第3話 環境設定と初期装備
男の背中を追いながら、私は歩数と方位を正確に記録していた。
後宮の構造は複雑だ。
迷路のように入り組んだ回廊、似たような景観の中庭。
侵入者を防ぐためか、あるいは一度入った女を逃がさないための設計なのだろうか。
だが、どこか規則性はあるようだった。
男が向かっているのは、北東の方角。
風の流れと、建材の質が変わった。
湿気が減り、香木の匂いが強くなる。
――上層エリア。
管理職、あるいは高位の妃が住まう区画だ。
「……歩くのが速いな」
不意に、男が足を止めずに言った。
「下女にしては、足運びが静かすぎる。山歩きだけでは、そうはならん」
観察されている。
私は呼吸を乱さずに答えた。
「熊に遭わないための歩き方です。音を立てれば死にますから」
「ふん。熊、か」
男は鼻で笑った。
「この後宮にも、熊よりたちの悪い獣はいくらでもいる。お前が助けた貴妃を狙った何者かも、その一匹だ」
試すような口調。
情報を小出しにして、こちらの反応を見ている。
私は無表情を保つ。
誰が犯人かなど、興味はない。
重要なのは、私が「巻き込まれて死ぬ確率」がどれくらいあるかだけだ。
「到着だ」
通されたのは、飾り気のない、しかし整然とした執務室だった。
壁一面の棚には巻物がぎっしりと詰まっている。
埃ひとつない。
几帳面な性格か、あるいは優秀な掃除人がいるか。
男は上座の椅子に腰を下ろし、長い足を組んだ。
「名を名乗れ」
「ありません」
「嘘をつけ。親がいなくとも、呼び名くらいはあるだろう」
「……『ソラ』と。あの人はそう呼んでいました」
偽名ではない。
だが、意味は伝わらないだろう。
師匠は私を「空(Sky)」ではなく、「Solar(太陽)」の意味で呼んでいた。
エネルギーの源。あるいは、唯一のもの。
「ソラか。間の抜けた響きだ」
男はつまらなそうに言い、机の上の書類を一枚取った。
「俺の名はガクだ。この後宮の管理全般を任されている」
宦官の最高位に近い立場。
やはり、強力なコネクションだ。
「お前を洗濯係から外した。今日から俺の直属とする」
「……職務内容は?」
「『掃除』だ」
ガクは薄く笑った。
その目は、爬虫類のように冷たく光っている。
「埃やゴミの掃除ではない。厄介ごとの掃除だ。先ほどのような、医者がさじを投げた案件、あるいは――表沙汰にできない汚れ仕事」
予想通りだ。
都合のいい道具。
だが、私にとっても悪い条件ではない。
洗濯場での重労働は、カロリー消費に対して得られるリターンが少なすぎた。
「対価を要求します」
私が言うと、ガクは目を丸くし、それから声を上げて笑った。
「はっ! 拾われた身で取引か。いい度胸だ。何を望む? 金か? それとも着物か?」
「満足いく環境です」
私は指を三本立てた。
「一、個室であること。睡眠の質は生存に直結します。
二、水と火を自由に使用できる権利。
三、薬草園および、薬品庫へ入ることのできる権利」
ガクの笑いが止まった。
探るような視線が突き刺さる。
「……金ではないのか」
「金貨は食べられません。出血も止められません。この閉鎖空間において、貨幣の価値は常に変動します。それだったら実用物資の方が信頼性が高い」
「……変わった奴だ。だが、理屈は通っている」
ガクは顎をしゃくった。
「いいだろう。部屋は、この執務室の裏にある物置を使え。狭いが、鍵はかかる。水も火も好きにしろ。薬品庫の鍵も貸してやる」
交渉成立した。
「ただし」
ガクは身を乗り出し、私の目を覗き込んだ。
「成果を出せ。俺の期待値を下回れば、即座に元の洗濯場へ戻す。……いや、その時は秘密を知りすぎた『処分品』として処理するか」
脅しではない。
事実の通告だった。
「了解しました。生存する限り、私が持ちうる知識を提供します」
与えられた部屋は、四畳半ほどの広さだった。
以前は書庫として使われていたのか、乾燥していてカビ臭さはない。
窓からは、少しだけ空が見える。
日当たりよし。換気よし。
大部屋での雑魚寝に比べれば、天国のような環境だ。
私は荷物を解いた。
