最初の一歩(4)
そして私もまた貴族…貴族“だった”。
先程夫人が口にした“アニー・ベイリー”とは、私の四年前までの名前。私の本来いた家であるベイリー侯爵家は国家会計士の家系で、父もまた国家会計士として王城に勤めていた。
…でもあれは四年前、とても寒い夜のこと。
簡単に言えば、屋敷に野盗が入った。
もうみんな寝静まってるような時間なのに、なんの前触れもなく剣の音がしていたのをよく覚えている。
当たり前だけど屋敷は騒然。慌てた様子で私の侍女が部屋に入ってきて、私を叩き起こすと二人で屋敷中を逃げ回った。
あちこちに転がる死体も、むせかえる血の匂いも、遠くで聞こえる叫び声も…全部覚えている。
あの時私は枕の下に大事に仕舞っていた両親からの手紙と宝物のネックレスを持ち出して必死に逃げて、首にかけたネックレスに必死に祈ることしかできなかった。どうか両親は無事である様にと。
それでもやがて逃げるところが無くなったのか、最終的に私は厨房の地下室に押し込まれた。そして「ここで待ってるように、助けは来る」と侍女はそう言って、地下室のドアを閉めたあとは見かけていない。
私は息を殺して待っていた。時折遠くで私を探してる様な、聞き覚えのない怒鳴るような声が聞こえる中で。
暗い、電気なんてつかない地下室で、自分の家に何が起きてるのか、自分はこれからどうなるのかわからないことが怖かった。
何もできない自分が悔しくて、どうしてこんな目にと思うと悲しかったのに。
それなのにしばらくすると煙の臭いがして、それは数える間も無く強く濃い臭いになっていく。すごい速さでと濃くなる臭いに、私は屋敷に火がついたんだとすぐに気づいた。
危ないと思って外に出ようと地下室の扉を内側から開けようにも、外から何か置いてあるのか開けられない。
扉は開かないのに煙が隙間から入ってきて、咳き込む度に幸せな記憶が蘇る。
周りの空気と同じように段々と熱を持つ鍵のネックレスを握り込んで…やがて力尽きたのか私はそこまでしか覚えていない。
そして次に目が覚めた時、私だけが病院に居た。
看護師が私を見て、大慌てで医者を呼んで、そこからさらに自警団が走ってベッドの前に駆け込んでくる。そして「何か見てないか、どうして私だけ生き残ったのか、何か覚えてることはないか」…そんなことを何度も繰り返し訊くんだ。
でも私は死体しか見てないし、他は何も知らない。死体と血の臭い以外で覚えているのなんて絶望と恐怖だけだった。
やがて私の態度にため息をついて、呆れたように帰っていく自警団の人間たちはついでのように両親が死んでいることを話して去って行った。
それから今も涙は止まってないし、眠りも浅い。
体が良くなった頃、親戚であるスペンサー家の孤児院に移ることが決まった。
そこからはここに来るまでの四年間を孤児院で過ごして、貧しい生活と自分のことや自分の住環境を整える事を叩き込まれる生活。
唯一の救いは、ネックレスと手紙は今も手元にあるということだけ。
そして今、私は父の妹であった女性の前に立つ…という状況に至る。
「兄様の事は…あの事件は本当に悲惨だったわ。私には、貴方を目の届く範囲に置いてあげることしかできなかった」
「いえ…感謝しています。あの時孤児院に入れなかったら、私は物乞いとして生きて行くところでしたから」
こればかりは事実だ。
あの時孤児院に入れなかったら、行き場を失った私など安易に死んでしまっただろう。仮に親族がいたって養子として受け入れてもらえる状況かは…わからない。
そう思えば、私は運が良かった。
「…そう、そうねね」
夫人は何かを噛み締めるように視線を逸らす。その様子を見て、私は何か感じる物があるのだろうと思うことはできても、それが何かまではわからない。
「あぁ、ごめんなさいね。せっかくの再会だもの、楽しくしたかったのは本当なのよ?」
だが夫人はすぐ何かに勘づいたように取り繕って笑った。動揺すると少し焦ったように笑う所は、昔の印象と変わらないみたい。
