君との生活
別に特に理由などない。ただ生活を少し変えようと思った。毎日起きて、会社に行って、家に帰って、寝て、また起きて、その繰り返しの毎日を、少しでも変えたいと思っただけだ。家具を増やしたり変えたりするだけでは物足りない。部屋の中を見渡し、我ながら奇抜な考えが浮かんだ。そうだ、家族を増やしてみようか。
しかしいざ家族を増やすとなっても難しい問題だった。女は論外だ、やかましくて生活が一変するどころかどん底になる。かといって男はもっと御免だ。いい年こいて学生のような真似事をしてどうする。家族でも呼ぶか、静かすぎる母と、黙らない父から解放されて早10年、何を今更。ペットはもっと駄目だ。さんざん迷惑をかけるあの様に、癒しを感じる人の神経が理解できない。
さてどうしたものかと何となく雨の街を歩いてみた。答えは見つからず、行き詰ってしまった。とりあえずカーテンでも替えてみるかな、大あくびしながら大型量販店に入ろうとしたそのときだった。箱の中に入り、虚ろにこちらを見つめてくる目と目が合った。最初は捨て犬か何かだと思ったが、驚いたことに少女だった。通りすがる人々は、ある者は同情するだけして声もかけず、ある者は大笑いしながら携帯のカメラ機能を連射していた。
俺はその子を見下ろした。どちらかといえば可愛い部類に入るかもしれないが、目に生気がなく、口は妙に半開きで、服もぼろぼろだ。お世辞にも可愛いと声をかけられない。俺はしばらくその子と見詰め合った。虐待され続けた挙句に捨てられたかもしれない。
そうだこの子にしよう。俺はその子の手を取り、カーテンを買わず、そのまま家へ帰った。彼女は何も言わずについてきた。
妙な疑いをかけられてはたまらない、一応警察には連絡した。一週間くらい経っただろうか、結局身元は分からず、捜索願いもなく、このままでは施設に送ることになるという連絡だった。予想通りといえば予想通りだった。俺が善人ぶって引き取ります、と言った。そうですか、と警官と名乗った男は微笑んでいたが、その目は妙に厭らしかった。俺が性的虐待を試みてるところでも想像したのだろうか。
残念、俺にはそんな趣味はない。正直同世代の女を抱いても楽しいと思ったことはない。
ペットを飼った経験はあまりないが、彼女は恐らくそれとそれほど変わらないだろう。何でも食べ、何でも飲み、何でも着る。虐待の影響からか、元からそうだったか定かではないが、彼女は口を利かない。静かなのはいいことだ、俺はその少女を割と気に入った。ペットであれ何であれ名前がないのは不便だ、何がいいだろうと俺が呑気に名前辞典を見ていると、後ろから彼女の気配がした。
「おじさん」
驚いた、しゃべれるのか。俺が振り返ると彼女は何だか泣きそうな顔をしていた。
「私を叩かないの?」
そうかやはり虐待されていたのか、俺は一人で納得した。叩かないよ、と俺が答えると、彼女が笑った。欠けた歯が何本も見えた。
「帰りたいか?」
そう聞くと、彼女は頭が落ちるんじゃないかと心配するほど首を横に振った。俺が思わず笑ってしまうと、彼女も笑った。その夜は、俺が眠ると、彼女も同じ布団の中へ入ってきた。構わないから好きにさせた。人と寝たのはずいぶん久しぶりだった。
翌朝、彼女はいなかった。視線だけで探すと、彼女は部屋の隅にいた。膝を抱き、頭を伏せ、小刻みに震えていた。俺が声をかけようとすると、彼女は更に姿勢を低くした。
「叩かないで」
俺は驚いた。叩かないよ、と声をかけると、彼女はこちらを見るが、まだ怯えていた。虐待の傷は予想以上に深いらしい。思っていたより面倒な拾い物をしたな、どうする元いた場所に返すか、などと迷っていると、次に少女は信じられないことを口にした。
「おじさんは誰?」
俺が思わず凝視すると、彼女はもっと怯えた。
「君を昨日拾った者だよ」