と言っても、持っているのは着替えの布が数枚と、師匠の形見だけだ。
私は布の包みを開き、中身を取り出した。
手のひらサイズの、黒く艶やかな板。
そして、白くて平たい、奇妙な形状の箱。
――タブレット端末と、ソーラー充電器。
この時代には存在しない、オーパーツ。
師匠が「向こう側」から持ち込んだ、叡智の結晶。
私は窓辺に充電器を広げ、ケーブルを端末に接続した。
太陽光パネルが光を受け止める。
数秒後、端末の側面に、小さな赤いランプが灯った。
通電確認。
まだ生きている。
だが、起動はしない。
バッテリーの劣化が進んでいる。
満充電まで何日かかるか分からないし、起動しても数分も持たないだろう。
この端末の中には、師匠が集めた膨大な「生存理学」のデータが眠っている。
医学、薬学、農学、物理学。
百科事典数千冊分に及ぶ知識。
だが、今の私には、それを見ることはできない。
――知識があっても、電力がなければ無意味。
私は端末を布に包み直し、床下の隠し収納へ収めた。
ここなら誰にも見つからない。
次に、ガクから渡された薬品庫の鍵を手に取る。
まずは現状把握が重要だ。
この後宮に、どのような「武器」があるのかを知らなければ、戦術は立てられない。
私は部屋を出て、回廊を歩いた。
すれ違う女官たちが、私の姿を見てひそひそと噂話をしている。
「あれが、例の……」
「血まみれの部屋に一人で……」
「ガク様の新しい……」
ノイズが多い。
だが、敵意は少ない。畏怖と好奇心が勝っている。
私の安全地帯は確保できたようだ。
薬品庫は、執務室の並びにあった。
重厚な扉を開ける。
薬草独特の、苦く、ツンとする匂いが充満していた。
棚には、乾燥した根や葉、動物の骨、鉱石などが無造作に詰め込まれている。
一見して、分類が甘い。
効能別ではなく、見た目の色や形で分けられている棚もある。
――非効率だ。
毒と薬が隣り合わせに置かれている。
湿気を嫌う葉が、床に近い場所に置かれている。
私はため息をつきそうになるのを堪え、棚の前に立った。
大掃除が必要だ。
だが、その前に。
私は棚の奥に、透明なガラス瓶を見つけた。
中に入っているのは、透明な液体。
蓋を開け、匂いを嗅ぐ。
鼻腔を刺激する、強烈な揮発臭。
――高濃度の酒精。
酒として納品されたものだろうか。度数は七〇%近い。
これなら、消毒液として使える。
抽出溶媒としても優秀だ。
隣には、白い粉末。
舐めてみる。苦い。
ケシの実から精製された鎮痛成分だ。
量は少ないが、麻酔の代用になる。
ある。
思ったよりも、使える素材が揃っている。
だが、道具は足りない。
環境も不十分だ。
だが、知識という触媒があれば、ゴミの山を宝の山に変えることができる。
私は棚の端から、必要なものをピックアップし始めた。
生存理学、実践フェーズ2。
まずは、私自身の「工房」を構築する。
静かな興奮が、胸の奥で小さく燃えるのを感じた。
感情ではない。
これは、生存本能の喜びだった。
その時、背後で扉が開いた。
「精が出るな」
ガクの声だ。
だが、その声色は、先ほどまでの冷徹なものとは違っていた。
どこか、切迫した色が混じっている。
「早速だが、仕事だ、ソラ」
ガクは私の手元を見ずに、早口で言った。
「死体検分だ。……妙な死に方をした女がいる」
私の安息時間は、一時間と持たなかったらしい。
私は手にしたアルコールの瓶を置くと、ガクの方を向いた。
「死因の特定ですか?」
「それも含めてだ。呪いだの祟りだのと騒がれていてな。現場を封鎖しているが、噂が広まるのは時間の問題だ」
呪い。
非科学的な事象の代名詞。
つまり、説明のつかない「死」ということだ。
「別料金になりますが」
「……言ってみろ」
「次回の食事に、肉をつけてください。ここに入れられてからタンパク質が不足しています」
ガクは一瞬呆気にとられ、それから口の端を歪めた。
「なんだそんなものか。安いものだ。牛一頭でも食わせてやる。ついて来い」
私は懐に、木炭と清潔な手ぬぐいをねじ込んだ。
生存理学、応用編。
現場検証の開始だ。




