結論から言えば
全ての光りが吸収されて、静寂が支配する深海のような世界だった。
浮いているのか沈んでいるのかさえ判らず、自分の体が今どのような状態なのかも判らない。
ただ、真っ暗闇の世界を漂っていた。
そして、全ての感覚が麻痺している。
触覚・嗅覚・視覚・聴覚。時間の流れも曖昧で、どの位時が経っているのかさえ定かでなく。
ただ、言い表せない様な疲労感に全身が覆われている感じだけがする。
「もう良いだろう。疲れたんだ、静かに眠らせてくれ……」
「本当に、それで良いのか?」
何処からか声がする、声がするという事は耳がいやまるで脳みそに直接聞こえてくるような不思議なとても低い声だった。
「これ以上何をしろと? もう十分だろう」
「それではこれでもか」
思考すら薄れていく中でフラッシュが光るように画像がダイレクトに映しだされた。
誰かが泣き崩れている。
母親と娘のようだ。
そして薄暗い監獄のような場所。
すると、何処からかすすり泣く女の声が聞こえてきた。
「……君、会いたいよ。……君、会いたいよ」
聞き覚えがあるような声だが今の俺には誰なのか判らないし考える事すら出来ない。
たった一つだけ判る事は不快な耳障りな声だと言う事。
「もう、眠りたいのに静かにしてくれ。お願いだからこのまま……」
意識も思考も薄れ途切れそうになった時に、眩いばかりの閃光と共に遠くから誰かを呼ぶ声がした。
「パパ!」
その瞬間、得も言われない感覚が突き抜けた。
「パパ!」
「俺の事なのか?」
「パパ!」
誰かを切実に呼ぶ声がする度に心臓が力強く動き血液が全身を駆け巡る音がする。
すると、誰かが手を握り締めているような触覚が戻ってくる。
「パパ!」
今度は確かに声が聴覚に伝わる。
その声は嗚咽交じりの女の子の声だった。
「パパ!」
病院特有の薬臭いような消毒液の匂いが嗅覚を突く。
「パパ!」
薄っすらと目を開けると視覚に光が流れ込んでくる。
ぼんやりと女の子の顔が見える。
真帆なのか?
そんなはずは無い俺の側に真帆がいるわけが無いのだから。
誰なんだ? この女の子は?
喋ろうとするが声が出せない、体も殆ど動かせなかったが指先だけが僅かに動いた気がした。
「パパ! お願いだから目を覚まして。ゴメンね、こんな目に遇わせて。本当は少しだけ困らせたいだけだったの。だって14年間もほったらかしにされてきたんだよ」
病室の中には心電図の規則正しい電子音と隆史の呼吸音だけが聞こえている。
美緒が握っている隆史の指が僅かに動いた。
「パパ? 目が覚めたの?」
ゆっくりと目を開き普通の人より少しだけ茶色い瞳がゆっくり左右に動き辺りを見ている。
「ここは病院だよ。パパは刺されて……」
美緒の瞳から大粒の涙がポロポロと零れ落ちた。
「だ……誰だ?」
「えっ? ……美緒だよ。判らないの?」
美緒の顔を見た後、隆史の瞳は焦点が定まらないままユラユラと宙を泳いでいる。
「本当に私が誰だか判らないの?」
大量に出血をするとショックで記憶の混濁が起こると、確か医者がそんな事を言っていた。
もし、このままパパの記憶が戻らなければ……一緒に……
「ふっ、ふふふ……」
動揺してパニックになりかけている美緒の耳に隆史の押し殺したか細い笑い声が聞こえてきた。
「パパ?」
「何を時化た顔をしてるんだ。美緒」
「パパ! 私がわかるの? あっ、もしかして騙したでしょ。酷いよ! もう3日も目を覚まさなかったんだよ。美緒、どうして良いか判らなくって……」
「泣くなよ、また死に損ねたみたいだな。俺は死神に愛されているから大丈夫だ」
「もう、馬鹿!」
久しぶりに子どもらしい美緒を見た気がした。
安心して気が抜けたのかベッドに突っ伏して声を上げて泣いている美緒の頭を何とか手を動かして優しく撫でた。
すると病室に白髪交じりの髪を後ろに撫でつけ、黒のブルゾンにグレーのスラックスを穿いた恰幅の良い男の人が入ってきた。
「お、気付いたか。もう大丈夫みたいだな」
「加納さん? 何で……」
「岡谷の両親の連絡先が判らなかったらしくてな、フサキの連中から俺の所に連絡があったんだ」
「すいません。忙しいのに迷惑掛けて」
「馬鹿野郎! こんな時くらいは頼れよ」
加納さんが昔と変らず怒って声を上げた。
「すいませんでした。それでお袋達には?」
「まだ、連絡していないよ。その方が良いんだろ」
「ありがとうございます」
美緒はまだしゃくり上げていたが慌てて涙を拭いて加納さんに挨拶をした。
「は、始めまして」
「この子が噂の大羽の娘さんか。本当に大羽にそっくりだな」
「マネージャーの加納さんですか?」
