あれは本心じゃないから
「う、う……どうしよう」
美緒に背中を押してもらって岡谷君の部屋の前まで来たのは良いけれど戸惑ってしまう。
何て声を掛ければいいの?
襖をいきなり開けたら不自然だよね……襖の隙間からは僅かに明かりが漏れている。
そしてキーボードを叩いている音が微かに聞こえてきた。
「お、岡谷君。美緒は秋香さんのアパートに泊めてもらうって」
勇気を出して言った言葉がこれだった、私は何を言っているんだろう。
「美緒からメールが着ていたよ」
「そ、そうなんだ……」
話が続かない。
襖を一枚隔てているだけなのに凄く遠くに感じてしまう。
まるで2000キロ離れている東京と石垣島に居るくらい遠くに。
するといきなり襖が開いて目の前には岡谷君が立っていて心臓が飛び出しそうになる。
「……コーヒーでも飲む?」
「う、うん」
岡谷君が私の横を通ってキッチンに向かい冷蔵庫を開ける音が聞こえ、私は部屋の前に立ち尽くしたままだった。
「どうぞ」
「あ、ありがとう」
岡谷君がマグカップにアイスコーヒーを入れてきてくれて渡してくれた。
「クーラーつけているから閉めてもらえるかな」
「えっ、あっ。ゴメン」
慌てて部屋に入って襖を閉める。
机代わりの押入れのライトと壁に掛けてある魚型のランプだけが点されていて。
ベッドの枕元の壁にはコミックとライトノベルなんかが壁に着けられた棚に綺麗に並んでいる。
美緒から聞いていた通りの部屋だった。
でも部屋の中は少しだけベッドの位置が換わっているけれど昔と変らないままの気がした。
立ったままで居るのも変だったので岡谷君がパソコンに向って座っている後ろにあるダブルベッドに腰掛ける。
この大きなベッドって……駄目駄目、今はそんな事を考えている場合じゃない。
岡谷君は私の気持ちを知ってか知らないでか、液晶画面から目を離さずキーボードを叩いている。
「あのね、岡谷君さっきはゴメンなさい。酷い事を言ってしまって。凄く驚いてパニックになってどうして良いか判らなくて、あれは本心じゃないから」
「驚いてパニックになった時に一番に出てくるのが本心じゃないのかな?」
優しい声だけどそれはもう1人の私が呟いた言葉と同じだった。
「まぁ、真帆が寝ぼけていたのかも見極められなかった俺が悪いんだ、気にする事はないよ」
「気にするよ! それじゃ何でマンションを飛び出して行ったの?」
キーボードを叩く音が消えて部屋の中に静寂が訪れる。
岡谷君が大きな溜息を付く音が聞こえるけれどこちらを見ようとしない。
いつもは大きな岡谷君の背中が気のせいか小さく見える。
「また、同じ過ちを繰り返していると思ったら自分自身に腹が立ったんだ」
その言葉だけで十分だった。この人は15年ものあいだ苦しみ自分自身を責め続けている。
私の心の傷を知った上で離れたくないからした事を自分の責任だと背負い込んで生きてきたんだ。
まるで私と同じ、そう気付くと少しだけ心が軽くなった。
「後悔しているんだ」
「後悔しているよ、俺が馬鹿だったのだから」
「これからも後悔したままで生きていくの? 私はそんなの嫌だな」
「独りだったらそうしただろうな、でも今は違う」
「美緒が居るから? 私が居るから?」
岡谷君は何も答えず液晶画面から視線を外して何かを考えているように見える。
「私も岡谷君と一緒だよ。ずっと後悔してた。だから美緒を石垣島に行かせたの、美緒も父親かもしれない人がどんな人か会いたがっていたしね。でもそれに対して後悔はしていないよ、だってこうして岡谷君とまた出逢えたんだもん。そしてこれが私の本当の気持ち、岡谷君と美緒と一緒に居たい家族として。駄目かな?」
私が同じだと気付き心が少しだけ軽くなったように岡谷君にも気付いて欲しかった。
少しでもちゃんと伝わっただろうか岡谷君は何も答えてくれない、本当に駄目なのかな。
「元には戻れないぞ、それでいいのなら」
「……それって」
どうとって良いの? もう駄目って言う事なの?
