1:アイヴォリー家の謀反:その7『ドラゴンとドラゴン』
「エマちん。やっぱり『死者の書』って正規のアイテムじゃなかったんだね。黒魔法を大規模テストするために用意したデバッグアイテムが、間違ってゲームに入ってたみたい。そりゃ『イゾルデ』誰もクリアできないよ」
「え!? もしかして私が『アイヴォリー家の謀叛』をクリアできないのってそのせい!?」
「いやいや、エマちんは関係ないよ。ゲームの試作版の話だから」
「ううう。そうなんだ。……それで、その『死者の書』って?」
「死霊術の使用制限を完全解除するアイテム。生きてようが離れてようが発動時間ゼロでアンデッド兵にしちゃう」
「ううう。そんなの入ってたら流石に無理だね」
「うん。アイテム説明欄に開発者コードの隠語にもなってるブラック『ドラゴン』ってメモ書きあったみたいだし、それで開発者用デバッグアイテムってことが実質確定したの」
「……むむむ」
「なにエマちん?」
「もしだよ? アイスドラゴンが味方にいたら、そのイゾルデでもクリアできるかな?」
「エマちん、ほんと好きねアイスドラゴン。でも本気のブラックドラゴンには勝てないよ絶対に」
*
どん、という衝撃波を伴って飛翔するアイスドラゴンへの騎乗は、エマの知るどの絶叫マシーンよりも怖かった。
左右上下に変わる空。
泣いたり笑ったり叫んだりして、
途中で何度も
「やめてエイリス!」
と言うのだが、その泣き笑いの声を歓喜と勘違いした彼女は張り切って
「よし任せろ! 妻を退屈させんぞ!」
と不必要なアクロバット飛行で雲を突き抜けていくのだった。
小さなエイリスの背中にしがみつきつつも、エマは思った。
誰にも言えないことだったが、少し下着を濡らしてしまったかもしれないと。
「はっはっは! 今度はトリプル・コークスクリューを見せてやろう! ……む、これは」
減速したドラゴンと声音を低くしたエイリスに、エマは閉じていた目を開ける。
そして、彼女の視線に誘われて恐る恐ると眼下を見た。
その光景に思わずエマは息を呑んだ。
真っ黒な瘴気に包まれたアイヴォリー家の本軍と、その下で蠢く無数のアンデッド兵が見えた。
なぜ、戦闘もしていないアイヴォリー家の本軍がアンデッドになっているのだろうか。
それに、当主がアンデッドになってしまえば勝敗以前にアイヴォリー家の終わりではないか。
「これ……まさか。『死者の書』」
「さすがは私の妻だ。博識だな。その通りだ。アイヴォリー家が代々、秘密裏に禁書として受け継いできたものを、よりによって一番渡してはいけないヤツに渡したようだな。アイヴォリー家は自滅した。……しかし、他人事じゃない。まだ扱い方に慣れていない内に何とかしないとな」
「もしも、イゾルデが完全に使いこなしたら……王国軍は負けますか?」
エイリスは振り返ると真顔で言った。
「いいや、それどころか。この世界が死者の国になる」
エマは背筋がぞくりと寒くなった。
もちろんそれの意味することが恐ろしかったこともある。
しかし、それだけではない。
そうなればこの世界は、ゲームは進行不能になってしまう。
エマはまた、あの事故死直後の、自分の肋骨や内臓がまるで生卵のように砕ける瞬間を思い出し、反射的にエイリスを抱きしめてしまった。
「大丈夫だエマ」
我知らず寄せていた頬に、小さな口付けの感触があった。
「私を信頼しろ。私はお前のアイス・ドラゴンだぞ」
そう囁かれたとき、エマは胸の奥が少し高鳴る感触があった。
「捕まっていろよ」
「はい?」
しかしその意味を理解する前に唐突な急降下が始まり、エマはまた絶叫した。
*
アイヴォリー家の本陣は死者の宴だった。
血塗れになった土気色の兵士たちが、引きつった笑いを顔に貼り付けて、ありし日の野営の様子を再現する人形として振舞っている。
泥を満たしたジョッキを飲み干し、仲間の肉をイノシシのように捌き、そして喰らっていた。
剣の稽古は真剣で行われ、首や腕がボタボタと落ちても、彼らは訓練を続けている。
そしてそれらを最奥の高台から、ただ一人の観客として、目をキラキラとさせながら観劇している少女を見つけた。
――酷い。
――こんなのが世界に広まったら、本当に死者の世界だ。
吐き気を堪えているエマを一瞥すると、エイリスは舌打ちして声を発する。
「今すぐにやめよイゾルデ。見るに堪えんぞ」
その一声で兵士たちは糸の切れた人形のようにドサドサと崩れ落ちていった。
そして彼女もまた高台の席から転げ落ち、
「おおお、おお姉様! こここ、このような見すぼらしいところに自ら、お越しに!? ままま、まさかイゾルデに会いに来てくださったの!?」
