第1話 生き延びるという選択
第1話に細かい描写を加えて書き直しました。
その人がいなくなったことに気づいたのは、朝になっても家の中に人の気配が戻らなかったからだ。
夜明け前に目を覚ましたとき、土間に置いてあるはずの履き物がなかった。
山にでも行ったのだろうか。
そう思ったのは、ほんの一瞬だった。
あの人は、無断で出かけることはない。
どんな些細な行動変容でも、必ず情報を共有する人だった。
昼になっても戻らない。
夕方になっても、戸は開かない。
私は一人で火を起こし、食事をした。
夜になっても、足音はしなかった。
翌朝になって、仮説は確信へと変わった。
机の上にあった「黒い板」が消えている。
指で触れると光り、見たこともない文字や図形を映し出す、あの人の命の次に大事な端末。
紙の束も、特殊な合金のピンセットも、あの人の私物だけが、きれいになくなっていた。
――撤収したのだ。
理由は要らなかった。
あの人は、この世界の人間ではない。
最初から、何もかもが違っていた。
言葉は通じるのに、概念が違う。
星の動きではなく、秒単位の時間を気にする。
病を「祟り」ではなく、「エラー」と呼ぶ。
「ここでは、こうするんだな」
そう言って、いつも少しだけ演算してから行動する。
まるで、別の文明のルールを、この世界の解像度に合わせて翻訳しているみたいに。
だから、消えた理由も想像がついた。
あの人には、帰る場所がある。
ここではない、遥か遠く――あるいは、遥か未来か。
私は追いかけなかった。
探しもしなかった。
帰還という目的を達成した人間を、引き留める権利は私にはない。
それに、あの人は私にすべてを残していった。
生き延びるための、思考の枠組み。
感情や迷いを排し、最適解を選び取るための学問。
――生存理学。
私は、あの人が座っていた椅子を撫でた。
冷たかった。
それからしばらく、私は一人で暮らした。
残された知識と、いくつかの道具を使って、生存パラメータを維持することは容易だった。
栄養価の高い雑草を選定し、乾燥させ、備蓄する。
怪我をすれば、雑菌の繁殖を防ぐ処置をする。
知っているというだけで、生存確率は数パーセント跳ね上がる。
それで十分だった。
その日も、山に入っていた。
春先の山は変数が多い。
雪解け水による地盤の緩み、冬眠から覚めた獣、そして毒草と食草の誤認。
私は腰を落とし、葉の裏を確かめた。
葉脈のパターン、茎の断面、特有の刺激臭。
対象よし。採取を開始する。
その時、背後で枝を踏み折る、不規則な音がした。
獣ではない。人間だ。
それも、統率の取れていない動き。
振り向くと、若い女が倒れていた。
豪奢な衣を着ているが、泥だらけだ。
顔面蒼白。チアノーゼが出ている。
四肢に軽度の痙攣。
口元に、食い千切られた葉の欠片が付着していた。
――トリカブト系のアルカロイド反応。
私は即座に現状を分析する。
誤食による中毒。
摂取から推定二十分以内。
致死量に近いが、まだ心停止には至っていない。
見捨てるか?
