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第2話:複利は人類最大の発明

 才能がない。 その一言は、10年間の奴隷生活よりも重く、私の心にのしかかった。だが、それで諦めるほど、前世の私はヤワなエリートではなかった。


(……関係ない)


 魔法の才能がなかろうと、やることは一つ。 この地獄から抜け出すための、資本を、金を、手に入れる。 幸い、ここは石切り場だ。日々、多くの人間と物資が出入りする。誰かが硬貨の一枚でも落とす可能性は、ゼロではないはずだ。


 それから私の、もう一つの戦いが始まった。 ツルハシを振るう合間に、地面を睨む。看守の目を盗んでは、瓦礫の山を蹴飛ばし、泥の中を探る。目的はただ一つ、金属の輝き。私の未来を変える、最初の資本。

その間も、《リスク管理》は脳内でひっきりなしに話しかけてきた。


《いやー、暇ですねー! あなた様、もっとこう、何か面白いこと考えたりしないんですか? 例えば、この石切り場の労働生産性をどう上げるか、とか!》

「……黙れ。今はそれどころじゃない」


《えー、でもですよぉ? 供給と需要のバランスがですね、現在の労働力供給過多に対して、石材需要が釣り合ってないんですよ! これでは賃金、あ、奴隷だから賃金ないんでした! これは由々しき問題です! 市場の失敗ですよ、お客様!》


 どうやらこのスキル、本当に経済学の知識しかないらしい。奴隷相手に市場原理を説かれても、何の足しにもならない。


 半年が過ぎた、ある雨の日だった。ぬかるんだ地面に足を取られた瞬間、私のつま先が、硬い何かに当たった。泥を払うと、鈍い銅色の光が見えた。


——銅貨だ。


 心臓が大きく跳ねる。全身の血が沸騰するような感覚。私は誰にも見咎められぬよう、素早くそれを握りしめ、ぼろ服の隠しにねじ込んだ。


 その夜、物置小屋の暗闇の中、私は手のひらの上の銅貨を見つめた。これが、私の帝国を築く、最初の礎になる。


《やりましたね、お客様! それでは早速、スキルを発動しちゃいましょう!》


《リスク管理》に促されるまま、私は銅貨に意識を集中する。


「刻印を、つけろ……!」

 魔法の才能がないせいか、うまくいかない。汗が滲み、目眩がする。


《うーん、もうちょっとこう、ロマンチックな感じがいいと思うんですよねー!》


《リスク管理》が、また見当違いなことを言い出した。

 《例えば、初恋の男の子にプレゼントを渡すみたいに! ドキドキしながら! ねえお客様、好きな人とかいないんですか? 早く恋愛とかしないと、情緒が育ちませんよ!》


「うるさいッ……!」

 私は雑念を振り払うように叫び、ありったけの精神を銅貨に注ぎ込んだ。


 その瞬間、銅貨の表面に、私にしか見えない微かな光の文様が浮かび上がり、そして消えた。


《……あ、できましたね! おめでとうございまーす!》


 手のひらの上の、たった一枚の銅貨。 だが、それはもう昨日までと同じただの銅貨ではない。 明日には1.02枚になる、私の、希望そのものだった。


 それから、一年が経った。


 春にはぬかるんだ泥に足を取られ、夏には照りつける太陽が岩肌を焼いた。秋には乾いた風が肌を切り、冬には薄い布一枚では凍えるほどの雪が降った。季節は巡り、景色は僅かにその色を変えたが、私の日常に変化はない。日の出と共に叩き起こされ、石切り場でツルハシを振るい、日没と共に物置小屋に転がる。食事は日に一度の麦粥。それだけが、死なないために与えられる燃料だった。


 私の内側でだけ、世界は目まぐるしく回り続けていた。


《——というわけで、ケインズ経済学における有効需要の原理というのはですね、不況期において政府が公共事業などで意図的に需要を創出し、経済全体を活性化させるという考え方なんですよ、お客様? たとえば、この石切り場が今まさに不況だと言えます! 労働供給は過剰なのに、石材の需要が追いついていない! ここで領主様が大規模な城壁の改修工事でも始めてくれれば、市場が活性化して……あ、奴隷だから賃金は上がりませんでしたね! テヘッ!》


 物置小屋の暗闇の中、私の頭の中だけで《リスク管理》の甲高い声が響き続けている。


 この一年間、彼女(?)はずっとこんな調子だった。私が過酷な労働と、日に日に増していく苦痛に黙って耐えるそばで、延々と経済理論を語り、市場の失敗を嘆き、時には全く見当違いな助言をしてくる。


