第12話 鮮血の祭壇と共犯の誓い
脂肪の層を切り裂いた瞬間、むせ返るような鉄の臭いが立ち上った。
それは医療ではない。
解体だ。
切れ味の良い短刀といえど、手術用のメスではない。
細胞を鋭利に切り分けるのではなく、組織を力任せに押し広げるような、乱暴な手応え。
「くっ、ぁぁぁ……ッ!!」
意識が混濁していたはずの貴妃が、本能的な防衛反応で体を海老反らせた。
焼き切れるような激痛が、脳の深層を叩いたのだ。
「暴れます! 押さえて!」
私が叫ぶより早く、ガクが動いた。
寝台に上がり込み、悶絶する貴妃の両肩と腰を、
その全体重をかけて押さえ込む。
「許せ、紫雲」
ガクの声は震えていなかった。
だが、額には脂汗が滲んでいる。
男が皇帝の寵妃にのしかかり、寝台に縫い留める。
平時であれば、即座に首を刎ねられる暴挙。
だが今、この瞬間において、それは唯一の生命維持システムの一部だった。
「視野確保。腹膜、切開します」
私は貴妃の腹の中から噴き出す鮮血で、両手を真っ赤に染めていた。
手袋はない。
素手だ。
温かい血の感触が、指の間をぬるりと滑っていく。
恐怖がないと言えば嘘になる。
もしこの指が震え、太い血管を傷つければ、それで終わり(ゲームオーバー)だ。
――落ち着け。
計算しろ。
血管の走行パターン。
予測される出血量。
私の指先は精密機器だ。
腹膜を切る。
途端に、黄白色に濁った膿が溢れ出した。
腐臭が部屋に充満する。
「うっ……」
ガクがわずかに顔をしかめた。
だが、手は緩めない。
視界の端で、遠巻きに見ていた医師の一人が嘔吐し、その場に崩れ落ちるのが見えた。
地獄絵図。
薄暗い寝室。
揺れる蝋燭の炎。
飛び散る血と膿。
そこで白衣の代わりに返り血を浴びて短刀を振るう少女と、
美女を力で捻じ伏せる男。
誰が見ても、これは治療ではない。
おぞましい生贄の儀式だ。
「見つけた……やはり、穿孔しています」
腹の中に指を突っ込み、手探りで探し当てたのは、
破裂した風船のように萎び、黒ずんだ突起物――虫垂。
「これを……切り取るのか」
ガクが、膿にまみれた臓器を見て低く問うた。
「はい。腐敗の根源です」
私は縫い針に通した絹糸を準備する。
本来は鉗子で挟んで止血する。
だが、そんなものはない。
直接、糸で縛って血流を止め、切り落とす。
最も難易度の高い工程。
貴妃の呼吸が浅い。
ショック状態が悪化している。
時間がない。
額の汗が目に入る。
瞬きで飛ばそうとするが、沁みて視界が滲む。
拭おうにも、両手は血まみれだ。
――視覚情報のノイズ。まずい。
その時。
ぬるい布の感触が、私の額を拭った。
「集中しろ」
ガクだった。
片手で貴妃の上体を制しながら、
もう片方の手で自らの袖を使い、私の顔についた汗と血を拭い去ったのだ。
高価なシルクの衣装が汚れることも厭わず。
「俺に医学は分からん。
だが、人を殺す手触りは知っている」
冷たい瞳が、至近距離で私を射抜く。
「この女はまだ温かい。死体じゃない。
死体にするなよ、ソラ」
その言葉は、どんな励ましよりも重かった。
この男は、私に賭けている。
自分の命も、地位も、すべてを。
「……了解」
視界が晴れた。
指先の震えが止まる。
そうだ。
これは私の戦場だ。
私が支配しなくてどうする。




