逃げたかったのに逃げられないなんて
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「お願いアニー、貴女にか頼めないのよぉ」
私は今、凄まじく青い顔で夫人の部屋にいる。なんでかと問われれば、夫人の侍女が一人風邪で倒れてしまったらしいのだ。まぁそこまではいい、人間なんだから体調を崩すこともあると思うし。
問題は、夫人の“侍女として明日のパーティーに出ろ”と、婦人本人に目の前で言われていること。
明日はぜっっっっっったいに出たくなくて、マデリンさんに頭を下げてお休みまで貰ったのに、どうしてこんなことに。夢であって欲しいけどそれは無理だと心のどこかが言っているのがすごく嫌だ。
しかも貴族だった経験を持つメイドも私だけなのでことさら出てほしいと夫人は懇願してくる。いや貴族が目下の人間に懇願したら駄目だと思うんだけど…。
先ほどから「貴族だったのはまだ社交界デビュー前のことで、私はパーティーでのマナーも知らない」と断っているのだが…信じられないほど下手に出られている。素直にこれは困った。
侍女は身の回りをお世話する係の下級貴族。つまりパーティのような公の場に連れられないのは面子に関わると言う事でもあり、偉い立場ほど多すぎす少なすぎない人数が求められる。それだけ人を雇えるって証明でもあるから。
明日は大事な息子の晴れ舞台…と言う名の家同士の大事な契約の日。面子を保ちたい気持ちはわかるけど、私なんかではとてもとてもその立場は務まらないと思う。
そして何より絶対に明日は、それこそ部屋からも出たくない。ボーナスが出ても出席したくないのに。晴れ舞台で他の女と笑顔掲げる彼を見るくらいなら、いっそ舌噛んで死んだほうがマシだ。
それでフィンと学んだワルツを、知らない男の人と踊るかもしれないなんて、少しは私の気持ちを考えてほしい。確かに夫人はフィンに半ば強制的に付き合わされていたあのダンスレッスンに対してどの程度知っているかもわからないけどさ。
こんな事ならせめて給仕にまわっておけば良かった。そしたら少なくとも無理な役を押し付けられそうになるのは防げたのに。
「ねぇ、良いでしょう? 一日、一日だけだから」
「奥様、私に頭を下げないでください…」
「壁の花でもいいの、一緒にいてくれれば」
そこはそういうわけにもいかないと思うけど…本当に厄介なことになったな。
夫人がここまで頼んでるのに、と私が気に食わない侍女たちの視線を感じる。そして私は場に流れた重圧が耐えきれず、
「…わかりました、行きます。行きますから」
ついに折れてしまった。
もし心が病んだら責任取ってもらおう。私が屋敷を出るために味方してもらえなかったら死んだ方がマシだもの。
「本当!? 言質取ったわよ!」
そこで“ありがとう”じゃなくて“言質とった”って言っちゃうあたりがフィンのお母様だなって感じするよ、うん。
「じゃあ、早速始めましょうか」
そこからにっこりと笑って、夫人は言う。
その笑顔を見た瞬間、私はとても嫌な予感がした。
「マーサ、カレン、やっておしまい!」
そう声を夫人にかけられた二人に、突如私は腕を掴まれる。
「えっ!?」
そのまま引きずられるようにして何処かに連れていかれて…これは何が起こるっていうの!?
「うふふふふ…」
何故か夫人が楽しそうに笑いながら付いてきている。状況に頭がついていかない。
「奥様!? これは一体どういうことなんですか!?」
「いいからいいから」
いや何も良くない、何も良くないよ!?
