「夢じゃない」なら、なんだって言うんだ(1)
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「今日の夕方から、アニーはダンスホールの床掃除ね」
「はい、わかりました」
なぜか、どこか呆れた様に私にそう指示を出すマデリンさんにほのかな疑問を覚えながらも、言われた事だし、と私は素直に引き受ける。
これが昼過ぎに遅番の人も含めて行われる昼礼のことだ。
そして夕方。まだ日のあるうちに掃除自体は終わらせないとまた先週のように見えない中掃除をする羽目になるので必死に床を磨いている。
せっせと掃除を済ませても、夕方から始めたんじゃ結局日は落ち切ってしまうんだけど。最後にバケツでモップを洗う頃には、もう真っ暗だ。
でもまだ日は落ち切ったばかりだから、先週と違ってマデリンさんに今日中にダンスホールの鍵を返すことができる。
早速マデリンさんのところに向かってから晩御飯を食べに行こうと考えていた矢先、重い…引きずるような音を立ててダンスホールの扉が開いた。
「?」
ここで人と会うような約束はしていないので、そうなるとこう言う展開には覚えがない。
しかし、扉の向こうから現れたのは、
「…やぁ」
なんだか申し訳なさそうなフィン様だった。
「…いかがなさいましたか?」
何もない時にこんな所に主人がやってくるなんて、いつかの夜の様だ。
あの時は眠れなくてフラついてたのかと思ってたけど、今日は時間的にもそれは怪しい。
そんなことを考える私の不思議そうな表情を見てなのか、彼はなぜか緊張した面持ちで言った。
「あの、この間の続きをと、思って」
「続き…?」
もしかしなくてもダンスレッスンという名のままごとの?
前回みたいな偶発的でもない、こんな時間に?
というか、あの一回で終わりだと思っていた。あんなものは気まぐれだと思っていたのに。
「あの時の一回じゃ、流石に覚えられないだろうと思って。マデリンに少し無理を言ったんだ」
「…なるほど…?」
つまり、私は本来やらなくていい掃除をさせられたということでは?
道理で前回と違ってダンスホールが綺麗だったわけで、マデリンさんは呆れた様な物言いだったわけだ。前回掃除してから時間が立っていないから、てっきり何かで使うからだと思っていたのに。
心の中で凄まじいため息が出たのを感じる。多分誰が悪いって話でもないけど、とりあえずこの労力は返してほしい。
「ありがとうございます。しかし私めでは、フィン様にあまりにも釣り合いません」
あえてスカートの裾を広げ、丁重にお断りする。
自分で言うのもなんだけど嫌味っぽいな…わざとだけど。
「…先日は、夢の様でございました」
聞こえて欲しいような、聞こえてほしくないような声で呟く。
そう、まさに夢…夢の様だった。
足踏みまくったし、月明かりしか頼りがなくて見えないし、音楽も素敵なドレスもないけど…それでも確かに、憧れた時間がそこにはあった。
だから私には、あの時間で充分。
「それでは…失礼いたします」
これで諦めて欲しい、そう願う反面で未練がましい心が、我儘にも続きをしたいなどと手先を震えさせる。
震えるな、平静を装え。暗がりで見えないだろうなどと、甘えるな。
あの時間は夢だ。もう一度なんて見れるものか。
最初の挨拶とは違いお断りのお辞儀なので、相手に話す隙を作らせない為にも急いで顔を上げて、そしてダンスホールを出なければと歩き出す決意をする。
そして一歩踏み出した瞬間、扉からすごい勢いでフィン様が詰め寄ってきた。
「!」
私は驚いて、体が反射的に跳ねる。
そして詰め寄ってきたフィン様は、私の左手首を掴んで持ち上げて、こう言ったんだ。
「夢じゃない」
彼は私の手首を痛いほど強く握っていて、切に迫った声音が真っ直ぐ耳に届く。
「夢じゃないんだ。僕も、君も」
私はもちろん驚いたけど、それ以上に彼も男の人なんだなぁと、手首に込められた力強さから見当はずれな事を考えていた。
彼は身長的に私を見下ろす形になり、結果的に顔が影になっているせいでどんな表情なのかまではわからない。
それでも、これが“夢じゃない”のなら。
そんな事を少しでも思考の端で考えてしまう私って、意志が弱いと自分でも思う。まさしくさっきの決意は何処へやら。
それこそ“夢じゃなかったら良いのに”なんて、私が一番願ってはいけないのに。
あぁ、唇が震える。未練がましい、でも断らなくちゃ。
相手は貴族なんだから、これから結婚だってするはず。それなのに身分違いの人間とスキャンダルなんて、拾ってもらった恩を仇で返す様なものなのに。
夢なんて願ったら。
「ゆ、夢じゃなかったら…なんなんですか」
言ってから、“しまった”と確かに思った。
ちがう、こんなことが言いたいんじゃないのに。普通に「痛いです」って言って、はぐらかすでもなんでもいい、なかったことにしてしまわなければ。
あの時自分が欲なんて出したから、こうなってしまったのに。
「夢じゃない今って、なんなんですか」
おかしい、口がいうことをきかない。
夢は胸にしまわなければいけないのに声が、言葉が止まらない。
そこに縋りたくない、泣きたくなんてないのに。
唇が、瞼が、震える。
「っく…ふ…」
ぽろりと、温かなものが頬を伝った。
私の様子に向こうも驚いたのか、手首にかかった力が解かれて私の腕は力なく落ちた。
だけど涙が止まらない。
そうだ、こんなの夢じゃないならなんなんだ。
全部諦めたつもりなのにまた火をつけて、また諦めさせてくれないなんて。
夢じゃなかったら、幻じゃなかったら、なんなんだこれは。
「すまない、泣かしたかったんじゃ…痛かった、よね。えっと…」
「だい、大丈夫です。痛くない。痛くないんです」
腕はもう痛くない。
心が痛い。
あなたの優しさが痛い。苦しい。つらい。やめてほしい。
…嬉しい。
だからやめて、こんな気持ちにさせないで。
つらい事まで思い出してしまう。この気持ちが、誰かを傷つけてしまう気がするから。
「どうしたら良いだろう…」
そう言いながら、彼は私を抱き寄せて背中をさすってくれた。
本当はすぐ引き剥がさないといけないのに、体に力が入らない。
私は最低だ。これが誰かに見られて、屋敷中のスキャンダルになったら大変なのは彼なのに。
背中をさする温もりが、心地いいなんて。
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