「マネージャーは止めてくれよ、もう昔の話だよ。なぁ、係長」
加納さんが寝ている俺に視線を落とした。
「加納さん、それこそ昔の話じゃないですか」
「私、看護婦さんに知らせて何か飲み物買って来る」
そう言いながら美緒は病室を飛び出していった。
美緒が病室を出て行くのを確認してから加納さんが話しかけてきた。
「岡谷、お前刺されたって本当なのか?」
「本当です。若い奴等に意味も判らず絡まれて、歳の事も考えずにキレて半殺しにしましたけど。奴等の仲間の一番若い奴がいきなり」
「キレたってお前な。何でお前が絡まれたんだ?」
「結論から言えば真帆と美緒に罠に嵌められたんです」
「で、どうするんだ。そこまで判っていて」
「警察には何も言いませんよ。ナイフだって絶対に見つからないようにゴミ収集車に投げ込んだんですから。何もかも俺の身から出た錆です、今頃は全て夢の島ですよ」
「相変わらずだな。俺の部下だった奴の中でも一番馬鹿正直で、どうしようもなく優し過ぎるんだよ。お前は」
「俺はいい人ですから。最後までいい人で居させてくださいね」
「本当にしょうもない奴だな。しかし、岡谷らしいと言えば岡谷らしいかもな」
ちょうど話が終わった時に美緒と看護婦が主治医を連れて病室に現れた。
そして詳しい体の状態を聞かされた。
蓄積した疲労により腎臓が弱っていて、弱った腎臓にナイフが刺さりとても危険な状態だったらしい。
ただ幸運だったのはサラシをきつく巻いていたので腎臓の損傷が酷くなく一命を取り留めたとの事だった。
板子一枚下は地獄という言葉があるがサラシの布切れが無ければ本当に地獄行きだったようだ。
地獄行きは何とか免れたが開腹手術を受けたばかりなのに、癒着しないように直ぐにでも痛さを我慢して体を動かすように言い渡された。
もう命に別状が無いと言う事だろう。
まぁこの後も検査検査の毎日がしばらく続く事は肝に銘じた。
「それじゃ、俺は連絡をくれたフサキの連中に知らせないといけないからこれで帰るぞ。何かあれば必ず連絡しろ。いいな」
「はい、判りました。一つだけ加納さんにお願いが、美緒を送ってやってくれませんか?」
俺の言葉に美緒がハッとして俺の顔を見た。
「私はパパと一緒にいる」
「帰るんだ、直ぐに警察が来る。お前が居ると話がややこしくなるから帰れ! 受験生なんだからこんな所に居ないで勉強でもしてろ!」
いつになく強い口調で言われ美緒の顔がみるみる歪んでいく。
「もし警察に何か聞かれても救急車を呼んだ以外何も喋るな。いいな。もし余計な事を一言でも話してみろ、美緒とは金輪際親でも子でもないからな」
「パパのばっ……か……うぅぅ……」
クチャクチャになった美緒の顔から涙が溢れ落ちる。
涙とも鼻水とも言えないもので美緒の顔はグジュグジュになったまま立ち尽くしている。
「本当にしょうがない奴だなまったく。行こうか、美緒ちゃん」
加納さんが溜息混じりに美緒に声を掛けて肩に優しく手を置いて2人連れ添って病室から出て行った。
加納は美緒を連れて1階にあるロビーホールのベンチシートに座っていた。
しばらくして美緒が落ち着いてくると加納は優しく美緒に言い聞かせた。
「あれは岡谷の本心じゃないからね」
「でも、あんなに怒って」
「あれが岡谷の優しさなんだよ。美緒ちゃんは未成年で受験生という事は中学3年かな。美緒ちゃんの未来はこれからなんだ。警察に世話になる様な事をしてはいけないよ」
「は、はい」
美緒が力なく答えるとロビーに数人の背広姿の男が現れ、早足で座っている2人の横を通り過ぎて行った。
恐らく病院側から連絡を受けた警察関係者だろうと言う事が容易に推測できた。
「怖い人達が来たみたいだから帰ろう。そうだ今度時間が有る時に岡谷が書いているインターネットの日記みたいなものを知っていたら読んでごらん」
「ブログだよね、美緒はもう読んだよ」
「そうか読んだのか。大羽と別れてからの15年間はあいつだって無意味に過ごして来たわけじゃないはずだ。理由は色々あるだろうけれど結婚して3人の子どもを育てて離婚して。好きになった人も居ただろう、それでも一番は誰だったのかな」
「本当にママなのかなぁ」
「それは僕にも判らない。知っているのは岡谷だけだからね、美緒ちゃんにはあいつの本当を見て欲しいな」
「私は……でも、ママが居ないと……」
美緒が哀しそうに目を逸らして俯いた。
「君は親が居ないと何も出来ない年齢だけど、自分の考えは自分の意思で伝えられる歳だよね」
「はい!」
美緒の澄んだ瞳に光りが戻り、加納は優しい顔で美緒に微笑みかけた。