結果オーライ
東京大学医学部付属病院の底冷えのする廊下のベンチに美緒は力なく虚ろな表情で壁にもたれて座っていた。
外はすっかり暗くなり未だに雪が降り続いている。
本当なら順天堂大学の方が近いのだが先に運ばれた3人の男達の所為なのか東京大学の方に搬送され、病院に着き緊急オペが終わったのを見届けて病院内の電話で事の顛末を全て話した。
「美緒、何があったのか説明しなさい。そう、迎えに行くからそこで待ってなさい」
「どうしよう、もしも……」
「その時は、一緒に警察に事情を説明しに行きましょう。それで容態はどうなの?」
「今はとりあえずICUに居るよ、明日には個室に移れるみたい」
「結果オーライね、思ったより……」
安堵感を漂わせる声を美緒が遮った。
「オーライなんてそんなはずない! 体の疲労と出血が酷くって、いつ目を覚ますか判らないって。目を覚まさなければ最悪の場合……」
「それで警察の人は何て?」
「怪我が怪我だから意識が戻ってからって。その時に私からも事情を聞きたいって」
「判った。直ぐに迎えに行くから今日はゆっくり体を休めて、明日もう一度一緒に病院にね」
「うん」
翌日、2人は隆史が入院している病室に居た。
ドアには面会謝絶の札が掛けられていたが娘だと告げると案内して病室に入れてくれた。
「ママ、別れてから会うのは何年ぶりなの?」
「もう10年以上経つかな、岡谷君が結婚をしてしばらくした時に一度だけ会った事があるの。もちろん2人きりじゃなくって、前に一緒にバイトしていた女の子が結婚をするからビデオレターを送ろうって皆が集まった時に。あの頃ビデオカメラを持っていたのが岡谷君だったの」
「そうなんだ」
「お互いに歳は取っているのね。こんなに白髪が生えちゃって」
真帆が隆史の伸びてきた髪の毛をそっと掻き分けた。
その顔は美緒が見る限り憎んでいる顔ではなく優しい瞳をしていたが複雑な表情だった。
「ねぇ、まだ続けるの?」
「この馬鹿の容態次第かな。今はなんとも言えないけれどここまでじゃまだ足りないの」
「そうなんだ。でもパパ……じゃなくタカのパパやママに知らせなくて良いの?」
「問題はそこ。連絡先を知らないの」
「タカの携帯のアドレスを見たんだけど、岡谷って苗字じゃ登録してないみたいで判らなかったの」
少し間が空き真帆が再び口を開いた。
「警察の人は何て言っていたの?」
「意識が戻っての一点張り。そうだ夏実さんに聞いたら判るかも」
「それって岡谷君の前の奥さん?」
「うん、凄く優しくって姉御肌で良い人だよ」
「なんだか美緒は変わったわね」
「…………」
美緒は何も言わず唇をかみ締めて俯いた。
「変わるのがいけないって言っているんじゃないの。色んな人と出会って人は成長していくものだから。それに無理に岡谷君の事をタカって呼ばなくていいわよ」
「うん、わかった。それじゃ夏実さんに」
「それは止しましょう」
「何で?」
「私達も静観しましょう」
「そんな……あんまりだよ……酷すぎるよ……」
美緒が苦渋の色を浮かべるとそれを見て真帆は困惑した表情を見せたが小さく頷いた。
「判ったわよ、そんな顔をしないの。あの頃の友達に聞いて東京に居るはずのマネージャーだった加納さんに連絡してみるから」
「うん」
迷いを吹っ切るかの様に返事をして、美緒は今までに無くはっきりとした口調で真帆の目を真っ直ぐに見据えた。
「どうしてもママに聞きたい事があるの。ママは復讐の為に私を産んだの?」
「馬鹿! なんて事を言うの! そんな訳無いでしょ」
「それじゃ何でパパが誰かも判らないのに私を産んだの?」
真帆は美緒の問いにたじろいだ。
それ以上に美緒の真剣な真っ直ぐで澄み切った瞳に吸い込まれそうになった。
「どうしてもあなたに逢いたかったの」
「それじゃ私の本当のパパは誰なの?」
「ゴメンね。ママにも判らないの」
「そんな……それじゃ、何でパパにこんな事をするの?」
必死に零れ落ちそうになる涙を美緒は堪えた。
「何度も子どもが出来た事を伝えようと思った。でも出来なかった。あの頃のママは中途半端なまま岡谷君と付き合っていたの。完全に前の彼と別れる事が出来てなかった。そして石垣島まで彼が話をしたいって追いかけてきて。勘違いしないでね、ママは別れるつもりでいたのでも……あいつは……」
今度は真帆が零れ落ちそうになる涙を堪えていた。
「もう、判ったからそれ以上は言わないで。私はまだ子どもだけど女の子だから何となく判る、でもパパなら」
「そう、岡谷君なら全てを受け入れてくれると思ってた。そう思った時にはこいつは結婚をして幸せそうに……私の事を探しもせずに」
「ママだけが苦しくって辛かったのかな? パパだって大変だったんじゃないの」
「もう、遅いわよ」
「人生に遅いなんて無いって。リ・スタートしたところから始まるんだって、パパがブログに書いてた」
「もう、良いの。この計画を最後までやり遂げないと私も岡谷君も今の場所から歩き出せないの」
「でも……」
「美緒の我儘を全て聞いたのは何の為なの?」
「そうだね、ママがそこまで言うのなら。でも元梨貴也さんはこの事を知っているの?」
「知っているわ。口出し無用ってきつく言ってあるから何もしないけどね。それとその他所他所しい呼び方何とかならないの?」
「無理だよ」
「それと、岡谷君にはもう会っちゃ駄目よ」
「えっ? う、うん。判った」
強引に真帆に押し切られ、それっきり美緒は目を伏せて何も喋らなかった。
真帆は困った様な顔をして溜息を一つだけついた。
翌日、この事件は小さな新聞記事と短いニュースになって報道された。
私はママに嘘をついてパパの入院先の病院に来ていた。
雪は止んだけれど鉛色の雲が垂れ込め、まるで心の中を映し出しているようだった。
すると、病室のドアをノックする音が聞こえる。
私が恐る恐るドアを開けるとそこには……
顔面蒼白で強張った顔をしているルイさんに連れ出されて、病院の近くのネットカフェに強引に連れ込まれてしまった。
「パパさんの容態はどうなの?」
「…………」
「美緒ちゃん、黙っていたら判らないでしょ」
ルイさんの口調はあくまでも落ち着いて静かだった。
「どうなるか判らないってパパの気力次第だって」
「そう、何でこうなったのかはあえて私は聞かない。今ここにあるのは結果だけだから。パパさんの生きたいと思う気力だけじゃ無理かもね」
この人は何を今言ったのだろう。
パパが助からないと……
何でそんな事を言うの?
