伝説の池 ――ボートに乗ったカップルが別れるという――
「先生、腕でも組みましょうか? 一応カップルに見えるように……」
「そこまでやる必要ないだろう、香澄くん」
助手の言葉を、私は苦笑いで否定する。若い女性に仕事でそんな真似をさせるのは忍びない、と思ったのだ。
しかし視界の片隅に入る彼女の姿は、若干しゅんとしているようにも見えた。
ちょっとした提案を却下されただけにしては、大袈裟な態度だ。それだけ彼女の感受性が強いという証だろうか。
晴れ渡った青空の下、とある公園へと向かう途中だった。
私は黒のスーツに紺色のネクタイ。助手の香澄くんは、白いブラウスと赤いスカートの組み合わせだ。彼女に言わせると、巫女服をイメージした色合いらしい。
二人とも、いつも通りの格好と言えるだろう。これが私たちの仕事着だった。
道路の両側に木々が増えて、緑が濃くなってきた辺りで、目的地の公園が見えてくる。
入り口には、小さな丸太を模したような柵があり、その先は石畳らしき洒落たイメージの通路になっていた。
何も知らなければ、明るい歓迎ムードを感じるかもしれないが……。
「先生、なんだかどんよりした空気ですね」
「ほう、香澄くんにもわかるかい?」
と、彼女と言葉を交わしたように。
頭上の晴天が嘘みたいな、禍々しい気配。それが公園の奥の、池がある方角から漂ってくるのを、私たちはしっかり感じ取っていた。
――――――――――――
この公園には「池でボートに乗ったカップルが別れる」という伝説がある。
私から見れば「伝説」という表現は大袈裟で、せいぜい「噂」と呼ぶ程度ではないかと思う。長く言い伝えられてこそ「伝説」、つまり「伝説」にはそれなりの歴史が必要という考え方だ。
しかし都市伝説という言葉もあるし、その意味では一応これも「伝説」なのかもしれない。
また、香澄くんなどは「『カップル』という言い方が微妙に古臭いですね」と言っていたから、そんな言い方が使われる時点で十分に昔からの「伝説」だと感じているらしい。
実際には、ここ数年の間に流れ始めた噂に過ぎないのだが。
ただし、この公園に限らず「カップルが別れる」系の都市伝説は日本のあちこちにあり、それこそ「伝説」と読んでも構わないほど昔から噂されてきた。
有名なのは、東京の吉祥寺にある井の頭公園、名古屋の東山公園、京都嵐山の渡月橋付近、大阪の天保山にある海遊館あたりだろうか。特に井の頭公園、東山公園、渡月橋付近などは、ただ単に「カップルが別れる」だけでなく「ボートに乗るとカップルが別れる」というところまで共通らしい。
例えば井の頭公園の件では、池で祀られている弁財天。元々は水の神様であると同時に、性別としては女性神なので、女性特有の嫉妬心からカップルに破局をもたらす……みたいな説も取り沙汰されているという。
その真偽はともかくとして、少なくとも今回の公園には、祀られている神様などいない。だから「弁財天の嫉妬」説は当てはまらないわけで……。
――――――――――――
池の東端にある茶色の建物。それが貸しボートの管理小屋だった。
「すいません。あの……」
「はい、今行きます!」
受付の窓口を覗き込むように声をかけると、奥から管理人が現れる。
初老の男性だ。まだ肌寒い季節ではないのに、薄灰色のセーターを羽織り、頭には茶色のニット帽を被っていた。管理小屋は開けっ放しの建物だから、ずっと池のほとりにいるのは案外、寒いのかもしれない。
彼は身を乗り出すようにして、横の看板を指し示した。
「料金は、こちらに書いてあります通りで……」
どうやらボートを借りにきた客だと誤解されたらしい。
慌てて「いえ、私たちはこういう者です」と名刺を差し出し、仕事で来た旨を告げる。
「管理会社の方から依頼されまして……」
「ああ、はい! その件でしたら、上から聞いております」
初老の管理人は、朗らかな声で返してくれた。
私たちの仕事は胡散臭い職業と思われがちで、ぞんざいに扱われる場合も多い。だからこうして真摯に対応してもらえると、それだけで少し心が安らぐ。
「ちょうど今日は客もいませんから、全てのボートが調査可能ですよ! どうぞお好きなボートに乗って、存分に調べてください」
「はい、ではお言葉に甘えて……」
「行きましょう、先生!」
私より先に、助手の香澄くんが歩き出した。
ずらりとボートが並ぶ木製の桟橋へ向かって、なんとも軽い足取りだ。まるで恋人とのデートに心弾む女性みたいだが、これは彼女なりに「カップルらしく見えるように」と演技しているのだろうか。
そこまでする必要はないと、つい先ほども言ったばかりなのに。
失笑しそうになるのを心の中だけに留めて、彼女を後ろから追いかける。
そんな私の背中に届く、管理人の声。半ば独り言のような口調だった。
「だけど、どうせ何も出てきやしませんぜ。十年以上も昔から働いてますが、その間にボートの事故なんて、一度も起きてませんからね」
苦笑じみた響きだったが……。
ちらりと振り返って一瞥すると、気のせいだろうか。
