16話 兄妹
フィクションです。
少し短いです。
毎日、かつて私の弟という立場にいた男の病室での様子の報告を受けている。
そして、皇妃と皇太子とともにその映像を見た。
「健康は問題ないのでしょうか?」
皇妃が真っ先に尋ねたのは、それだ。
「三食とれてるのですか? 睡眠も十分なのでしょうか?」
その横で複雑そうな顔をして、皇太子が頷いていた。
「食事は半分ほど残されます。睡眠も、浅いようですね。1時間もしない内に目を覚まし、うろついてはまた横になるを繰り返してます」
皇妃がすめらぎを見る。
「あと、聖子内親王殿下より、面会の要望が届いております」
それを聞いて、すめらぎは少し肩を落とす。
「公私をしっかりと区別されているお方ですから……」
そう言ったのは皇太子だった。
本来なら、妹という立場で兄にお願いすればいいだけだった。
「私の予定と会えば、ご一緒してもよろしいでしょうか?」
皇太子はすめらぎに尋ねる。
複雑そうな顔で、すめらぎは考える。
「今は、『完全におとなしく』なっているようなので、大丈夫だと私は考えます」
すめらぎはゆっくりと皇太子の顔を見る。
「そうですね。では、日程を調整してください。そして、その報告も忘れずにお願いいたします」
「はい」
職員は礼をし、退室していった。
公務室と言われている部屋の中には三人と、三人のそれぞれの侍従が残っていた。
「まだ、私の中で、結論は出せていないのです。本当は彼が何を望んでいるのか知りたい。ですが……」
皇妃がそっとすめらぎの二の腕に触れる。
「あの方も、国民の一人です」
皇太子は口を出すべきではないと、二人の様子を見ている。
「国民の多くは、『早く切り捨てろ』と言い続けておりました」
その言葉を聞き、苦悩の顔になる。
「私は、あの方から存在していないように扱われておりました」
皇太子がハッとして皇妃を見る。
すめらぎにはぺこっと頭を上げても、皇妃には頭を下げず、さらに視線を彷徨わせるということをし続けていたのだった。
さらに、園遊会では、和装のご婦人たちを気遣い、すめらぎの歩みはいつもよりゆっくり目になる。しかし、それが我慢ならなかったのか、いつものスピードで歩き、こともあろうか皇妃を追い越してしまったのだった。
「それは……」
「お祖母様の教育の成果でした」
皇太子が思わず言った。
「……そうでしたね」
その結果、何が起こったのか。
すめらぎは、目を閉じる。
『お前は優しすぎる』
ふと、祖父である昭和天皇に言われた言葉を思い出す。
『その心は必要だが、決断を伸ばし続けると周りの者が傷つき続けるのだ。それを忘れるでないぞ』
忘れはしなかった。
「私は、大丈夫です」
皇妃の言葉には、いつも力づけられていた。
「皇太子殿下もおられるのですよ。お一人で背負うことではないのです」
すめらぎは顔をあげ、皇太子になった娘を見る。
すっと背筋を伸ばし、まっすぐに見つめてくる。
「わかりました。面会の報告を聞いてから、判断したいと思います」
すめらぎはそう言うと、侍従たちも見た。
三人がゆっくりとうなずき、すめらぎの気持ちを受け止める。
皇妃は笑顔で、皇太子も笑顔になり、すめらぎにうなずいた。
ようやく、すめらぎの中で、一歩進むことができたのだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「これは、公務なのですね?」
聖子に聞かれ、皇女はうなずく。
「はい。ちょっと心配になりましたので……」
聖子はふふふと笑う。
「そうね。私はもう大丈夫よ。お兄様が留学で留守にされた時は心細かったです」
皇女は小さくうなずいた。
過去の写真に、飛行機から降りてきた兄に聖子が嬉しそうに駆け寄るシーンがあった。
