第13話 生存報酬と紅の傷跡
術後四八時間。
それが、私が設定した生死の境界線だった。
その時間を越えられなければ、
貴妃・紫雲は死ぬ。
私は丸二日、
紫雲宮の寝室から一歩も出なかった。
食事は携帯食。
仮眠は寝台の横で、十五分ずつ。
排泄物の確認。
体温の計測。
水分と電解質の補給。
人間としての機能を極限まで酷使し、
ただひたすら――生存を監視し続けた。
術後の経過は、綱渡りだった。
一度、体温が三九度近くまで跳ね上がった。
体内に残った細菌が暴れ出したのだ。
私は氷嚢で頸動脈と腋窩を冷却し、
カビから抽出した原始的な抗生物質――
隠し持っていた、最後の在庫を水に溶かして飲ませた。
そして。
三日目の朝。
「……ん……」
微かな声。
貴妃・紫雲の唇から、
確かに“生きている音”が漏れた。
顔色は、土気色から薄い桜色へ。
額に触れる。
熱はない。
心拍数、安定。
血中酸素濃度、九八%。
――生存。
張り詰めていた糸が切れ、
私は椅子に深く沈み込んだ。
「……ここは?」
紫雲が目を開く。
翡翠のような瞳が、
真っ直ぐに私を捉えた。
「あなたの寝室です、紫雲様。
地獄の淵まで行っていましたが、
どうやら戻ってこられたようですね」
彼女は状況を理解しようと身体を動かし――
右腹に走る痛みに、顔を歪めた。
「っ……痛……」
「動かないでください。
まだ傷口が塞がっていません」
包帯の巻かれた腹部に、
紫雲は恐る恐る手を伸ばす。
厚い布の下に、
引き攣れるような違和感。
「……私の腹を、切ったのね?」
「はい」
私は目を逸らさなかった。
「腐った臓物を切り捨てました。
その傷は、一生消えません。
恨むなら、どうぞ。
そのために、生かしたのですから」
――王の女の体に傷をつけるのは大罪。
彼女がこの傷を「醜い」と断じれば、
私は即座に死罪だ。
紫雲は、しばらく天井を見つめ――
そして、ふわりと笑った。
「変な子ね。
助けてもらって恨むわけがないでしょう?」
彼女は静かに言う。
「あの時……猛烈な痛みの中で、
私は確かに死神の足音を聞いたわ。
あなたが、それを斬り払ってくれたのね」
包帯の上から、
紫雲はその傷を愛おしそうに撫でた。
「この傷は、
私が死神に勝った証。
そして、あなたが私を守った証拠。
……立派な勲章だわ」
――器が違う。
次期皇后最有力候補。
その理由を、
私ははっきりと理解した。
「失礼します」
扉が開き、ガクが入ってきた。
数日寝ていないはずなのに、
服装も髪も完璧だった。
目の下の隈だけが、
共有した地獄を物語っているようだった。
「気が付かれたか、紫雲妃」
「ええ、ガク。
おかげさまでね」
紫雲が微笑む。
「あなたの差し金でしょう?
こんな腕のいい、無愛想な薬師を
連れてきたのは」
「拾いものだ。
だが、役に立ったようで何よりだ」
ガクは私を一瞥し、
部屋の隅で縮こまる太医たちを見渡した。
そして、声を張り上げる。
「聞け!
貴妃様の体内からは、
長年巣食っていた
『悪しき蟲』が取り除かれた!
その傷は戦いの跡であり、吉兆だ!
この件を口外する者がいれば、
私が直々に舌を抜く!」
――情報統制。
「手術」という事実を、
「悪魔祓い」という物語に上書きする。
見事な政治判断だ。
「ソラ、下がっていい。
……少しは眠れ。
顔色が死人より酷いぞ」
ガクは私の頭に手を置き、
無造作にポンポンと叩いた。
労い。
胸の奥に、
小さく暖かいログが記録される。
部屋に戻った瞬間、
強烈な眠気が襲ってきた。
脳の強制シャットダウン要求。
だが、その前に――
一つだけ、確認しなければならない。
私は隠していたタブレットを取り出し、
リュウから奪ったスマートウォッチと同期させた。
信頼とアクセス権。
それによって、行動範囲は広がった。
『Location_History.kml』
赤い線の終点。
数十年前、
“誰か”がこの世界に持ち込み、
最後に辿り着いた場所。
紫雲宮を基準点に、
地図を拡大表示する。
後宮、北西。
封鎖された森。
誰も近づかない廃区画。
そこに表示された、古い建物。
『西離宮 書庫』
――そこだ。
赤いピンは、
そこで点滅し、消えていた。
師匠とは別の「来訪者」。
もしかすると、
そこにはまだ――
薬か。
技術か。
あるいは、元の世界へ行くための
「方法」が残っているかもしれない。
「……生存理学、
探索フェーズへ移行」
呟き、布団に倒れ込む。
意識が沈む直前、
脳裏に浮かんだのは――
腹を割いても笑った、美しい妃と。
返り血を浴びても、共に立ってくれた男の顔。
この世界で生きる理由が、また一つ増えた。
それは弱点か。
それとも、武器か。
答えは――
北西の森にあるのかもしれない。
私は、泥のような眠りへと落ちていくのだった。




