「難しい話は他所でやれ」と婚約破棄して私を追い出した王太子様へ。私が三年間分肩代わりしていた財政の赤字明細書、代わりにふわふわ(笑)男爵令嬢様に処理させておきますね
「ネム・ファンデット。お前との婚約を破棄し、本日をもってファンデット侯爵家との婚約解消を正式に宣言する!」
きらびやかな王宮の大広間、無数のシャンデリアが照らす謝恩パーティーの壇上で、王太子アラルドの声が響き渡った。
アラルドの傍らには、可憐なピンク色のドレスを身にまとった男爵令嬢フローラが、勝ち誇ったような、それでいて少し怯えたような仕草でぴったりと寄り添っている。
きっとその怯えた仕草は計算されたものなのだろう。
周囲の貴族たちから、一斉にヒソヒソという囁き声が漏れ聞こえてきた。
憐れむような目、嘲笑するような目、あるいは事態を面白がるような視線が、壇下に立つ私へと集中する。
私は、表情一つ変えずにアラルドを見上げた。
「……アラルド殿下。本件は、陛下および侯爵家当主である私の父の合意を得てのお言葉でしょうか」
「父上には私から事後承諾を得る!ファンデット侯爵家も、私の真実の愛を前にすれば納得せざるを得ないはずだ。お前はあまりにも冷酷で、私を愛しようとしなかった。私の愛を真に理解し、この優しき心で支えてくれるのは、フローラだけなのだ!」
アラルドは胸を張り、大声を張り上げた。
フローラは潤んだ瞳でアラルドを見上げ、「アラルド様……」と甘い声を漏らしている。
この人たちは自分たち以外が見えていないのだろうか。
私は、しばらく彼らの姿をじっと見つめていた。
悲しいという感情は湧いてこなかった。というか呆れて怒りもなかった。
ただ、私の脳裏を占めていたのは、極めて実務的な計算だった。
(アラルド殿下の本日までの個人的なツケが金貨で約八百枚。フローラ様が王宮の図書室から借りたままで紛失したとされる魔導書の補填費用が金貨で三十枚…これらをすべて処理し終えるのは、明日の午前中になりそうですね)
「……ネム、何か言うことはないのか。お前のその地味で冷徹な態度が、私をどれだけ傷つけてきたか、今なら理解できるだろう!」
アラルドが、私の沈黙を「ショックで言葉を失っている」と誤解したのか、さらに得意げな顔で追及してくる。
私は静かに一礼して続けた。
「承知いたしました、殿下。婚約破棄および婚約解消の件、謹んでお受けいたします。つきましては、正式な書面による手続きを進めさせていただきます。持参金の返還方法ですが、金貨での一括返還でよろしいでしょうか?それとも、王室保有の債権での相殺をご希望ですか?」
「な……!?」
アラルドは、私の返答があまりにも淡々としていたためか、拍子抜けしたように目を見開いた。
周囲の貴族たちからも、困惑したような声が漏れる。
泣き崩れるか、あるいは怒り狂って抗弁するかと思っていたのだろう。
「お前は……最後までそんな冷たい事務的な話をするのか!どこまで冷酷な女だ!」
「財務に関わる件は、迅速な処理が肝要ですので。では、私はこれで失礼いたします、今後の手続きなどがございますので」
私はもう一度深く一礼すると、彼らの反応を待たずに大広間を後にした。
背後でアラルドが何か叫んでいたような気がしたが、大広間の重い鉄扉が閉まると同時に、その声は完全に遮断された。
廊下に出ると、ひんやりとした夜風が私の頬を撫でた。
私は小さくため息をつき、手元のメモ帳を取り出した。
「はぁ…。さて、明日からやるべきことが山積みですね」
私は、長年勤めていた退屈な職場から、ようやく解放されたような解放感を抱きながら、王宮を後にした。
翌朝、ファンデット侯爵邸の私の執務室に、老齢の王室財務長官が血相を変えて飛び込んできた。
「ネムお嬢様! これは一体どういうことですか!」
彼の手に握られていたのは、私が今朝早くに王宮の財務局へ届け出た、二通の正式な書面だった。
一通目は、『ファンデット侯爵家による王室財政支援の終了通知書』
二通目は、『ファンデット商会と王宮との取引契約の完全解除届』
私は温かいお茶を一口すすり、財務長官に穏やかな笑みを向けた。
「長官閣下、朝早くからお疲れ様です。書面に記載した通りでございます。