「…嘘…昨日も、叩かれたもん。パパから叩かれたもん」
彼女があまりに怯えるため、俺はもう、彼女に声をかける気にもならなかった。
また夜になった。彼女は俺に少しは心を開いたのか、また与えては何でも食べ始めた。腹が膨れたら、今度は眠ってしまった。ようやく寝てくれたかと俺も寝支度をすると、彼女がまた入ってきた。
そして翌朝、また子猫のように震えながら、彼女が言った。
「おじさん、誰?」
翌日も、その翌日も、彼女は俺に怯え、そしてまた懐いていった。毎日毎日はじめまして状態が続く。最初は物珍しさで何とか耐えられたが、いい加減苛立ってきた。毎日毎日世話をしてやっているのに、毎日毎日はじめましてではたまらない。
そういうことに詳しそうな知人に連絡を取ってみると、そういう病例は確かに存在するという。一日しか記憶を保てない病気が。虐待の影響かもしれないし、あるいはそれが原因で虐待されたかもしれない。
なるほど、他人が数日で腹が立てるのだから、実の親が数年面倒を見て毎日はじめましてでは、俺が今まで経験したことないくらいの怒りが生じるだろ。やはりもう捨ててしまおうか、俺が彼女を見た。彼女は怯えている。こうも毎日だと、こちらも少しは対応に慣れてきた。
「叩かないよ」
俺がそう言うと、彼女の震えは少し止まる。やれやれ、俺が煙草に火をつけようとすると、失敗した。
毎日毎日記憶がリセットされているのに、叩かれたことだけは覚えているのか。それほどまでに、強烈に染み付いているのか。
同情よりも、嫉妬が勝った。俺のことは毎日はじめましてでも、叩かれることだけは忘れない。その記憶の強さに俺は嫉妬していた。このまま捨てては、あまりにも癪だ。いつか、彼女が俺を認識することが出来たら、そこで初めて俺はその記憶に勝てる。
その日から俺はその子の父親になることにした。毎日怯えられようが、俺は強引に彼女を愛した。美味いものを食べさせ、可愛い服を買ってやり、休みの日はらしくもなく買い物や遊園地に連れていった。知らない男から必要以上の物を与えられ、色んなところへ連れ回され、彼女は毎朝怯えていたが、夕方には笑っていた。声を上げて、笑っていた。
そうして半月ほど経っただろうか、彼女は起き上がり、こちらを見て、なんと笑っていた。
「おはよう、パパ」
「おはよう」
記憶に勝った瞬間だった。俺は彼女に見えないように、小さくガッツポーズした。
「パパ早く、ヒーローショー始まっちゃう」
「今行くよ」
あれからどのくらい経っただろう。ぎこちなくではあるが、彼女は俺をパパと慕い、もう怯えなくなった。急かすお姫様の声を聞きながら、布団だけは干させてくれと笑い返した。これだけ晴れる日はめったにないのだ。
ついでに彼女の布団も干そうと持ち上げたその時だった。枕の裏から、画用紙が出てきた。それはどうやら、俺の似顔絵のようだった。らしくもなく嬉しくなり、そっと裏返して元に戻そうとしたら、手が止まった。
画用紙の裏には、彼女の字でこう書いてあった。
パパだよ
たたかないよ
だいじょうぶだよ
そうか、と俺は静かに理解した。彼女の記憶に俺は染みついてなかったのだ。彼女は毎日毎日俺を忘れ、その度にこれを見ていたのだろう。彼女はどこかで知っていたんだ、自分の病気のこと。そして、この気まますぎる勝手な父親の偽物のことを。
彼女は俺を愛するしかない。もう帰るところなどないのだから。そして俺もまた、これに気づいたところで、彼女を手放す選択肢はもうない。
病気なのは、どっちだ。
「パパ、どうしたの?」
「なんでもないよ。行こう」
「うん!」
いつか君に話せたらいい。
君の記憶が毎日リセットするのを悪いように利用して、毎週同じヒーローショーに連れていったこと。
そしてこの下手くそな似顔絵のお礼は、いつ言わせてくれるのだろう。