夫人の言葉に不信感しかない。しかしそのまま連れていかれたのは夫人用のバスルーム。そこにはすでにお湯が張ってあって、私はあれよあれよと二人がかりで脱がされていく。
かといってフィンが悪ふざけで脱がしてるのとは訳が違うので手を出すわけにも行かず、そのまま素っ裸にされるとバスタブに放り込まれた。
「さて、きれいきれいにしていきましょうね〜」
そう言って、夫人が自ら袖を捲り突如私を洗い始める。
「ちょ、奥様!? 自分でやれますから!」
「だめよ〜! 私の侍女なんだから、隅から隅まで綺麗にしなくちゃね」
何度目かわからないなすがまま…もうどうしたらいいかわからない。確かに私もこの人苦手かもしれない。
そしてまた鼻歌が聞こえる。夫人はとても機嫌が良さそうに見えるので、そういった時の癖なんだろうか。
「…その鼻歌、なんの歌なんですか?」
「あぁ、これ? 私の実家に伝わる子守唄よ。兄さんが覚えていたら、貴女も聴いてたかもしれないわね」
“あぁ、そういうことか”と、夫人の言葉に無意識が納得する。
それなら確かに、きっと父様だ。なんとなく、どこか心の遠くで覚えてるものだから。
「…」
頭も体も流されて、今度はお湯の中で揺蕩う。
温かいお湯に浸かるのは本当に久しぶりも久しぶりだ。そのせいで“こんなに気持ちのいいものだったっけ”、なんてつい考えてしまう。
「気持ちいいでしょ? 香油を入れてるのよ」
確かにいい香りもずっとしている。これが香油の香りだろうか。
「…はい」
夫人は私の髪に何やら塗ってから静かに櫛で漉いている。今は何をしてるんだろう。
「これはね、髪を根本的に綺麗にしてくれる美容液なの」
夫人は丁寧に丁寧に、私の髪を漉く。まるで壊れ物でも扱うように。
「はい、流しましょうね」
髪がお湯で流されていく。気持ちいい感覚が頭皮を流れれて、バスタブで自分の体が小さく動くたび水音がする。
か弱い水音はまるで今の私のようだ。容器からこぼれ落ちては大きな流れに溶けていってしまう。
タオルで頭を巻かれて、「そのまま少し浸かっているように」と言い残して夫人は去っていった。
いつまで浸かっていればいいかわからないけど、今はバスタブで大人しくしてるよりしょうがない。
「…」
どうして夫人は私にこんなに手をかけるんだろう。確かに自分の侍女がみすぼらしかったら面子が保てないのはわかるけど、それでも彼女が手ずから行う必要性も無い。
…でも私が綺麗になったら、彼はもう一度私を見てくれるだろうか。
傷ついた手が治ったら、痛んだ髪が綺麗になったら、珠のような肌になれたら、細い体に少し肉が付いたら、私がもう少し素直になれたら…彼は、フィンは私にもう一度振り向いてくれるだろうか。
明日は綺麗なドレスを着るんだろう、憧れてやまなかった綺麗なドレスを。でもそれがこんな形になるなんて思ってなかった。
フィンにちゃんと見て欲しかったな。それでエスコートされたかった。そのまま音楽の中で、貴方と学んだワルツを踊るの。
お湯の中で、私は膝を抱える。少し温くなってきたな、と思いながら私はそっと目を閉じた。
「そろそろ上がっていいわよ〜」
少し意識が遠くなってきたところで聴こえてきたのは夫人の声。
私はそれに返事をして、バスタブから出る。
体を拭いて、バスローブを着て、案内されたのは何故か再び夫人の部屋。
そこからドレッサーの前に座らされるとそのまままた夫人が自ら私の髪を乾かして、最初にここにきた時と同じ“魔法のお薬”とやらで髪を整える。
「さて、次は軟膏を塗りましょうか」
そう言って夫人は引き出しから小さな缶を取り出す。缶の中には夫人のいう通り白軟膏のようなものが入っていた。
「働き者のいい手だけど、今日と明日はお休みしましょう?」
夫人が私の手先に軟膏を塗り込む。傷がついた部分は仕方ないけど、荒れた程度の場所は、少しずつ滑らかになっていく。
こうして変わっていくのを見ると、髪と言い肌と言いまるでもう自分じゃないみたいだ。
「どうして、奥様が自らここまで…」
私の呟きに、夫人は静かに笑う。
「…言ったでしょう? 私のお気に入りの子たちは、ここでおしゃれを覚えるのよ」
それが本当なら、何人の使用人がここで“おしゃれ”を覚えて行ったんだろう。そう疑問を感じるのと同時に私もその一人であることに、少し…嬉しさのようなものを感じた。
「貴方も働き者で気に入ってるわ。お手洗いをとても綺麗にしてくれるって聞いてるの」
それは私が臭いに耐えられなかったからだけど…それでも、自分の仕事が褒められるのは悪い気分じゃない。
「ありがとう、ございます」
「さて、これで今日できることは終わり。明日はうちのダンスホールでパーティーだから…そうね、八時にここにきてくれる? あ、勿論私服でね?」
「わかりました」
「女の戦闘服は時間がかかるものよ。覚悟してね?」
あと間違ってもご飯食べないでね、と夫人は言った。正直それは辛い。
八時にこの部屋…と言うことは、おそらくアフタヌーンパーティーだろう。そうだとしても、支度に四時間以上かかるのは流石にドレスと言ったところだろうか。あぁでも確かにいつもお母様は出かける時支度に時間がかかっていたな。
しかし私のドレスあるんだろうか。サイズが合う人がいれば、その人のを借りられるけど…。
そんな疑問を残したままこの日はこれで解散になり、“仕事はしないように”と念を押されたのでその日は寝ることにして部屋へ向かう。
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