第4話:最初の人的資本
目の前で起こった出来事が、すぐには理解できなかった。
さっきまで私に喰らいつこうとしていた巨大な狼が、今はくぐもった悲鳴を上げて森の暗闇へと逃げていく。その狼がいた場所に、月明かりを背にして、一人の少年が立っていた。
私と同じ、いや、年上だろうか。着ているものは私と大差ない、擦り切れたぼろ服。手には血を吸ったのか鈍く光る、錆びついた剣が握られている。疲労と空腹で霞む視界の中、私はただ呆然と、その少年を見上げていた。
やがて、少年が口を開く。その声は、彼の幼い見た目とは裏腹に、驚くほど落ち着いていた。
「……もう大丈夫だ。行ったよ」
彼はそう言うと、錆びた剣を鞘のようなものに納め、ゆっくりと私に近づいてきた。私は警戒心から後ずさろうとしたが、体は鉛のように重く、指一本動かせない。
「大丈夫?」
少年は私の目の前でしゃがみ込むと、私の顔を覗き込んできた。その瞳には、侮蔑も、欲望も、私を値踏みするような色もない。ただ、静かな、そしてどこか自分と似た境遇の者を見るような、共感の色が浮かんでいた。
「……お前も、逃げてきたのか?」
その一言で、私は瞬時に自分の状況を理解した。この身なり、この衰弱しきった様子。彼が私を同じ「逃亡奴隷」だと考えるのは、至極当然の帰結だった。私は自分自身で自由を買った。逃亡奴隷などではない。だが、ここで否定するのは得策ではない。肯定すれば、彼の同情を買い、生き延びるための助けを得られる可能性が高い。
私の脳は、生存のための最適解を弾き出す。私は言葉を発する代わりに、小さく、そして弱々しくこくりと頷いた。
その反応を見て、少年の纏う空気が少しだけ和らいだ。彼は安心したように息をつくと、自分の名前を名乗った。
「そうか……。俺はモンスーン」
「……」
私は名乗る名前を持たない。いや、正確には前世の名前を口にしたくなかった。彼はそれを察したのか、それ以上は何も聞かなかった。代わりに、腰に下げていた小さな革袋に手を伸ばす。
「腹、減ってるだろ。これしかないけど」
袋の中から取り出されたのは、黒ずんだ干し肉が二切れ。差し出されたそれを目にした瞬間、私の思考は完全に停止した。
肉。 獣の、肉。 塩気と、脂の匂い。
脳が警鐘を鳴らすより早く、私の体が動いていた。私はほとんどひったくるようにモンスーンの手から干し肉を奪い取ると、獣のようにそれに喰らいついた。硬く、筋張っていて、お世辞にも美味とは言えない。だが、今の私にとって、それは世界で最も価値のあるご馳走だった。味なんてどうでもいい。ただ、この命を繋ぐためのカロリーが欲しかった。
「お、おい、ゆっくり……」
モンスーンが驚いたような声を上げるのが聞こえたが、私は構わなかった。夢中で肉を咀嚼し、嚥下する。喉が詰まりそうになるのも構わず、胃の中に熱い塊が落ちていく感覚だけを追い求めた。
しばらくして、ふと顔を上げると、モンスーンが目を丸くして私を見つめていた。その表情は、呆れや軽蔑ではなかった。むしろ、私の想像を絶する飢餓の状態を目の当たりにして、息を呑んでいる、という顔だった。
やがて彼は、困ったように眉を下げると、そっと手を伸ばしてきた。 そして、私の埃まみれの黄金色の髪を、大きな手で優しく、ゆっくりと撫でた。 その温かい感触に、私の動きが、一瞬だけ止まる。
その瞬間、沈黙を守っていた私の頭の中で、甲高い声がけたたましく鳴り響いた。
《キャーーーーーッ! お客様! お客様! これは歴史的瞬間です! 恋のフラグが、フラグが立ちましたよ!》
(……うるさい)
《間違いありません! 危機的状況での出会い! からの、優しさ! これは経済学で言うところの……いえ、違います! 少女漫画の王道パターンです! 吊り橋効果というやつですね!? ここは涙の一つでも見せて、彼の庇護欲を最大限に刺激するべきです! さあ、人的資本への投資チャンスですよ!》
やかましく騒ぐ《リスク管理》の声を完全に無視し、私は最後の一片まで干し肉を飲み込んだ。そして、まだ食べ足りないとでも言うように、モンスーンの手をじっと見つめる。彼は苦笑すると、「もうないよ」と言いながら、空になった革袋を見せた。 私は名残惜しそうに舌なめずりをすると、ようやく人心地ついたのだった。
その瞬間から、モンスーンと名乗った少年との奇妙な共同生活が始まった。
私は当初、彼を一時的な食料供給源、生存確率を上げるための短期的な提携相手としか見ていなかった。お互いの利害が一致する限り協力し、不要になれば切り捨てる。それが、この11年間の人生で私が学んだ唯一の処世術だったからだ。
だが、その考えは数日もしないうちに、良い意味で裏切られることになる。
「こっちのキノコは毒だ。傘の裏が白いやつは食べられる可能性があるけど、今はやめておけ。こっちの川の魚は、腹に寄生虫がいることが多いから、火をしっかり通さないと危ない」
モンスーンのサバイバルスキルは、私の想像を遥かに超えていた。彼はまるで森の声を聞いているかのように、食べられる植物と毒草を正確に見分け、獣の足跡からその種類と移動方向を読み取り、天候の変化を肌で感じ取って安全な寝床を見つけ出した。