私とアラルド殿下との婚約は、昨夜をもって正式に解消されました。したがって、我がファンデット家が『未来の王妃の実家』として行ってきた王室への財政補填、および我が商会による特別融資は、すべてその根拠を失いました」
「し、しかし! ネム様が支援を止められては、王室の資金繰りは今月中に破綻します! 過去三年間、王室の赤字を黙って埋めてくださっていたのは、他ならぬファンデット家ではありませんか!」
財務長官の声が震えていた。
彼は、王室の財政がネムの「個人的な支援」によって維持されていた事実を、薄々知っていたのだ。
いや、正確には知っていながら、見て見ぬふりをして甘えていた。
私は、手元に用意していた一冊の分厚いファイルを財務長官の前に置いた。
「過去三年間、我が家が王室の赤字を埋めるために投入した資金の明細書です。総額で金貨四百十七万枚。すべての領収書と、私が処理した出納記録が添付されております。ご確認ください」
財務長官は震える手でファイルをめくった。
一頁ごとに書き連ねられた膨大な数字と、細かく記された監査印。
王宮の正魔術師たちが無駄遣いした魔導具の購入費、アラルド殿下が主催した無意味な夜会の費用、整理されず放置された使途不明金。
それらすべてを、私の実家の資産と、我が商会の利益で「赤字補填」として処理していた記録だ。
「これほどの額を……黙って処理されていたと……」
「ええ。アラルド殿下が『未来の王室のために、私の名前で処理しておいてくれ』とおっしゃいましたので。ですが、私はもう未来の王妃ではありません。ですので、明日からの補填は一切行いません」
「ネ、ネム様……どうか、せめて今期の予算が確定するまでは、支援を継続していただけないでしょうか……!」
財務長官が、半ば哀願するように頭を下げた。
「お断りいたします。契約が解消された以上、これ以上の無償提供は我が家の株主への背信行為となります。……では、長官閣下。今後の持参金の返還手続きについてですが……」
財務長官は力なく首を振り、崩れ落ちるように椅子に座り込んだ。
彼の目は、すでに「破産」という二文字を見つめているようだった。
ネムが王宮の財政支援を完全に打ち切ってから、わずか三日後。
最初の崩壊は、目に見える形で始まった。
「アラルド殿下! 騎士たちに支払われるべき特別手当が未払いです!
財務局は調整中の一点張りですが、これまでこんなことは一度もなかった!」
怒り狂う騎士団長に対し、アラルドは「数日待て」と不快そうに手を振るだけだった。
彼には、これまで期日通りに支払われていたのが、ネムが商会短期融資を裏で回していたおかげだという実態が理解できていない。
さらに二日後、王宮の商人たちが納品をストップした。
「ファンデット商会が信用保証を引き上げたため、今後はすべて前払いでなければ納品できません」
側近の報告にアラルドは激怒するが、主要商会はすべてファンデットの傘下だ。紙一枚、パン一つすら手に入らなくなった。
追い打ちをかけるように、無邪気なフローラが執務室に現れる。
「アラルド様! 婚約記念に、私の故郷で特別な祝宴を開くことにいたしましたの! 費用はたったの金貨三千枚です!」
「ああ、構わないよ、ああ可愛いフローラのためなら皆喜んで参加するだろう」
そう頷くアラルドだったが、傍らにいた財務長官が限界を迎えて声を張り上げた。
「アラルド殿下! とんでもない! 現在、国庫の自由資金はわずか四千二百枚です。祝宴に三千枚も使えば、来週の職員の俸給すら払えません!」
「四千枚? バカな。税収があるだろう!」
「税収は三ヶ月後です! それまでの運転資金はすべて、ネム様が融資と補填を行っていたのです。殿下が婚約を破棄されたことで、すべての歯車が止まりました!」
財務長官はネムのファイルを机に叩きつけた。
アラルドは頁をめくり、桁違いの数字に血の気を失った。
「金貨、四百万……? な、なぜ、誰も私に報告しなかった!」
「二年前…ネム様が報告に訪れた際、殿下は『難しい話は財務局でやれ。今からフローラと散策に行く』と拒否されたはずですが…」
アラルドは顔を青ざめ、言葉を失っていた。
「そ、そうだ! フローラの父であるサヴィル男爵に頼めばいい!…フローラ、申し訳ないのだが…頼れないだろうか?」