そう思った私は相手に気づかれない程度にほんの少しだけ、自分の口角が上がるのを感じる。今日はよく笑う日だ。
「私も…今日という日を迎えられた事を嬉しく思います」
あぁ、変わらない目の前の夫人を見ていると懐かしい記憶が蘇る。
幼い頃からうちの家族とスペンサーの家のひとたちとで何度も別荘に行ったっけ。
その別荘の付近にある平原を駆け、目の前の浜辺を歩き、建物の裏にある大きな木の木陰で眠る。
私の一番、綺麗な記憶。
もう、戻れないのに。
「それは良かったわ、私の部屋にはいつでも来てちょうだいな。そして来た時は時間を忘れてお茶しましょう」
「はい…ありがたくお受けします」
私はもう一度あのお辞儀をした。
貴族しかその挨拶を知らないのなら、今こそ使うべき時なんだろう。
しかし“時間を忘れて”か…それは難しいかもしれない。そも自主的にこの部屋に来るかは正直言って仕事次第、自分の感情の整理のつき方次第に、なってしまう。
つまり、人の願いが叶える覚悟が私にはないってことだ。我ながら情けないな。
今が嘘じゃないのは仕方ないとしても、前を向くために頑張らない理由にはならないのに。
「さて、次はフィンのところに行かなくちゃね!」
勝手に落ち込んでいる私に向かってそう言った夫人は、先程とは打って変わって弾んだ声音だ。
本来ならば、このまますぐフィン様のお部屋へ伺っていいのかは家政婦長であるマデリンさんに改めて指示を仰がないといけない、と思うんだけど…夫人が言うならそうなるんだろう。
「は、はぁ…」
「フィンにはね、アニーが来るのをみんなで内緒にしているの! きっと驚くと思って」
「そうなんですか…」
夫人は途端にご機嫌で少し戸惑う。
たかがメイド一人、そんな秘密にすることでもないように思うけど。なんて思うとますます夫人の調子に疑問しか感じない。何がそんなに嬉しいんだろう?
「さぁさぁ、隣に座って」
!?
「お、奥様!? それはなりません! 私は正真正銘メイドです!」
急に何を言ってるんだこの夫人は。
使用人を自分と同じ椅子に座らせるなんて、まるで示しがつかないというのに。
それなのに目の前の夫人は、まるで話を聞かず急かすようにソファの空いた部分をぽすぽすと叩いている。
やめて、輝いた瞳で私が隣に座るって期待しないで!
「何言ってるの! こんなに楽しみなことってないのに!」
「し、しかし…」
「いいからいいから」
急に夫人はソファを立ち上がったかと思うと、勢いに流すように戸惑う私の背中を押してソファに無理やり座らせた。
そして私の髪についたキャップを外し、縛ってあるものを解き始める。
「あわや…」
ここまで来てしまったらもう、私のようなメイドなど最早まな板の上の鯉だ。慣れた手つきで髪が解かれて行くのを感じるが、もうそのままになるしかない。
ご機嫌な鼻歌が、背後にいる夫人から聞こえる。まるで娘の髪でもいじるようにご機嫌で、そういう意味でも何かを言い出しづらい。
「娘は生まれなかったから、やっぱり嬉しいわぁ」
私を娘に例えないで欲しい…ので私の緊張は解けない訳だけれども。しかし何やら自分の後ろからごそごそと物を探す音がする。もしや本当に私の粗末な髪で遊ぼうとでもいうのだろうか。
「はい、大人しくしててね」
そう言うと、櫛で髪を梳かれる感覚が後頭部を流れた。
「奥様、何を…?」
私の髪で本当に遊ぶ気なの…!?
動揺する私を置き去りに、夫人は何やら霧吹きで謎の液体を髪に薄く拭いてから梳かしてを繰り返している。
「これはね、髪を綺麗にしてくれる魔法のお薬なの。私のお気に入りなのよ」
えっ、なにそれこわい。薬…ってことは良いものなのかもしれないけど、髪を綺麗にするものなんて高いシャンプーくらいしか知らないよ。
それに主人のものを使ってるなんて周りになんて言われるかわかんないじゃないか。私今日入ったばっかりの新人なんだけど!?