パパをこんな目に遭わせたのは確かに私達で、何も言える義理じゃないけれど人には言って良い事と悪い事があるはずなのに。
私は奥歯を噛み締めてルイさんの顔を真っ直ぐに見据えた。
「ルイさん、何でそんな事を言うの? ルイさんに何が判るの?」
「私には判るの、パパさんからもしもの時にって」
「これは何? パパの名刺?」
ルイさんが差し出したのはパパの名刺だった。
その裏には何かのIDとパスワードがパパの字で書かれていた。
「石垣島でパパさんとデートした時に渡されたの。色んな事を聞かれたわ美緒ちゃんの事や美緒ちゃんの事を」
「私の事だけじゃない」
「そう、美緒ちゃんが育った東京での生活の事が殆どだったもの。美緒ちゃんが小さい頃の事はパパさんも何となく判っていたし、大きくなってからの事も何となく知っていたみたいだけど」
「それって私が良くない仲間と連つるんで居たって事?」
「そう、パパさんは見てないようでちゃんと見ているでしょ。それに経験からなんだろうね、仕事で数え切れないくらいのアルバイトの人達と仕事をしてきたって言ってたしね」
「そうだったんだ、判ってたんだ」
「美緒ちゃんには覚悟がある? このIDとパスワードがあればパパさんが美緒ちゃんの目に入らないようにしたブログを読む事が出来るけれど」
ルイさんの話で何故ネットカフェに連れ込まれのか理由が解けた、それでも戸惑ってしまう。
私が見れないようにしたパパのブログそこには何が書かれているのか?
それに何故ルイさんがそんな物を持っているのか。
「どうして、それをルイさんが?」
「最初はパパさんの悪い冗談かと思ったの。美緒の東京の仲間にボコられちゃうかもなって、でね何かあった時はブログを削除してくれって。こんなブログを残すなんて一生の恥だからって、悪い冗談だと思ってたのに……パパさんは多分こうなる事を判っていた筈なのに……」
「ルイさんは読んだの?」
唇を噛み締めてルイさんはただ頷くだけだった。
そして……
「パパさんは終わらせる場所を探していたのかも」
「そんな、それじゃ最初からパパは……」
ブログのメインサイトを開きIDとパスワードを入力するとパパのブログの管理画面が出てきた。
そして非公開になっているブログを開いていく。
そこにはパパの心の中にずっといた人の事と行き詰った時のブログが……
何回もこんな思いをしてきたんだ。
それは私が知っているパパからは想像もつかない内容だった。
思いつめて浮き上がって思いつめて、そして何度となく死を本気で見つめていた。
それじゃ態と私の事を煽って?
その時にパパが何気なく何度となく言っていた言葉が蘇ってきた。
パパはこの計画を知っていて……計画に乗っていたの?
そして、1つだけ気になる事が。
「ルイさん、この事をママには?」
「言ってないわ、美緒ちゃんだけよ。私は何が起きてもパパさんの思いに添えるようにしたいから」
「それじゃなんで止めて……」
ルイさんの瞳から始めて大粒の涙が溢れ出した。
「私だってこんな事になるのなら止めたわよ。でも違うんでしょ、何かの間違いでパパさんが生死の狭間を彷徨う羽目になったのでしょ。真帆と美緒がこんな酷い事するなんて思えないもの、パパさんも真帆も美緒も私にはとても大切な人なんだもの」
ルイさんの想いが流れ込んでくる。
親友と大切な人の間で揺れ動いている。
でも大切な人はルイさんの親友を……
パパの本当を知りながら大切な人の思いに添いたいとルイさんは言う。
私にはそんな事は出来ない。
そんな想いを知っていたから、真っ直ぐに見ていたから、パパはルイさんが助けを求めた時に……
キスした時に……すでに覚悟が出来てて……
「パパが死んじゃう!」
私はネットカフェを飛び出して病院に向って駆け出した。
パパが倒れた時に野崎さんのが言っていた言葉が頭の中を過ぎる。
『地獄の底からでも美緒ちゃんが呼べば這い上がってくるわよ』
今はその言葉を信じるしかなかった。心の底からパパを呼び続けた。