「えぇ!パパならすぐ呼べますわ!」
フローラは自信にまみれた表情で答えた。
数時間後、呼び出されたサヴィル男爵が自信ありげに胸を張って執務室に現れた。
「アラルド殿下、お困りのようですな!このサヴィル、殿下と娘のためならば、我が男爵家の全財産を投げ打ってでも支援いたしましょう!」
「おお、本当か!助かる!」
アラルドの顔に安堵の笑みが戻る。
しかし、財務長官は冷淡な声で男爵に尋ねた。
「……男爵閣下。大変不躾ながら、閣下が今すぐご用意できる総資産は、金貨でいかほどになりますでしょうか」
「フン、我が家を侮るなよ。鉱山からの配当も含め、即座に動かせる金貨は……なんと八万枚はある!」
男爵は誇らしげに言い放った。
フローラも「まあ、パパすごいですわ!」と手を叩いて喜んでいる。
だが、財務長官は深くため息をつき、ネムのファイルを男爵の前に差し出した。
「ファンデット侯爵家が、昨年一年間だけで王室の赤字を埋めるために投入した資金額は、金貨で百四十二万枚です。男爵閣下の全財産をすべて投入したとしても、わずか二十日分の赤字すら埋められませんが……よろしいですか?」
「……は?」
サヴィル男爵の動きが止まった。誇らしげに張っていた胸が、みるみるうちに萎んでいく。
「ひゃ、百四十万……?たったの一年で……?」
「ええ。ちなみに、来月の国債の利払いだけで金貨三十万枚が必要です。これらが期日までに支払われなければ、我が国は『債務不履行』となり、周辺国からの信用を完全に失います。男爵閣下の八万枚では、金利の端数にしかなりません」
執務室の中に、重苦しい沈黙が降りてきた。
フローラが「あの……八万枚って、そんなに少ないんですの……?」と、初めて不安そうな声を漏らす。
彼女の頭の中で、ようやく数字という概念が現実の重みとなって動き始めたようだった。
その翌週、王宮の混乱は極限に達していた。
ついにアラルドは、自らファンデット侯爵邸へと足を運ぶことを余儀なくされた。
「ネム・ファンデット嬢に面会を求めたい」
アラルドは、侯爵邸の執事に対して努めて尊大に振る舞おうとしたが、その声には焦りが滲んでいた。
しかし、彼が通された応接室で、アラルドは三時間以上も待たされることになった。
「まだか! 私は王太子だぞ!」
アラルドがシビレを切らして立ち上がろうとしたその時、ようやく応接室の扉が開いた。
入ってきたのは、地味なグレーのドレスを着たネムと、その後ろに従う、見事な濃紺の礼服を着た若い男性だった。
アラルドは、その男性の顔を見て目を見開いた。
「メイナード公爵……!? なぜ、隣国の君がここにいる!」
隣国アルスター公国の若き公爵であり、大陸有数の商権を握るメイナードは、不敵な笑みを浮かべて一礼した。
「お久しぶりです、アラルド殿下。私は現在、ファンデット商会と新たな貿易協定の締結交渉を行っておりましてね。ネム嬢の卓越した財務能力を、我が国の『首席経済顧問』としてお迎えすることになり、その詳細を詰めていたところです」
「首席経済顧問だと……!? 隣国の……?」
アラルドは呆然とした。ネムは、何事もなかったかのようにアラルドの対面の椅子に座り、卓上に一枚の書類を置いた。
「アラルド殿下。本日はどのようなご用件でしょうか。貿易交渉の合間ですので、あまり長い時間は取れませんが」
「ネム……私は、その、財務の件を知った。お前がこれまで、王室のためにどれほど尽くしてくれていたかを……」
アラルドは、喉の奥から絞り出すように言った。
「私が間違っていた。フローラとの件は一時的な迷いだ。婚約解消の件は白紙に戻そう。
お前が再び私の婚約者として王宮に戻ってくれるなら、私はお前の能力を正当に評価し、王妃としての地位を約束する。だから……戻ってきてくれ」
アラルドは、必死の形相でネムの手を握ろうとした。
しかし、ネムはそれを静かに避け、先ほど置いた書類をアラルドの方へと押し進めた。
「こちらは、ファンデット商会がご提供する『王室向け財政再建コンサルティング・パッケージA』の料金表でございます」
「……何?」
アラルドは眉をひそめた。
