【祖父が死んだ】
昨夜、長らく会っていなかった祖父が亡くなった。
北の湖畔にある大きなお屋敷で老後を過ごしていた祖父の最後は、とてもらしかったと電話越しに母が言っていた。
湖上を揺蕩う小舟に寝そべり、星空を見ながら静かに息を引き取ったそうだ。あまりに帰りが遅いと心配して駆け付けた母が発見者である。
「まるで揺りかごの中で眠っているみたいでね、本当に穏やかな最期だったわ」
明け方の通話で、時折声を詰まらせながらしんみりとした様子で思い出話を聞かせてくれた母は、日がすっかり昇り切った今、葬式の準備で大忙しである。
わたしはキャリーケースに三泊分の荷物を詰め込んで部屋を出る。
階下から弟の都司が声をかけてきた。中学三年生になり、最近ますます声が低くなってきたように思う。小さいころは鈴の音のように甲高かったのに。これぞ無常である。
「姉ちゃん、準備できた?」
「完璧」
新幹線で向かえば通夜に間に合いそうだ。小さいころの記憶が確かであれば、かなり辺鄙な場所にあったはずだ。無事に辿り着けるか少しの不安は残る。
「弟よ、わたしの土地勘の無さを侮るな」
「言われなくても、そこに関して微塵も期待してないから心配しないでいいよ」
狭間家の姉弟は仲良く揃って家を出た。
どこに行くにもアクセスの良い地区に住んでいるため、新幹線の乗り場までは遠くない。コロコロと二台のキャリーケースが地面を滑る。
「姉ちゃんさ、今日って友達と遊びに行く日じゃなかったっけ?」
「イエス。この日に備えて人生初ブリーチしたのに、お披露目する間もなく田舎へゴーだよ。まあ、仕方ないけどね」
夏休みの初日に、思い切ってセミロングまで伸ばした髪をピンク色にした。高校では染髪禁止の為、短い夏休み期間中の思い出として。ちなみに友達は青色に染めたようだ。
「葬式じゃ仕方ないよね。じいちゃんとの思い出、俺はあんまりないんだよなあ。だから死んだっていう実感もまだ沸かない。姉ちゃんは?」
ううん、と頭を捻る。
祖父の思い出と聞かれて一番に思い出すのは大きな湖だ。古びた木製の小舟に乗せてもらって、たくさん遊んだ。日がすっかり傾いてもまだ乗りたいと騒ぐわたしに、じゃあ明日も来ようと優しく声を掛けてくれた祖父。しわしわの温かい手が頭を撫でてくれたっけ。
「わたしとたくさん遊んでくれる優しい人だったのは覚えてるよ。もう十年も前のことだから顔も声だってうろ覚えだし、わたしも実感は薄いかな」
「やっぱりそういうもんだよな」
新幹線の指定席に着く。
家から持参したお弁当を広げて適当に喋っていると、あっという間に目的地に到着した。
「問題はここからだね」
新幹線乗り場は栄えていたのに、そこから道を逸れると、家一つ見つけるのにも苦労するようなだだっ広い畦道が続いていた。
この先にあるはずのバス停まで歩く。山行きのバスは一時間に一本だとネットで知ってげんなりしていたが、運よく二十分ほどでバスが来た。
「空気が美味いってこういう事だったんだな。何となくだけど俺の心が浄化されてる気がする」
「緑だらけで視力回復も期待できそう」
窓に張り付いて、山をぐんぐんと上っていく光景を目に焼き付ける。
わたしたちが住んでいる都会は便利で何でも揃っているし、道も建物も綺麗に整備されている。その良さを普段は享受していて、住みやすいと思っているけれど、窮屈に思ってしまう時がたまにある。
きっと、自然だらけのこの場所は真逆なのだろうと思う。不便がたくさんあって、道も建物も不揃いだ。それなのに今、わたしは果てしなく広がる大きな自然の中で、いつもより自由に呼吸ができている気がした。
「良い場所だ」
「うん。虫は百パーセント出るだろうけどね」
都司が可愛くないことを言うから、軽く小突いておいた。
バスで揺られること約三十分。
バス停から降りてすぐ、延々と続く柵越しに大きな湖がやっと見えた。
「早く行こう。俺、さっき窓から見たんだ。あっちに船が置いてあったよ」
「まさか乗る気か? 嫌だよ、都司と乗ったら沈みそう」
移動だけで疲れたわたしとは違い、都司のテンションが上がっていく。
日は傾き、もう夕方と呼べる時間帯だ。そろそろ身を休ませたいのに、都司はわたしを置いてどんどん進んでいく。
「ほら、ちゃんとライフジャケットも櫂もあるよ」
古木で作られた小さな桟橋には、カヌーに似た三隻の小舟が繋がれていた。どれも年季が入っていて、記憶にあるものと似ている。もしかしたらこの中の一つは、同じ小舟なのかもしれない。
少しの好奇心に負けて乗り込むと、きいと足元が軋んだ。
「本当に沈みそうなんだけど」
「水は入ってきてないよ」
都司が渡してくれたライフジャケットをいそいそと被る。
何の合図もなく出発した。
二つのキャリーケースと姉弟を乗せたら定員いっぱいだった。
重たい船体がゆっくりと湖上を走る。
「わたしも漕ぐ」
「えー、どうせすぐにへばるでしょ」
「いいから、一回だけ」
山の中ということもあり、薄暗くて視界が悪い。都司がスマートフォンのライトで照らしてくれるのを頼りに進んだ。
「お屋敷じゃなくて、映画に出てくるような湖上にあるお城みたい」
屋敷に近づくと、窓ガラスに使用されているステンドグラスがきらりと反射した。湖上が屋敷から漏れるその光を受けて控えめに輝く。
幻想的な光景だった。きっと、満天の星空の光があればもっと綺麗に輝くはずだ。
「おじいちゃん、こんな綺麗な空間に囲まれて最後を迎えたんだね」
「うん。不謹慎かもしれないけど、よかったって思う」
都司がしんみりした様子で頷いた。
ギコギコと櫂が音を立てる。それ以外の音が聞こえない静かな湖上で、二人そろって少しだけ祖父の死を身近に感じることが出来た。