それとも……
困惑していると私に向き合うように岡谷君が座ったまま椅子を回転させて私の方を真っ直ぐに見ている。
「俺も、2度と後悔したくないし後悔したままなんてゴメンだ。片恋を終わらせたいんだ、ずっと俺の側に居て欲しい」
「本当に?」
「これが俺の本当の気持ちだ。15年も片恋してきたんだ、逃げてもどこまでも追いかけて捕まえてやる」
「逃げたりしないもん、一生側に居て仕返ししてあげるんだから」
「そっか」
「うん!」
2人の心の中で凍えるように固まっていたしこりがゆっくりと解け始めた瞬間だった。
岡谷君がマグカップを私の前に突き出し、私も両手でマグカップを持って岡谷君が突き出したマグカップにカチンと合わせてアイスコーヒーに口をつけたの。
「に、苦い! ブラックじゃん、これ」
「今日はブラックな気分だったんだよ。相変わらずお子様だな」
「酷いょ、苦いの嫌いなんだもん」
私が頬を膨らませると目の前に可愛らしい赤い紙で出来た小さなバスケットに詰められて、綺麗にラッピングされているクッキーが出てきた。
『うう、こんな時間に食べたら太っちゃうじゃん』
そんな事を考えていると岡谷君がクッキーを引っ込めようとした。
「いらないのなら美緒にでもやるか」
「駄目! 食べる!」
岡谷君の手からクッキーを掠め取ると一瞬だけ岡谷君の目が優しく笑った気がする。
凄く気になったけれど美味しそうなクッキーには勝てなかった。
「美味しい!」
一口頬張るとサクサクで甘さ控えめで凄くブラックのアイスコーヒーとマッチした。
なんでも有名なパティシェが作ったらしい。
私がクッキーに夢中になっていると岡谷君は『風呂』と一言だけ言い残してシャワーを浴びに行ってしまった。
「他にどんなクッキーがあるのかなぁ……あれ?」
「うわぁ! ど、どうしよう」
慌てて美緒の部屋に戻って携帯を握り締めていた。
「もう、何時だと思っているの? ママ」
「だって、美緒。だってね、美緒。クッキーの中に指輪があるんだよ」
「あのね、ママ。少し落ち着いてくれる? 子どもじゃないんだからね。パパとはちゃんと話をして上手くいったんでしょ」
「う、うん」
「だったらそう言うことでしょ」
「そう言うことって?」
「本当に判らないの? 上手くいったって言うことはこれからずっと一緒にいるって事でしょ。男と女がずっと一緒に居るって結婚しか考えられないでしょ。パパからのプロポーズを受けたんでしょ?」
美緒に改めて言われて恥ずかしくなってしまい顔が真っ赤になるのが自分でも良く判った。
「で、パパは何をしてるの?」
「お風呂に入って部屋に居ると思うよ」
「で、ママは私の部屋で何をしているの?」
「こ、これからお風呂に入って……」
「お風呂に入って?」
「寝ようかなって」
「まさか、美緒の部屋で寝たりしないよね。金輪際美緒の部屋で寝るのは禁止だからね。しょっちゅう寝ぼけたママに抱きつかれるなんて真っ平御免なんだからね」
「うう、意地悪」
「グズグズしてると今すぐ殴りにいくよ」
クッキーの中から出てきたのは指輪だった。
それはプラチナのシンプルなデザインで私の誕生石のアメシストが埋め込まれていて、左手の薬指に不思議な事に気持ち良いくらいジャストフィットした。