その様子でどれだけ帰りを待ちわびていたのかよくわかった。
「お手紙もいただいたのですけど……」
母親と言われる人に読む前に眼の前で破り捨てられたというのだ。それをあとで侍女がこっそりと集め、数人がかりで手紙を復元してくれたという。
「決断が遅いと思われますか?」
そう聞かれ、皇女は首を横に振った。
「先が見えてるのでしょう?」
ややしてから皇女はうなずく。
「でも、もう、私の中では……これで終わりにしたいのです」
いつものような優しげな声ではなく、凛とした声だった。
何かを決意した声。
そして、表情。
「それの立ち会いを……お願いいたしますね」
いつもの笑顔に戻る。
「はい」
皇女は笑顔で聖子に答えた。
案内されるまま、白い壁、白い天井、白い廊下を進む。
「付添は、いりません」
「で、ですが……」
「大丈夫です。何かあれば、私が抑えますから」
あえてにっこりと微笑み、皇女は医師に言う。
こうなると、医師は下がるしかない。
「何かありましたら、このブザーをお使いください」
そういって、手の中に握り込める大きさのボタンを皇女に渡した。
「ありがとうございます」
看護師の一人がドアをノックし、ドアを開ける。
そして、中を確認し、二人を見た。
聖子と皇女は迷いなく部屋の中に入った。
そして、皇女はドアを閉める。
「すこし防音になってるようですね。大声を出すことがあったのかしら?」
聖子は部屋の中を見渡した。
「かもしれませんね」
皇女はじっと部屋の中で立ち尽くしている男を見た。
攻撃はしてくることはないだろう。
今は少し混乱しているように見える。
「お兄様。聖子です。覚えておられますか?」
それを聞いた瞬間、男の目が見開かれた。
「さ……と……こ……? ち……がう……。さと……こはもっとちいさ……い」
皇女は思わず眉根を寄せた。
この男の時間は一体何歳で止まっているのか。
「そうですね。あの小さかった聖子はもういません。私は五十歳を超えているのですよ」
いやいやと言うふうに、首を横にふる男。
その動作は、妙に幼く見える。
「あのさとこは、もういない? さとこ、いない。もう、ままもいない」
『まま』、その言葉を聞き、理不尽さを感じた皇女。
しかし、次の瞬間、男に対して感じたのは、哀れみだった。
「そう、あのママはもういないの」
そう言って一歩男に近づく聖子。
皇女はとっさに動ける位置にゆっくりと移動する。
「あなたの大事な娘、馴子ちゃんももういない。麗子ちゃんも……ね」
ようやく娘の存在を思い出したのか、男が何か呟く。
「じゅんこ、じゅんこは、とおくに、いった。ぼくをすてていった。ぼくはすてられた。じゅんこはもういない」
皇女は無表情を保つ。
そうでもしないと、怒りの感情が湧き出てしまいそうだったからだ。
さらに一歩近づく。
男はぼんやりと聖子を見ている。
さらに一歩。
あと二歩進めば、手が伸ばせる距離になる。
皇女は少し警戒した。
男が妙な動きを見せれば、すぐに止めれるように。
聖子がさらに一歩。
皇女は笑顔で近づく聖子の横顔を見る。
おだやかな笑みだ。
だが、それは作り物だとすぐに分かる。
他の人にはその笑顔は見せない。
一部の人にだけ見せる笑顔。
私は傷ついていない。
私は悲しんでいない。
私は大丈夫。
大丈夫。
その声がずっと聞こえてくる笑顔だった。
そして、一歩。
皇女は二人をじっと見る。
「お兄様。お別れです」
次の瞬間、聖子を纏う空気が変わる。
「お餞別ですわ」
パシン。
何が起こったのか、皇女にはすぐに理解できなかった。
聖子の伸ばされた腕、のけぞった男の顔。
「これは私の分」
ようやくよろよろと男が左手でほおを押さえる。
今度は聖子の左腕が動いた。
