旅行前の出来事
学校の宿題も予定の分はほぼ終わり、いよいよ出発の日の前日を迎えた。そわそわと落ち着かないたかしを、ちょっと心配そうに見つめるおかあさん。
「たかし、下着とか着替え、ちゃんとそろってるの? 筆記用具も忘れちゃだめよ」
「うるさいなぁ。おかあさん、大丈夫だって。もう何回も見たんだから」
夕食をすませ、「早めにお風呂に入んなさい」とおかあさんにせかされ、服を脱ごうとした時だった。
電話のベルがなり、おかあさんが受話器を取った。
「たかし、電話よぉ」
「誰から? わかった。柳さんからでしょ」
「ううん。岡村君て子、たかしの友だち?」
「えっ、岡村」
たかしは胸騒ぎを感じた。今まで、岡村から電話がかかったことなどなかったからだ。
「もしもし。岡村?」
「ああ、たかし。ごめんな。家まで電話しちゃって」
「ううん。どうしたの? 何かあった?」
「うん。じつは…、坂元のおばちゃんが…」
「えっ? 坂元のおかあさん、どかしたの?」
「危篤なんだ。たぶん、今夜もたないだろうって」
「えっ!」
「たった今、担任の村松から電話があったんだ。おれ、今から村松と一緒に病院へ行こうと思ってるんだけど、たかしはどうする?
坂元のおとうさん、連絡がとれないらしいんだ。おばあちゃんには連絡はついたけど、明日じゃないと来れないらしい。多分、坂元、心細いんじゃないかなと思って」
たかしの頭の中は真っ白になりかけた。どうしよう。どうしよう。こんな時はどうしたらいいんだろう。
「たかし。おまえ、夜とか外出れないんじゃない? だったら無理すんなよ。明日でもいいから」
岡村の声がやけに遠くに感じる。たかしは必死で気持ちを落ち着かせ、やっとの思いで病院名と場所を聞き、電話を切った。
なぜだ。なぜこんな時なんだ。
しゅんとした顔でソファに腰をおろした。
「たかし。どうしたの? お友だち、何の用事だったの?」
「おかあさん、ぼく、どうしたらいいんだろう」
そう言うと、台所の椅子にへなへなと座りこんだ。
そして、坂元のおかあさんの病気のこと、さっき岡村からかかってきた電話の内容を話した。
「そうだったの。それで、たかしはどうしたいの。今夜行って、お友達のおかあさんにもしものことがあれば、あなた旅行にもいけないかもよ。岡村君には、明日旅行に行くことは言ってたの?」
「うん。だけど、夏休み前だったし、こんな時だから、きっと忘れてる
んだと思う」
「どちらにしても、旅行に明日行くって、もう一度言ってたほうがいいわね」
おかあさんに話して、たかしの心は少し落ち着きを取り戻した。そして、再び、岡村からの電話を思い起こした。
岡村のいつになく心細そうな声。坂元の顔を思い出すと胸がつまる。しかし、今夜だけ病院へ行って、明日知らん顔して旅行なんか行けない。今夜行くってことは、坂元のおかあさんが急に良くならない限り、旅行はあきらめるということ。
ああ、行きたい。ティーンズ・ショーンズがいたかもしれない土地へ行ってみたい。たかしは、ティーンズ・ショーンズの絵を思い出していた。同時に、その時ふと、この前会った坂元のさびしそうな後ろ姿が目に浮かんだ。
さかもと…。
たかしは、坂元の心がのり移ったかのように、とても悲しく不安な気持ちに襲われた。
やっぱり、そうすべきだ。きっとティーンズ・ショーンズもそうすることを望んでいるんだ。
「おかあさん。ぼく、病院へ行って来る。今から柳さんに電話するから」
「たかし。あなた…、柳さんに電話するってどういうこと」
「ぼく、旅行はあきらめる。こんな気持ちで言ったら、きっと嫌な思い出にしかならないから」
「そうか、さすが、おかあさんの子。決断が早い!」
二人は顔を見合わせて笑った。そして、電話帳を取り出すと。すぐに柳さんの自宅に電話をかけた。
「そうか…。残念だが、そういうことなら仕方ない。
しかし、たかし君、よく決断したね。君がどれほど行きたかったか知っているだけに、おじさんはなんだか胸が熱くなってきたよ。
その心はきっとお友だちの力になる。おじさんとしては、ちょっぴり残念だけどね」
柳さんは快く承知してくれた。
たかしは、おとうさんに病院まで送ってもらうことになり、急いで用意した。
病院に着くと、案内所で坂元のおかあさんの病室を聞き、暗い廊下を急いだ。静まり返った夜の病院は、不安と心細さを十倍に膨らませた。
三〇五号室。坂元のおかあさんの病室だ。たかしは、おとうさんの方を振り返り、うなずくと扉を開けた。
ベットの上には、酸素マスクをつけたおかあさんが横になっていた。その横に、村松先生に肩を抱きかかえられた坂元と妹がおかあさんの手を握りしめていた。
「たかし…」
ドアの近くにいた岡村が小声でたかしを導き入れた。
「父さんは、廊下で待っているから」
おとうさんは、部屋がいっぱいであることに気をつかい廊下へ出た。たかしは、岡村と目を伏せうなずき合うと、ベッドの方に目をやった。
苦しそうな息づかいのおばさん。それを辛そうに見守る坂元。
たかしは、何もしてやれない自分が悔しかった。坂元の後ろ姿を見ているのが辛く、目を閉じた。真っ暗な心の中で。
(神様、どうか神様が本当にいるんだったら、坂元のおばさんの病気を治してあげてください)
本気で必死にそう祈った。そして、祈っているうりにティーンズ・ショーンズのあの絵が、頭に浮かんできた。たかしは、さっきよりももっと強く心の中で叫んでいた。
(ティーンズ・ショーンズ。お願いだ。力をかしてくれ。坂元のおばさんを助けて!)
それから一時間くらい、病室には緊張した空気が張りつめていた。
「あともうしばらく、もててくれれば、今回の峠は越えることができるかもしれません」
「先生。おかあちゃんのこと助けてください」
坂元は、半分涙声で言った。側にいた村松先生は、坂元の手を握ると、「大丈夫だ」「大丈夫だ」と力強く何度も言った。
「君のおかあさんは、素晴らしく生命力のある人だ。今の状態で保っているのは奇跡に近いものがあるんだがね。
しかし、先生がおしゃられるように、きっと大丈夫だ。おかあさんなら持ちこたえる。君たちの存在が、きっとおかあさんの命を燃やしているんだろう」
医者は、坂元の頭をくるくるなでると、初めて優しい顔になり、そう言った。
たかしは、岡村と目を合わせると、嬉しそうにうなずいた。
それから2時間後、坂元のおかあさんの危篤状態は続いたが、たかしと岡村は家へかえることになり、たかしのおとうさんの車に乗った。岡村の家は、病院から五分くらいのところだった。
「また明日の朝、病院で」
「うん。何かあったら、村松から電話が入るようになってるから」
たかしは、家に戻っても、なかなか寝付けず、ベッドでゴロゴロしていた。そして、思い出したかのように、立ち上がると『ティーンズ・ショーンズ』を取り出し、ページをめくった。
「柳さんたち、明日が出発か。取材、うまくいくといいな」
たかしは、不思議と悔しいとも残念とだも思わなかった。何も考えず、ティーンズ・ショーンズの絵を見つめた。次第に心の中の不安が和らぎ、気持ちも体も心地よく溶けてとけていく感覚の中にいた。