだよ」
大好きな隆君に口を塞がれてしまった。
初めてじゃないのに初めての時よりドキドキする。
そして力強く抱きしめられる。
「嫌かな?」
「嫌じゃないよ。隆君としたい。大好きだから」
お互いに真っ直ぐに向き合うことが出来たと思う。
ここからがスタートなんだって。
大好きな人に包まれてそう思えた。止まない雨は無いんだって。
『 No rain…no rainbow…』素敵な諺。
雨が降った後には必ず幸せが訪れる。
何度辛い事がこれからあっても大好きな人と一緒なら乗り越える事が出来る。
辛い事の向こうにはきっと大きな虹が見えるはずだから。