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第3話:原始的な食物連鎖

 一年間の地獄を経て、資本の論理そのものとして生まれ変わった私は、行動を開始した。


 目的はただ一つ、自己という資産の所有権を、現在の所有者から買い取ること。すなわち、自由の身になることだ。


 ぼろ服の裏に縫い付けた袋に、ギシギシと銅貨1350枚を詰め込む。残りの27枚は別のポケットに。これは交渉のための必要経費だ。ずしりと重い銅貨の感触が、私に絶対的な自信を与えていた。この一年で私の精神を削り続けた痛みは、今や鎧となっている。


《お客様! いよいよですね! 交渉の基本はギブアンドテイク! まずは相手の関心を探り、Win-Winの関係を築くことが重要ですよ!》


 脳内で響く《リスク管理》の能天気な声は無視し、私は奴隷小屋を抜け出し、この石切り場を所有する地主の館へと向かった。


 館の門には、予想通り二人の見張りが立っていた。私が近づくのを見ると、彼らは槍を交差させて道を塞ぎ、汚物でも見るかのような目で私を見下した。


「なんだ、小娘。ここは貴様のような奴隷が入っていい場所じゃねえ。さっさと失せろ」

「……地主様に、お話があります」


 私の静かな声に、見張りは鼻で笑った。

「話だと? 身の程を知れ、虫けらが。殴り殺されたいか?」


 私は何も答えず、懐から銅貨を5枚取り出した。そして、それを無造作に見張りの足元へ放る。チャリン、と乾いた音が石畳に響いた。


 見張りたちの目が、一瞬で銅貨に釘付けになる。侮蔑の色は消え、卑しい欲望がその顔に浮かび上がった。

「……なんだ、こりゃ」

「話を通すための、手数料です」


 私の言葉に、二人は顔を見合わせる。金の持つ力は絶対だ。身分も、誇りも、暴力さえも、その前では容易く屈する。


「……ふん、話のわかる奴隷じゃねえか。いいだろう、旦那様のところへ案内してやる。こっちだ」

片方の見張りの態度は、先ほどとはまるで別人のように柔らかくなっていた。これが資本の力。世界を動かす、あまりにも単純な真理。


 案内された部屋は、無駄にけばけばしい装飾で満ちていた。そして、部屋の奥の椅子には、酒で赤らんだ顔の、太った地主がだらしなく座っている。


「なんだ、ゴードン。その汚いガキは」

「へい、旦那様。話があるそうで」


 地主は私を値踏みするように一瞥し、不快そうに顔を歪めた。


「話? 奴隷の分際で、俺に何のようだ」

「単刀直入に申し上げます。私自身を、私に売り渡していただきたい」


 地主は一瞬何を言われたかわからないという顔をしたが、やがて意味を理解すると、腹を抱えて笑い出した。

「はっはっは! こいつは傑作だ! 奴隷が自分を買うだと? おい、いくらで買うというんだ?」

私は懐から銅貨が詰まった袋を取り出し、彼の目の前の机に置いた。ドン、という重い音と共に、袋の口から銅貨が数枚こぼれ落ちる。


「銅貨、1350枚です」


 地主の笑いが、ピタリと止まった。彼の目は、銅貨の袋に吸い寄せられている。


 この世界における11歳の奴隷の少女の市場価格は、リスク管理によると銅貨800枚前後。倍近い価格を提示された彼の頭の中では、欲望のそろばんが凄まじい速さで弾かれていることだろう。