パシン。
「これはお兄様の分」
男は驚きで目を見開き、両手を頬に当てていた。
「そして、これは馴子ちゃんの分」
皇女は我が目を疑った。
聖子は右手をグーに握り、みぞおちを殴ったのだ。
体を前に折る男。
「これはお姉様の分」
聖子はすっと状態を反らし、膝蹴りをした。
まともに顎を殴られ、今度は体が反り返る。
「これは……」
私の分だ……皇女はそう思った。
こんどはグーで左頬を殴っていた。
「最後に、これは、国民の分」
すっと後ろに一歩下がり、後ろ回し蹴りを決めた。
見事に吹っ飛ぶ男。
体を鍛えるということもしていなかったのだろう。
壁にぶつかり、ずるずるとしゃがみ込む。
「それでは、ごきげんよう」
乱れたスカートの裾をサッと手で払い、聖子はいつもの笑顔で皇女を見た。
「お目汚し失礼いたしました」
すっきりとした顔だった。
「いえ、お気になさらず」
皇女も笑顔で応える。
上皇の言葉を思い出したのだった。
『心からの笑顔が見れる日が来ることを願っている』
本来の笑顔は、この笑顔だったのだろう。
それが長らく封印されてしまっていた。
「戻りましょう」
皇女は聖子に言った。
ドアを開けると、中を覗き込んで驚いている医師たちがいる。
「私、何かの罪に問われますか?」
聖子は周りを見て、尋ねた。
「いえ、あの男が、勝手に倒れただけでしょう」
妙にスッキリとした顔で医師が答えた。
その横で何故か笑顔でうなずいている看護師。
皇女はすぐにツクヨミの一族だとわかった。
「お手数おかけします」
聖子はそう言って、頭を下げる。
皇女も頭を下げた。
「失礼いたします」
聖子の声は明るい。
皇女はもう一度、医師団に会釈し、その病室を後にした。
外に出て、聖子は深呼吸した。
少し秋の気配がする風が吹く。
「この後、ウチに来ませんか? 母がお菓子を焼いてくれているはずなんです」
聖子はパッと顔を輝かせた。
「楽しみだわ。色々言われていたけれど、私はあなたのお母様が作るお菓子が一番好きなの。美味しいんだもの」
皇女は大きくうなずく。
「私もそう思います」
◇◆◇◆◇
病室の映像は音声と共に、すめらぎの自室のパソコンで確認できるようになっていた。
廊下を進み、医師や看護師達と話し、病室に入ってからの一部始終をすめらぎと皇妃の二人だけで見ていたのだった。
妹と娘が部屋を出ていった。
その後、医師と看護師達は、笑顔で病室に入ってくる。
そして、壁に持たれて茫然自失している男を立たせ、怪我の有無を確認し、ベッドに寝かせた。
両頬が少し赤くなっているが、もっと赤くなっているのは、顎の下だった。
検査着をめくると、筋肉もついてないゆるんだお腹が見える。
握りこぶしの大きさの赤みがあった。
首筋も赤くなっているようだ。
怪我の程度を確認したが、あえて治療はしない。
この男が痛みを訴えれば、それに対応するだけである。
医師や看護師たちが退室し、病室には男一人だけになる。
男はベッドに寝転んだまま、目を開けてぼんやりと宙を見ている。
すめらぎにはそこに誰がいるのかわかったが、男にはみえていないようだった。
皇妃が泣き笑いしている。
その横で、すめらぎは涙を堪えていた。
「もう、あなたったら……。素直になりなさい」
そう言われ、下を向くと、涙がこぼれ落ちた。
「もう、大丈夫ですわ」
皇妃がハンカチで涙を押さえてくれる。
「はい」
何度もうなずくすめらぎ。
「そういえば、久しぶりに焼いてましたね?」
「ええ。これからあの二人とお茶会ですの」
「そうだったのですね」
笑顔でうなずく皇妃に、すめらぎは尋ねた。
「私の分は、あるのでしょうか?」
それを聞いて、皇妃は笑う。
「もちろんですよ。みんなでお茶をしましょう」