錆びついた剣一本と、研ぎ澄まされた五感だけを頼りに、彼はこの市場原理の及ばない大自然の中で、完璧に生き抜いていた。前世の知識も、奴隷生活で培った忍耐力も、この場所では何の役にも立たない私とは大違いだ。
「すごい……」
思わず、感心の声が漏れた。それは計算されたものではなく、心の底からの賞賛だった。地べたを這いずり回り、泥水を啜って生き延びてきた私にとって、彼の持つ技術は、どんな経済理論よりも遥かに価値のあるものに見えた。
「別に……。生きていくには、これくらい普通だろ」
モンスーンは焚き火で魚を焼きながら、ぶっきらぼうに答える。その横顔を眺めながら、私は初めて、自分以外の人間に対して「尊敬」に近い感情を抱いていることに気づいた。
その間も、私の頭の中は相変わらず騒がしかった。ただし、いつもとは少し様子が違った。
《なるほど! この木の皮は火口として最適なんですね! メモメモ……。川の水は一度沸騰させることで殺菌効果が期待できる、と。いやー、勉強になります!》
いつもは経済の話か恋愛の話しかしない《リスク管理》が、なぜかモンスーンのサバイバル術を熱心に学習しているのだ。
(お前がそんなことを覚えてどうする)
呆れて内心で問いかけると、彼女(?)は待ってましたとばかりに答えた。
《決まってるじゃないですか! もしも私が遭難した時のためですよ!》
(……お前は実体がないだろう。どうやって遭難するんだ)
《うっ……そ、それはそれ、これはこれです! 備えあれば憂いなし、と言うでしょう!? リスク管理とは、あらゆる不測の事態に備えること! つまり、私がサバイバル術を学ぶのは、スキルとして当然の務めなのです! 決して、お客様との会話のネタが尽きてきたからとか、そういうわけでは……!》
どうやら図星らしい。この役立たずスキルにも、一応プライドのようなものはあるようだ。
モンスーンのおかげで、私は飢えることも、獣に怯えることもなく、森の中で数日間を過ごすことができた。夜は交代で火の番をし、昼は食料を探して森を歩く。会話は少なかったが、沈黙は苦ではなかった。むしろ、言葉を交わさずとも、互いが互いの存在を頼りにしている奇妙な安心感があった。
胃が満たされると、心にも少し余裕が生まれる。
ある日のことだった。森は鎮まり、空は黒く染まった頃。モンスーンは私の隣で焚き火に座り込んでいた。
「...ナツキ」
私は、この世界に転生してから初めて前世の名前を口にした。あの幸せと傲慢、野望に満ちていた私。忘れたかったけど、決して忘れられない記憶。
「——え?」
モンスーンは驚き、しばらく固まっていた。しかし、しばらくするとそれが名前だと察して、静かに頷いてくれた。その目には焚き火の炎とは違う、何か温かいものが見えた。
私はこの数日間で、生きるために必要なカロリー以上のものを、彼から受け取っていた。それは、前世でも、奴隷小屋でも、誰からも与えられたことのないものだった。 その正体が何なのか、今の私にはまだ、うまく言葉にできなかった。
《あとがき》
投資家の皆様、お待たせいたしました!
わたくし、CEOナツキ・カナリア様の筆頭秘書スキル、《リスク管理》が、第四期事業報告をさせていただきます!
まず、前回の報告で触れました外部パートナー候補(モンスーン氏)との交渉ですが、暫定的な業務提携契約の締結に成功したことをご報告いたします!
彼の保有する「サバイバルスキル」という無形資産は、現在の事業環境(森)において、わが社の存続に不可欠な中核的競争優位性をもたらしております。彼の市場価値は、まさにプライスレス……いえ、厳密に算定した場合、金貨数千枚規模の価値があるとわたくしは試算しております! 素晴らしい人的資本です!
そして、投資家の皆様に、もう一つホットな情報がございます!
現在、CEOナツキ様とモンスーン氏の間で、極めて良好なリレーションシップが構築されつつあります! 危機的状況下での出会い、食料の提供、そして頭を撫でるというボディタッチ……! これは、将来的に**両社の資本提携、ひいては合併(!?)**に繋がる可能性を秘めた、極めて重要な先行投資イベントであると分析しております! 恋という名の自己投資、そのリターンは計り知れません!
もちろん、わたくし自身も手をこまねいているわけではございません!
この新市場に適応すべく、現在モンスーン氏の技術をラーニングし、自身のスキルセットの多様化を図っております! どんな市場環境の変化にも対応できてこそ、真の《リスク管理》! これで、もし私が遭難しても一安心です!
さあ、皆様! 新たなパートナーを得て、わが社の事業は新たな成長ステージへと突入しました!
この未来への期待を込めて、皆様からの熱い追加投資(評価)と、忌憚なきご意見(ご感想)をお待ちしております!
以上、自己アップデートも欠かさない、皆様の担当スキル《リスク管理》でした!
ご精読、誠にありがとうございました!