「月額基本料金が金貨十二万枚。初期の負債整理および利払い調整の代行手数料として、初回のみ金貨五十万枚を申し受けます。なお、こちらのプランには、過去の赤字補填の継続は含まれておりません。あくまで、王宮の予算を適正化するための『指導』のみを行うプランとなります」
「ネム、お前は何を言っているんだ! 私は婚約の話をしている!」
「私は、ビジネスの話をしておりますの」
ネムの瞳には、アラルドに対する愛着も、恨みすらも浮かんでいなかった。
ただ、見知らぬ取引先の担当者を見るかのような、徹底的な無関心だけがあった。
「私はもう、貴国の王太子妃ではありません。したがって、我が商会のリソースを無償で提供する理由はございません。
当商会との取引をご希望であれば、こちらの契約書に署名と、国王陛下の玉璽の捺印をお願いいたします」
「そんな……そんな契約、王室の予算で払えるわけがないだろう!」
「では、交渉は決裂ですね。……メイナード閣下、お待たせいたしました。先ほどの貿易協定の第十四条についてですが……」
ネムはアラルドから完全に視線を逸らし、隣のメイナードへと話しかけた。
メイナードは嬉しそうに頷き、アラルドに向かって勝ち誇ったような笑みを向けた。
「…アラルド殿下。私たちは仕事の話がありますので、そろそろお引き取りいただけますか。これ以上の滞在は、商談妨害とみなさざるを得ません」
アラルドは、拳を握りしめ、震えながら立ち上がった。
かつて自分があの大広間で、ネムに対して「冷酷な女だ」と吐き捨てた言葉が、そのまま自分に返ってきたかのような感覚だった。彼は力なく、応接室を去るしかなかった。
それから一ヶ月後。
王宮の執務室で、アラルドはネムから提示されたあの「料金表」に基づき、正式に業務委託契約書に署名していた。
そうしなければ、国が本当に破産してしまうからだ。
毎月、ファンデット商会から派遣されてくる若い税吏たちに、王宮の支出を荒々しくチェックされ、小言を言われる日々が始まった。
そして宮廷内では、もう一つの変化が起きていた。
「うう……なんで、なんでこんなに計算が合わないの……!」
王宮の一角にある小さな部屋で、フローラが山積みの帳簿を前に頭を抱えていた。
王室の支出を制限するため、彼女は「未来の王妃の義務」として、宮廷の食費や生活費の細かい帳簿付けを財務局から義務付けられたのだ。
数字が嫌いで、これまで計算など一切してこなかった彼女にとって、それは拷問に等しかった。
「フローラ様、そちらの交際費の欄ですが、金貨五枚分の使途不明金があります。再計算してください」
派遣されたファンデット商会の職員が、冷淡な声で指摘する。
「もう嫌……! アラルド様、助けて……!」
しかし、アラルド自身も騎士団への謝罪と、期日の迫る国債の返還調整に追われ、彼女を助ける余裕など微塵もなかった。
かつて「真実の愛」と呼んだものは、毎日の細かい数字と返済期限の前に、すっかり色褪せてしまっていた。
一方、隣国アルスター公国の豊かな緑に囲まれた城の庭園で、ネムは穏やかな午後を迎えていた。
テーブルの上には、最新の貿易統計資料と、メイナードが淹れてくれた温かいハーブティーが置かれている。
風が木々を揺らし、心地よい葉の擦れる音が響く。
「……ネム、こちらの案件も君の予測通りに進んだよ。王国の関税引き下げ案が承認された」
メイナードが、資料を指差しながら満足そうに言った。
「当然です。彼らにはもう、交渉の余地はありませんから」
ネムは静かに微笑んだ。
その表情には、王宮の薄暗い執務室で一人で数字を追いかけていた頃の、物理的・精神的な疲労感はもうなかった。
「ネム」
メイナードが、彼女の手をそっと握った。
「君の能力は、ここでは正当に評価される。もう、誰かの無駄遣いの尻拭いをする必要はない」
ネムは自分の手を見つめた。ペンだこができた指先。
だが、今はその手が、自分の意志で新しい未来を創り出しているのだと実感できる。
「ええ。……三年間、随分と無駄な時間を過ごしてしまったと思っていましたが、ここで活かせるなら、それも悪くありませんね」
ネムはハーブティーを口に含み、青く澄み渡った空を見上げた。
遮るもののない風が、彼女の髪を優しく揺らしていた。
【完】