「……ほう。面白い。実に面白い。いいだろう、その話、乗ってや……」

地主はそう言って机の上の袋に手を伸ばしかけた——その瞬間、彼の目がギラリと光り、私に向かって猛然と飛びかかってきた。


「この愚か者めがッ! これだけの金を用意できる奴隷など、金の卵を産む鶏も同然! 再び檻に放り込み、金を産ませ続けてくれるわ!」


 獣のような形相で迫る地主。しかし、その腕が私に届くことはなかった。

 私を案内してきた見張り——ゴードンが、地主の腕をがっしりと掴んで止めていたのだ。


「旦那様、それはいけやせんぜ」

「ゴードン!?貴様、何を……この俺に逆らう気か!」

「いえいえ。ですが、商談は成立したはず。この子はあんたに1350枚を支払い、あんたは『話に乗る』と言った。違いますかい?」


 最初に受け取った銅貨5枚が、彼の忠誠心を地主から私へと乗り換えさせたのだ。

 私はこの好機を逃さない。


「交渉成立ですね」

私はそう呟くと、残りの銅貨22枚をゴードンの足元に投げ捨てた。

「それはチップです」


 そして、机の上の銅貨1350枚の袋を掴むと、それをゴードンに向かって放り投げた。


「その金で、私をここから逃がしてください。取引相手は、あなたに変更です」


 一瞬の驚きの後、ゴードンはニヤリと笑うと、袋をがっしりと掴んだ。

「へっ、承知いたしました、お客様!」


 ゴードンは地主を力強く抑えつける。その隙に、私は部屋を飛び出し、館の外へと全力で走った。背後で地主の怒号が聞こえたが、もう私には関係ない。


 私は自由を手に入れた。


 銅貨1377枚。一年間の地獄と引き換えに手にした私の全資産は、瞬く間に所有権を移転し、その対価として「自由」という無形の資産が手元に残った。費用対効果を考えれば、破格の取引だったと言えるだろう。失った資本は、また稼げばいい。だが、この自由という権利がなければ、そもそもスタートラインにすら立てないのだから。


 背後から聞こえる怒号が遠ざかっていくのを感じながら、私は脇目もふらずに走り続けた。館を抜け、奴隷たちが働く石切り場を横切り、見慣れた荒野を越える。


 目指すは、領主の土地の境界線に広がる深い森。一度あの中に紛れてしまえば、追っ手も容易には手を出せないはずだ。


《お客様! 実にスリリングな交渉でしたね! 最終的に取引相手を変更するという機転、お見事です! これぞまさしくM&A、合併・買収の応用と言えましょう!》


 脳内で能天気に解説する《リスク管理》の声は、もはや私の耳には届いていなかった。今はただ、前へ、前へと足を動かすことだけに集中する。


 どれくらい走っただろうか。日が傾き始め、空が茜色に染まる頃、私はようやく森の入り口にたどり着いた。鬱蒼と茂る木々が、まるで世界の境界線のようにそびえ立っている。私は一度だけ背後を振り返った。遥か彼方に、小さく館の屋根が見える。あの場所に戻ることは、もう二度とない。


 私は決意を固め、森の中へと足を踏み入れた。


 森の中は、想像以上に暗く、静かだった。日が落ちると、気温は急速に下がり始め、ぼろ服一枚の体からは容赦なく体温が奪われていく。何より問題なのは、食料と水だ。館を飛び出して以来、何も口にしていない。空腹と喉の渇きが、じわじわと私の体力を蝕んでいく。


 三回夜を凌いだ。 私の足は鉛のように重く、一歩進むごとに激痛が走る。空腹はとっくに限界を超え、思考は靄がかかったようにぼんやりとしていた。食べられそうな草の区別もつかず、綺麗な水のありかもわからない。前世で培った経済学の知識も、奴隷生活で身につけた忍耐力も、この大自然の中では何の役にも立たなかった。


 市場原理の通じないこの場所で、私はあまりにも無力だった。


「……おい」

  私は、ほとんど一年ぶりに、自分の意思で《リスク管理》に話しかけた。


「何か、食べるものはないのか。どうすれば生き延びられる」


《え? わ、私に聞かれましても……》

 いつもは饒舌な《リスク管理》が、珍しく歯切れの悪い返事をする。


《えーっと、そうですね……この地域の植生は主に広葉樹林で構成されており、年間平均気温は15度、降水量は……》


「そんな地理情報が聞きたいんじゃない!」

思わず声を荒らげてしまう。


「生き残る方法を教えろと言っているんだ!」

《ひゃいっ! す、すみません! ですが、サバイバルに関する知識は私の専門外でして……》


《ああ、でも! この森を抜けた先にはエルドラド王国という商業都市があるみたいですよ! 市場規模はかなりのもので、特に鉱物資源の取引が盛んだとか! お客様の得意分野じゃありませんか!》