彼の表情は単純な苦笑いではなく、むしろ嘲笑が混じっているようにも見えた。
――――――――――――
「先生、このボートですね」
香澄くんは桟橋の上で立ち止まり、ボートの一つを指差していた。
もうデート演技は止めたのか、少し険しい顔つきになっている。
内側が白、外側が水色に塗られた手漕ぎボートだ。オールは木製そのままの茶色で、先端の平たい部分だけは材質が違うらしく、白くなっていた。
そんなボートたちの中で、側面に「17」と書かれた一艘。妖気とも邪気とも呼べるような独特の空気が、そこから立ち上っていたのだ。
目に見えるわけでもないし、鼻をつく匂いがするわけでもないが、わかる者にはわかる。本能的に忌避したくなる気配だった。
「うむ、間違いないな。これが噂の元凶だろう」
彼女以上に真剣な表情で、私は頷いてみせる。
数年前からこの公園で「伝説」とされてきた「池でボートに乗ったカップルが別れる」という話。その原因として、最近「ボートで死んだ女の子が幽霊となって祟っている」という噂が流れ始めているという。
しかも、その噂がボートの管理会社まで届いた。管理会社としては、カップル破局の話だけならば笑い飛ばせる範囲内だったが、死亡事故が起きたとかその幽霊が出たとか噂されるのは、さすがにイメージダウンに繋がると問題視。
私のところへ、調査依頼の話が持ち込まれたわけだ。
「先生、どうやって調べます?」
「とりあえずは……。それこそカップルのデートみたいに、実際にボートを漕いでみるのが一番かな?」
私の提案に香澄くんも頷き、二人でボートに乗り込む。
若い彼女の方が体力あるだろうけれど、一応「カップルのデート」を模すのであれば、男が漕いだ方が良さそうだ。
だから私がそちら側に座り、オールに手をかける。
「頑張ってくださいね、先生」
「うむ。快適な乗り心地は保証しかねるが……」
そんな軽口と共に、私たちのボートは水面に滑り出した。
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ボートを漕ぎながら池の中を覗き込むと、茶色い水底が見える。泥や土などが積もっているのだろう。所々に転がっている石や小岩まで茶色く見えるのは、それらの上にも積もっているからに違いない。
ボートの近くからは逃げてしまうのか、魚や亀といった生き物の姿はない。また、池の水は「水色」という言葉からイメージする青系統よりも、むしろ緑がかっていた。
「先生、あっちの方……」
助手の香澄くんが、池の中央を指差している。
「……なんだか変な感じしませんか?」
「うむ。少し近寄って、調べてみようか」
彼女に言われるまでもなく、私も当然、その「なんだか変な感じ」は察していた。
とはいえ、そのような気配が漂うところへ、真っすぐ向かっていくのも危うい。とりあえず、池の中央を少し遠巻きにしながら様子見するつもりだったが……。
ある程度まで近づいたところで、池の底が見えないほどの深さになる。
確か一般的には、水深5メートル未満の浅いものを「池」、それ以上の深さがあるのを「湖」と呼ぶはず。しかし厳密な定義ではないだろうし、もしかするとこの池の場合、中央付近は5メートル以上あるのかもしれない。
あるいは水質の関係で、見え方が実際以上の深さになっているだけだろうか。
いずれにせよ、ちょうど私がそんなことを考え始めたタイミングで、突然ボートが微妙に向きを変える。
まるで中央に吸い寄せられるみたいに、異常に左へ曲がり始めたのだ。
しかし「吸い寄せられる」と感じたのは、実際にボートを漕いでいる私だけ。ただ乗っているだけの香澄くんにしてみれば、私が乱暴な漕ぎ方をした結果だと思ったらしい。
「先生、もう少し丁寧に……」
彼女は水飛沫からガードするみたいに、顔の前に手をかざしていた。
確かに、私がオールで水を掻くたびに、パシャパシャと水が跳ねている。それだけ激しいオール捌きという証だろう。
ただし、それは右手で扱っているオールだけで、反対側はスムーズに漕げている。片側だけおかしいから、ボートは私が意図するよりも大きく転進していくのだ。
「いや、香澄くん、これは私じゃないぞ。ほら、さっきまでは普通に漕いでいただろう? だけど今は、何者かがオールに力を加えて、その結果として……」
見えない何者かの力によって、私が動かす以上に激しく、オールが動かされている。
いわば、一種のポルターガイスト現象だ。幽霊が出るという噂の通りではないか。
私は弁明しようとするが、その言葉を香澄くんは遮った。
「先生、私……。心の中に今、黒いドヨドヨが広がっていきます」
なるほど、こうしてカップルたちが喧嘩になるわけか。
私が納得する間に、彼女はさらに続けていた。
「これって、あれですね。幽霊に取り憑かれちゃいましたね、私」
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ボートで死んだ女の子の幽霊。その手口は、私たちの今回の経験から想像するに、以下のようなものだったのだろう。