ここで関われば、私の生存リソースが削られる。
だが、この女の身なりは「宮中」のものだ。
恩を売れば、将来的な生存戦略のカードになる可能性がある。
私は女の顎を掴み、無理やり口を開かせた。
「……あ、う……」
「黙って。酸素の無駄だ」
袋から、あらかじめ炭化させておいた木片を取り出す。
ただの炭ではない。
高温で処理し、微細な穴を無数に持たせた「活性炭」だ。
毒素を吸着させる。
この世界で用意できる、数少ない解毒手段の一つ。
砕いて水と共に流し込み、胃の中身ごと吐かせる。
女は涙目でえずくが、私は背中をさすりはしない。
気道確保のために頭を上向かせるだけだ。
数回の嘔吐の後、呼吸音からノイズが減った。
脈拍数、一二〇から九〇へ低下。
瞳孔の反応、正常化しつつある。
――生存したな。
私は手を拭い、立ち上がった。
それと同時に、林の奥から複数の足音が響いた。
現れたのは、武装した男たちと、数人の女官だった。
倒れている女を見つけ、悲鳴のような声を上げる。
「姫様!」
騒がしい。
状況確認より先に感情を垂れ流すのは、非効率な群れの特徴だ。
一人の男が、私に剣を向けた。
鋭い眼光。宮中の衛兵だ。
「貴様がやったのか」
詰問。
私は首を横に振る。
「自滅だ。私は応急処置をしただけ」
「処置だと? その黒い泥のようなものはなんだ」
「毒を吸う炭だ」
男は眉をひそめ、吐瀉物と、女の顔色を見比べた。
そして、私の手を見る。
泥と炭で汚れているが、人を殺す手つきではないと判断したらしい。
剣が下ろされた。
直後、倒れていた女が意識を取り戻し、掠れた声で何かを訴えた。
私のことを指差している。
衛兵たちの空気が変わった。
敵意から、値踏みへ。
「薬師か?」
「ただの知識だ」
「どこで覚えた」
「死んだ身内から」
短い尋問。
男たちは目配せをし、結論を出した。
「このまま帰すわけにはいかんな」
男が言った。
「事情聴取が必要だ。場合によっては、その腕を買われることもあるだろうが……拒否権はないと思え」
私は脳内で天秤を揺らす。
選択肢A:逃亡。
地形は熟知しているが、相手は武装した大人数。
射殺される確率、約八〇%。
逃げ切れても、宮中を敵に回せばこの山には住めなくなる。
選択肢B:服従。
自由は失う。
だが、宮中には衣食住がある。
冬の食料枯渇リスクはゼロになり、衛生環境も山よりはマシだ。
何より、あの人が残した「知識」を試すサンプルが、そこには大量にある。
生存確率の比較。
Aは二〇%。
Bは九〇%以上。
感情を挟む余地は既になかった。
「……分かった。同行する」
私は荷物をまとめ、大人しく彼らの列に加わった。
後宮に着いて、最初に出た感想は「非効率」だった。
王の血を残すためだけに集められた、数千の女たち。
閉鎖的な空間に高密度で人間が詰め込まれている。
噂話という不確定情報が飛び交い、嫉妬や足の引っ張り合いに、
莫大なエネルギーが浪費されている。
病理の温床だな、と素直に思った。
肉体的な病だけではない。
精神的な摩耗も激しい。
ここでの「死」は日常であり、
運命という言葉で片付けられるエラー処理に過ぎない。
私はそこで下女として割り当てられた。
名前も、過去も、重要ではない。
ただ、洗濯と掃除をこなすだけの労働力として見られているらしい。
それでよかったと思った。
目立てば、生存リスクが上がる。
私は気配を殺し、
ただ淡々とタスクを消化する日々を送った。
――あの日までは。
数日後、洗濯場で奇妙なものを見た。
籠に積まれた、大量の布。
こびりついているのは、酸化して黒ずんだ血液だ。
ただの怪我や、月のものとは明らかに違う。
量がおかしい。
そして、粘性が高い。
その時、奥の回廊から、
押し殺したような低い呻き声が聞こえた。
周囲の女官たちは、「またか」という顔で目を逸らしている。
見ざる、聞かざる、言わざる。
それが、ここでの生存戦略なのだ。
だが、私の脳内では、別のアラートが鳴っていた。
――出血性ショックの可能性。
――あるいは、感染症の初期段階。
もし後者なら、放置すればパンデミックに繋がる。
ここでの私の生存確率が、一気に低下する。
確認が必要だ。
私は洗濯の手を止め、籠を持ち上げた。
足を向けるのは、血の臭いが漂う回廊の奥。
助けるつもりはなかった。
この人に対して同情も、慈悲もない。
ただ、原因を特定し、
私の生存を脅かすバグなのかどうかを診断する。
もし救えるとするなら、それは「結果」に過ぎないのだから。
私は何も選ばない。
情報を提示し、選ばせるだけだ。
それが、師匠から受け継いだ唯一の生存理学だから。
私は静かに、禁じられた扉に手をかけた。