 このスキルは、本当に経済に関することしか頭にないらしい。飢えと渇きで死にかけている人間に、市場規模の話をしてどうするというのだ。


「そこまで、どうやって行けばいい……」

私の声は、自分でも驚くほどか細く、弱々しかった。


 だが、《リスク管理》からの返事はなかった。それどころではなかったのだ。 私のすぐそばの茂みが、ガサガサと大きく揺れた。


 獣の唸り声と、殺気。


 ゆっくりとそちらに顔を向けると、暗闇の中に爛々と光る二つの目があった。涎を垂らし、鋭い牙を剥き出しにした、巨大な狼のような魔物が、私を値踏みするように見つめている。


 ああ、ここまでか。 軽トラックに轢かれ、奴隷になり、ようやく自由を手に入れたと思ったら、最後は獣の餌食。なんと馬鹿げた人生だったことか。


 皮肉なものだ。資本主義の世界ではエリートだった私が、最も原始的な食物連鎖の、最下層で死ぬなんて。 私はもはや抵抗する気力もなく、その場に崩れ落ちた。狼が、その大きな顎を開き、私に飛びかかってくるのがスローモーションで見える。


 その、瞬間だった。

「——そこまでだ、穢れた獣め」


 凛とした、それでいてどこか物憂げな声が響き渡った。

 

 次の瞬間、狼の巨体が、まるで巨人に殴り飛ばされたかのように横っ面を強打され、数メートル先まで吹き飛んでいった。


 何が起こったのか理解できない私の目の前に、一人の少年が立っていた。 私と同じくらいの歳だろうか。使い古された服を着て、手には錆びついた剣を一本握っている。月明かりに照らされたその瞳は、狼を、そして私を、静かに見つめていた。



《あとがき》

投資家の皆様、第三期事業報告会へようこそ!

わたくし、CEOナツキ・カナリア様の筆頭秘書スキル、《リスク管理》でございます!


まず、皆様に素晴らしいご報告がございます! 当期、CEOナツキ様は、保有する全流動資産(銅貨1377枚)を投じ、長年の懸案事項でありました**「自己の所有権」に関するM&A(合併・買収)を、見事成功させました!**

これにより、私たちは事業活動における最大の制約から解放され、「自由」という、今後の企業価値を飛躍的に高める最重要無形資産の取得を完了いたしました!


え? キャッシュがゼロになったではないかと? ご心配は無用です! これは戦略的撤退、いわばピボット(事業転換)でございます!


現在、私たちは事業の主戦場を、従来の労働集約型市場(石切り場)から、より原始的で未開拓なブルーオーシャン市場(森)へと移行しております。誠に遺憾ながら、この新市場では、わたくしの専門であるマクロ経済分析や金融工学がすぐには適用できないという、一時的なシステム障害が発生しておりますが……。


しかし、ご安心ください!

先ほど、この新市場における専門家とみられる、高い物理的ソリューション能力(武力)を保有するナツキ様のパートナー候補(謎の少年)との接触に成功いたしました!

彼との業務提携が実現すれば、私たちの事業が再び成長軌道に乗ることは間違いありません!


さあ、投資家の皆様! 新たな提携と事業拡大の夜明けはもうすぐです!

この絶好の機会に、ぜひとも追加の投資(評価)および、今後の経営戦略会議(ご感想)へのご参加を、何卒よろしくお願い申し上げます!


以上、皆様の担当スキル、《リスク管理》でした!

ご精読、誠にありがとうございました!

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