異性である男性には入り込みにくいから、まずはポルターガイスト現象を引き起こして、男性の不手際を演出。喧嘩の火種を作り出す。
続いて、同性である女性の方には、直接その体に入り込んで、心の中に黒っぽい感情を広がらせる。最初のポルターガイスト現象により、既に喧嘩の火種が生まれている以上、そこから悪感情を大きくするのは簡単だったに違いない。
しかし……。
私も香澄くんも、これまでボートに乗った客たちとは明らかに違う。
カップルではないどころか、私たち二人は、いわゆる霊能力者の端くれなのだ。
特に香澄くんの場合、まだ霊的現象を視認したり感知したりという能力は低く、だから私のところで助手を務めているくらいだが、それでも霊能力者として際立っている点があった。
それは、憑依体質。香澄くんは、極めて霊に取り憑かれやすい人間であり、取り憑かれることにも慣れていたのだ。
そんな香澄くんに取り憑いても、一方的に彼女の心理を操るのは難しい。むしろ精神的に繋がったことにより、幽霊の側の心情まで香澄くんに筒抜けになってしまう。
「先生、これ……。先生の知り合いの警部さん、ええっと、三上警部でしたっけ? あの方に知らせるべき案件ですね」
「ふむ。警察沙汰にするような事件かい?」
「はい、先生。この女の子、噂の通りここで亡くなって、でも成仏できなくて……」
と、香澄くんの口を通して、ボートの幽霊の正体が語られ始めた。
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どうやら彼女は、家出少女だったらしい。
公園内で適当に野宿するつもりで、うろうろと歩いていたら、大人の男性から声をかけられた。「野宿は危険だ。それよりも、この公園には良い場所がある」という。
もしもこれが「うちに泊めてあげる」みたいな提案ならば、少女も警戒したかもしれない。しかし、あくまでも公園内で宿泊という話だった。
しかも相手は若い男ではなく、自分の父親よりも年上。しっかりした大人だと思って、つい心を許してしまう。
その結果。
彼女はボートの管理小屋に連れ込まれて、乱暴されて……。
最後には、命まで奪われてしまったのだ。
「犯人は死体をボートに乗せて、池の深いところまで運んで、そこに沈めていました。ただ彼女の場合、ボートに乗せられた時は、まだギリギリ息があって……」
香澄くんの悲しそうな態度を見れば、最後まで言わせるのは忍びないと感じる。
だから言葉を遮って、私が続けるのだった。
「なるほど、ちょうど運搬中に、このボートの上で息を引き取ったから……。それで地縛霊として、ボートに縛り付けられていたわけか」
自分は男に弄ばれた末に殺されたのに、自分が死んだボートの上で、カップルが楽しそうにデートしている。
それを妬んで、悪戯していたのであれば……。
あの「ボートで死んだ女の子の幽霊が祟って、カップルを破局に導いている」という噂も、あながち間違っていなかったのだろう。
――――――――――――
数日後。
公園の池に警察の捜査が入り、水底から6体の死体が発見される。
ボートの幽霊と同様の被害を受けた、家出少女たち。ただし他の5人は、ボートに乗せられる前に、管理小屋で完全に殺されていたようだ。
犯人は、まさか死体が引き上げられるとは思っていなかったのだろう。死体や一緒に見つかった遺留品から、犯人を特定するのに十分な証拠も検出されて……。
ボート小屋の初老の管理人が、犯人として逮捕されたのだった。
さらに後日。
依頼された仕事としては完全に終わっていたけれど、私と香澄くんの二人は、改めて公園を訪れた。
入り口の丸太を模した柵や石畳の通路など、外見的には何も変わっていないが……。
「先生……。公園の空気、すっかり変わりましたね」
「そうだね。妖気や邪気の類いも、きれいに晴れたようだ」
私たち霊能者には明らかな、大きな変化だった。
事件が明るみになり、犯人も逮捕されたことで、ここに漂っていた者たちも、ようやく成仏できたのだろう。
二人で池のほとりまで行き、そこで手を合わせて目を閉じる。
黙祷を捧げた後、ぽつりと呟くようにして、香澄くんが問いかけてくる。
「あの幽霊の女の子……。嫉妬でカップルを別れさせていた、って噂でしたけど……。確かにそれもあったかもしれないけど、でもそれだけじゃなかったですよね?」
「ああ、そうだろうな。いくらカップルが破局しても成仏できず、事件が解決した今、こうして成仏できたのだからね。そちらがメインの理由だったのだろう」
あの幽霊少女が悪戯していた理由。そこには「私の存在に気づいて欲しい!」という一面もあったに違いない。
そして霊を感知できる私たちが呼ばれて、その結果として事件が解決して、無念も晴らされたのだから……。
そう考えれば、私たちが調査に来た甲斐もあるし、私たちの仕事には大きな意味もある。悲惨な事件だったけれど、それでも私は最後に一抹の救いを感じるのだった。
(「伝説の池 ――ボートに乗ったカップルが別れるという――」完)