いじめは勘弁して欲しいな…。
そんな私の心情を知ってか知らずか、機嫌のいい夫人の鼻歌は続いている。
「私の気に入りの子は、みんなこうやっておしゃれを知っていくのよ」
と言うことは、私以外に複数人こうやって夫人に世話を焼かれているってことだろうか。
それなら正直視野の狭い発想だけど、一先ずいじめとかは心配はなさそう。我ながら現金だけど。
でも日頃から行われてるなら、その姿は侍女も見ているはず。てっきりこの行いの為に侍女に席を外させたように感じていたのに。
「じゃ、じゃあ…どうして侍女の方々を追い出すような真似を…?」
「それはもちろん、貴方と“何も気にせず”お話ししたかったからよ?」
「…それは、ご配慮痛みい、入ります…?」
「ふふ、そうね?」
私の記憶の中の夫人は、いつもにこやかで花も踏まない様な人だったと思うんだけど、こんなに配慮の届く人だったのかと感じる。でも人間の記憶なんてそんなものなのかも知れない。
そして会話が途切れれば、すぐにまた鼻歌が部屋に響く。
だけどこれはなんの曲だろう、聞き覚えがある気がする。繰り返し耳に揺蕩うこの音楽は、私の記憶の誰が奏でてくれたものなんだろう。
気づけば髪が梳き終わったのか、今度は縛られる感触がある。
夫人は手早く髪を整えると、私の体を自身と向かい合わせるように動かした。
「ちょっと目を閉じていてね?」
「へっ、うあっ」
プシュ、と額に冷たいものを感じて反射的に目を閉じる。すぐさま前髪を梳かされる感触があって、夫人の言う魔法のお薬とやらを噴霧されたんだとすぐにわかった。
「はい、出来上がり」
その言葉にそろりと目を開けると、目の前には手鏡が。そしてそこに映った自分の姿に私は驚愕した。
「わ…」
目の前に映っていたのは、少し見違えた自分の姿。
まとめ直された後ろ髪は自分でやるよりずっと綺麗だし、前髪なんて少し艶めいているように見える。
髪が綺麗に整うって、こんなに印象が違うんだ…そう感心できるほど変わったように感じる自分には素直に驚いてしまう。何も全部が綺麗になったわけじゃないのに。
「うん、これで綺麗。本当はお化粧もしてあげたいけど…時間的に今度かしらね」
そう笑う夫人の表情は、嬉しそうと言うよりは寂しそうに見えた。
「あ、ありがとうございました。自分の髪でないみたいです」
終わったのならソファに座っているのは良くないのですぐさま立ってお礼を言う。
夫人の寂しげな表情の理由はわからないけど、私としてはこんなに良くしてもらっていいのだろうか…とそれはそれで不思議な気分。
「良いのよ。私の我儘をきいてもらった様なものだもの」
「そんな、こんな良いものを使ってもらって…」
私としては申し訳ないほどだけど、夫人は私の言葉に優しく笑うばかりでこれ以上深く話す気はない様だった。
その態度に私がどうしたものかと次の言葉を待っていると、夫人は明るい笑顔を向けてくれる。
「さて、フィンを待たせてるわね。あの子の所へ行ってらっしゃい」
夫人は椅子から立ち上がると私を扉の方に向けて軽く背中を押す。私がそれに少し驚いていると、彼女は私の耳元で一つ囁いた。
「…あの子をよろしくね」
切に迫ったようなその声に、私は思わず言葉の真意を探ろうと振り返る。しかしそこにあったのはまたも優しく笑う夫人の姿があるばかりで、この言葉の真意を知ることは出来そうにないと、私は悟った。
あの微笑みはきっと何を言ってもはぐらかされてしまう類の表情で、孤児院の院長がそうだったと思い出す。
「…失礼いたしました」
私はうすもやりと霧のかかった様な心のまま夫人の部屋を出た。
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