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後宮下女の生存理学 〜呪いも病も、そんなの全部ただの現象です〜  作者: 和三盆


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第2話 エラー処理と生存コスト

 扉を開けた瞬間、鉄錆と腐敗が混じり合った臭気が鼻を突いた。


 ――換気がされていない。


 私は呼吸を浅くし、室内の酸素濃度と浮遊菌のリスクを計算に入れる。


 部屋の中は、予想通りの混沌だった。


 豪奢な天蓋付きの寝台。

 その周りを取り囲む、数人の女官と、医師らしき老人。


 女官たちは泣き崩れ、医師は祈祷のような言葉を呟きながら、

 高価そうな薬湯を無理やり病人の口に流し込もうとしている。


 非効率の極みだった。


 嚥下能力が低下している人間に液体を注げば、

 誤嚥性肺炎のリスクが跳ね上がる。


 これは治療ではない。

 緩やかな処刑だった。


 私はためらわず、部屋の中央へと歩を進めた。


 足音を消す必要はない。

 このパニック状態では、誰も下女の侵入になど気づかない。


 寝台を覗き込む。


 患者は若い。十代後半。


 顔色は土気色で、唇は乾燥しきっている。

 呼吸は速く、浅い。


 そして何より、布団の下から広がる赤黒い染みが、

 事態の深刻さを物語っていた。


 ――大量出血による循環血液量の減少。

 ――加えて、発熱。


 流産か、あるいは堕胎の失敗か。


 どちらにせよ、子宮内での感染症と出血性ショックが併発している。


 生存確率、現時点で一五%未満だろう。


 この世界の医療水準なら、

 「死」と診断されてもおかしくないレベルだった。


「おい! 何だ貴様は!」


 ようやく、医師の老人が私に気づいた。


 怒声。排除の動き。


 私は老人を見ずに、女官の一人に視線を固定した。

 一番若く、まだパニックに染まりきっていない物を選ぶ。


「お湯と、塩と、砂糖。それから清潔な布を持ってきて」


「え……?」


「急いで。あと三〇分で、この人は死ぬ」


 数字を出す。


 具体性のある絶望は、

 人を動かすための最も効率的な言葉だ。


 女官は弾かれたように部屋を飛び出した。


「な、何を勝手なことを!

 ここは貴妃きひ様の寝所であるぞ!

 下女ごときが――」


 老人が私の肩を掴もうとする。


 私はその手を最小限の動きで躱し、寝台の足元へ回った。


 布団を捲る。


 酷い臭気が立ち上るが、表情筋は動かさない。


 下半身が血にまみれている。


 止血処置が甘い。

 いや、根本的に間違っている。


 患部を布で覆っているだけで、

 圧迫が足りていない。


「邪魔だ、退いてくれ」


 私は老人を突き飛ばした。


 尻餅をつく老人。

 叫び声が上がるが、無視する。そんなものはただの雑音だ。


 私は寝台の下にあったクッションを掴み、

 患者の足の下に押し込んだ。


 足を高くする。


 まずは脳と心臓への血流を維持する。

 ショック体位だ。


 次に、患部の圧迫。


 清潔な布がない。

 私は自分の前掛けを破り、強く押し当てた。


 患者が苦悶の声を漏らす。


 痛みは生きている証拠だ。

 その声を無視して体重をかける。


「貴様……!

 衛兵! 衛兵を呼べ!」


 老人が喚いている。


 廊下から、甲冑の擦れる音が近づいてくる。


 そんなものに割いている時間がない。


 私の生存において、ここで捕まり、処刑されるのは「最悪手」だろう。


 だが、処置を途中で放棄すれば、

 この患者の死亡率は一〇〇%になる。


 それは私の「知識」に対する敗北を意味するのに等しい。


 計算しろ。

 この状況を覆すための変数を。


「――ほう」


 不意に、部屋の温度が下がったような気がした。


 衛兵と共に現れたのは、一人の男だった。


 いや、男ではないかもしれない。


 線の細い身体。

 整いすぎた顔立ち。


 だが、その瞳には爬虫類のような冷たさが宿っていた。


 宦官かんがんの服を着ているが、素材が違う。

 上級の役人なのだろう。


 男は、喚き散らす医師を一瞥で黙らせ、

 私の手元を見た。


「足を上げ、腹を圧迫しているのか?