《それよりもお客様! もっと大事なことがありますよ! 人的資本への投資です! つまり恋愛! 早くしないと婚期を逃しますよ? あの3番の見張りさんなんてどうでしょう? 年齢は少し上ですが、安定した職に就いていますし、将来性は……うーん、まあまあですかね? リスク・リターン分析をしてみましょうか!》


 もう、その声に返事をする気力もなかった。それは思考の背景で鳴り続ける耳鳴りのようなもので、意識して聞き流すことにも慣れてしまった。


 今の私にとって重要なのは、講釈でも恋愛でもない。ただ一つ、現実的な数値の増加だけだ。


 私はぼろ布をめくり、床に掘った穴の底を覗き込む。そこには、鈍い銅色の山ができていた。あの日隠した一枚の銅貨が、一年後の今日、1377枚(1.02の365乗)にまで増殖した姿だ 。

 

 だが、その代償は大きかった。


 資産の増加に伴い、刻印を維持するために必要な魔力量は爆発的に増えていった。銅貨が100枚を超えたあたりから、頭痛は常態化した。500枚を超えると、全身の血管に熱い鉛を流し込まれるような痛みが走り始めた。1000枚を超えた今では、四六時中、頭蓋の内側から無数の蟲に這い回られるような感覚と、骨がきしむ音を内側から聞いているような激痛が続いている。意識を保っているのが不思議なほどだ。才能のない私の魔力はとうの昔に限界を迎え、今は魂そのものを削って燃料にしているような感覚だった 。


 しかし、不思議と、その苦痛は不快ではなかった。むしろ、快感ですらあった。


「……ふ」

銅貨の山を見つめながら、乾いた唇から笑いが漏れた。


「ふ、ふふ……あはははははは!」

痛い。苦しい。死にそうだ。


 だが、この痛みこそが、私が資産を、力を、未来を掴み取っている証拠なのだ。この痛みの一瞬一瞬が、私の価値を証明している。汗も、涙も、悲鳴も、全てがこの銅貨に変換されている。なんと効率的で、素晴らしいシステムだろうか。


 この一年間の地獄は、この1377枚の輝きに比べれば、あまりにも些細なことだった。前世で学んだ経済学の、その本質を、私は今、この体で理解している。リスクなくしてリターンなし。ハイリスク・ハイリターン。私の支払っているリスク(苦痛)に対して、このリターン(銅貨)はあまりにも大きい。これは最高の投資だ。


 痛みで涙が滲む。だがそれは、悲しみの涙ではない。歓喜の涙だ。狂ったように笑い続ける私を、《リスク管理》の声だけが不思議そうに見ていた。


 この日、天際莫迦大学のナツキは完全に死んだ。

そして、奴隷の少女の身体の中で、資本の論理のみで動く何かが、産声を上げた。

たった一つの、絶対的な目的のために。



《あとがき》

投資家の皆様、いつも大変お世話になっております!

わたくし、CEOナツキ・カナリア様の専属パートナー兼、筆頭秘書スキル、《リスク管理》でございます!

第二期事業報告にお集まりいただき、誠にありがとうございます!


さて、早速ですがご報告です! 前期に確保いたしました自己資本(銅貨1枚)を元手に、1年間の集中投資を行った結果、当期末には資産が1377倍という驚異的な成長を遂げましたことを、ここに高らかにご報告申し上げます!

これもひとえに、アインシュタインもびっくりの「複利」の力と、何よりCEOナツキ様の揺るぎない事業へのコミットメントの賜物でございます!


現在のCEOの状況ですか? ご心配には及びません。

確かに、資産の指数関数的増加に伴う運用コスト(魔力維持費)は想定を上回っておりますが、CEOは自らの内部留保(生命力・魂など)を積極的に事業へ再投資することで、この問題をクリアしております! まさに「選択と集中」。経営者の鑑と言えましょう!

四六時中、事業のことで頭がいっぱいなご様子で、そのお顔は常に苦悶...いえ、歓喜に満ちておられます!


さあ、投資家の皆様! 私たちの事業は、今まさに離陸の時を迎えました!

このロケットの燃料となる、皆様の更なる追加投資(評価)や、株主総会(ご感想)への積極的なご参加を、心よりお待ち申し上げております!


以上、皆様の担当スキル、《リスク管理》でした!

ご精読、誠にありがとうございました!

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