 血を頭に送るために」


 理解している。


 この時代の常識ではない。

 だが、理屈を瞬時に看破した。


 ――話が通じる相手。


 私は圧迫を緩めずに答える。


「血液量が足りていません。

 ポンプが空回りすれば、心臓が止まります」


「なるほど。ポンプ、か」


 男は面白そうに唇を歪めた。


「だが、その娘はもう助からぬだろう。毒が回っている」


「毒ではありません。腐敗です」


「同じことだ。

 身体の中で肉が腐れば、人は死ぬ。違うか?」


 正しい。


 抗生物質のないこの世界では、

 敗血症は死刑宣告に等しい。


 ちょうどそこへ、先ほどの女官が戻ってきた。


 盆の上に、湯と塩と砂糖、それに布が載っている。


「来ました!」


 私は顎で指示する。


「塩と砂糖を、その湯に溶かして。

 塩は一つまみ、砂糖はその十倍」


「は、はい!」


「混ぜたら、少しずつ飲ませて。

 一滴ずつでいい」


 経口補水液の簡易作成を行った。


 本来は血管に直接入れるべきだが、

 ここには針も管もない。


 腸からの吸収に賭けるしかない。


 男が、興味深そうに覗き込んでくる。


「塩水か?

 脱水には水だけでいいのではないか」


「水だけでは吸収されません。

 濃度差が必要なのです」


 浸透圧の話をしても、恐らく通じないだろう。


 私は簡潔に結論だけを述べた。


「枯れた木に水をやるのと同じです。

 ただの水では根が腐る。

 栄養を含んだ水でなければ、吸い上げられない」


 男の目が、すっと細められた。


「……お前、名は?」


「ありません」


 私は答えた。


「今は、ただの処置係です」


 それから二時間。


 私は、生存と死の境界線上で、

 ひたすら演算を続けた。


 患部の洗浄。

 壊死組織の切除。


 焼いたナイフを使うとき、

 女官たちは悲鳴を上げて顔を背けたが、

 私は手元だけを見ていた。


 痛覚によるショック死のリスクよりも、

 感染源を残すリスクの方が高い。


 すべては確率の問題だ。


 六〇%の死を、四〇%に下げる。

 その四〇%を、二〇%に下げる。


 その積み重ねだけが、

 この世界で「奇跡」と呼ばれる結果を生む。


 やがて、患者の呼吸が安定した。


 熱は高いままだが、

 脈拍は強く、規則的になった。


 ――峠は無事越えた。


 私は大きく息を吐き、

 血にまみれた手を湯で洗った。


 全身が鉛のように重い。


 低血糖だ。

 私自身のエネルギーが不足している。


「……信じられん」


 医師の老人が、呆然と呟いた。


 寝台の上の貴妃は、

 苦しげではあるが、確かに眠っている。

 死んでいない。


 部屋の空気が変わった。


 私を見る目が、狂人を見る目から、畏怖を含んだものへと変化していた。


 その中で、あの宦官の男だけが、静かに拍手をしていた。


 それは乾いた、感情のない音だった。


「見事だ。

 呪術の類かと思ったが、

 随分と理屈っぽい手品だな」


 男が近づいてくる。

 甘い香の匂いがした。


「いい拾い物をしたようだ。

 山猿かと思ったが、

 どうやら少しばかり知恵の回る猿らしい」


 男は懐から布を取り出し、

 私の顔についた血の跳ねを拭った。


 丁寧で、しかしどこか冷淡な手つき。


「ついて来い。褒美をやる」


 私は男を見上げた。


 この男について行くことが、

 生存確率を上げるのか、下げるのか。


 もうあの四角い箱はない。

 新たなことを知ることもできない。


 自分の脳内にある知識だけが頼りだ。


 宮中で生き残るには、

 庇護者が必要だ。


 たとえそれが、どれほど危険な匂いのする相手であっても。


「……その布、洗ってお返しします」


「要らぬ。くれてやる」


 男は踵を返し、部屋を出て行った。


 私は一瞬だけ、助かった患者の方を振り返る。


 礼を言われる筋合いはない。


 私はただ、

 目の前の不具合を修正しただけだ。


 だが、規則正しく刻まれる寝息の音は、

 悪くない響きだった。


 私は血で汚れた前掛けを外し、

 男の背中を追った。


 これが、私がこの後宮という巨大な組織の一部として

 組み込まれた、最初の日だった。

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