と、半泣き顔で、しかし満面の笑みで駆け出してきた。
しかし、エイリスの影に隠れるようにしているエマに気付くと、
イゾルデは足をピタリと止めた。
その表情は笑顔のまま固まり、
口だけがぎこちなく動き始める。
「な に こ の 人 形 ? 」
その言葉は音で出来た呪詛のように、禍々しく発せられた。
奈落の闇で塗り固めて作った黒色を、もしも音にしたら、それはこういうものなのだろう。エマは本能でそう理解した。
しかしそれに恐怖ではなく、怒気で応じたのはエイリスだった。
「口の利き方には気を付けろイゾルデ。次に私の妻を『この』とか『人形』とか呼んだら殺すぞ」
イゾルデが急に崩れ落ちた。
そしてただでさえ色白だった肌がさらに白くなり、玉のような汗が肌に浮かんできた。
そのまま『ひ、ひ、ひ』と苦しそうに、胸を抑えて引きつるような痙攣を始めた。
確かにエイリスは恐るべきアイスドラゴンであり、その怒気に触れたなら多くの者は腰を抜かしてしまうだろう。
しかしそれを差し引いても、このイゾルデの反応は異常だった。
「妻ってなに。妻ってなに。妻ってなに。わからないわからないわからない。私は知らない! そんなの知らない分からない! ねえ妻ってなによお姉さま!!」
イゾルデが叫ぶと、ぞろりぞろりとアンデッド兵がまた立ち上がり始めた。
そして標的は、もちろんエマだった。
彼らはまるで、主の感情を代弁するかのように、禍々しい殺気を放って剣を握りしめている。
怯えるエマに対して、エイリスはまた苦虫を噛みつぶしたような表情をした。
そう、あのとき彼女がイゾルデの名を口にしつつ渋面したのは、こういう事情だったのだ。
話は出来るが、通じにくい。
アンデッド兵を警戒しつつも、エマはなるほどと納得した。
一方、エイリスは迫り来るアンデッド兵など気にせず、ただ嘆息した。
「……言い方がキツかったよ、イゾルデ。悪かった。お前の気持ちは嫌じゃない。だから、やめろそれ」
バタバタバタと、アンデッド兵が一気に崩れ落ちた。
そしてイゾルデの痙攣はピタリと止まり、むくりと上半身を起こしてきた。
その首がギリギリとこちらを向くと、目がエイリスを直視した。
「……嫌じゃないって、それはイゾルデのことが好きってことですか? その方がいるのにですか? 二股ですか?」
エマには分かった。
いま、エイリスはたいそう可愛らしく笑って頷いているが、内心ではものすごく何かを我慢しているのだと。
例えるなら、誰かの手料理を一口食べて見たら、それが最高に不味かったけど傷つけたくないから『うまい』と誤魔化している時の表情だ。
イゾルデが立ち上がったのを見て、エイリスは再び頷きつつ口を開いた。
「まぁ、その。そうだな。しかし二股とは違うぞ。エマは妻だが、そのことと私がイゾルデを好きなことや、お前が私を『姉』と呼ぶことは別に矛盾しないぞ。言ってみれば、エマはイゾルデの義理の姉になる。むしろ喜ばしいことじゃないか。そうだなエマ?」
「左様にございます」
と答えるエマ。
まだ空気は読める方なのかもと彼女は自賛した。
「人形の……お姉ちゃん?」
「いえ、人形じゃないお姉ちゃんにございます」
「……だ っ て 人 形 な の に ? 」
断定された。
これはもう、『人形』で良いのかもしれないとエマは思った。
握り拳を作るエイリスを、エマは後ろ手に『どうどう』と宥める。
「お名前……聞いてもいいですか?」
「エマにございます。イゾルデちゃんの新しいお姉ちゃんを担当します」
エマは半分死ぬ覚悟でそう言った。
王国の栄えあるキングズ・キーパーとはいえ、人間がドラゴンの姉を主張しているのだ。
まともなドラゴン(いるかは知らないが)なら激怒してても不思議はないと思った。
なぜならドラゴンと人との差は、蟻と人との差よりも大きいのだから。
しかし、なんだかイゾルデはもじもじと赤面をしている。
この感じもエマには分かる。
例えるなら、作ってきた渾身の手作りお弁当を意中の相手に渡したものの、本当に美味しいと食べてもらえるか、不安で悩んでいる感じだ。
万歳、生きている。
エマはこの機を逃すまいと、しかし恐る恐ると、しかし勇気を持って両手を広げてみる。
「さ、さあ。おいでイゾルデちゃん。私が新しいお姉ちゃんよ」
――言っちゃったぞ。
イゾルデの目が輝いた。
すると彼女は『死者の書』もほったらかしにして、まるで飼い主を見つけた迷子の子犬のように走ってエマに飛び込んできた。
眩暈がした。
ものすごい血生臭く、そして死霊術師特有の腐臭がした。
たぶん戦場に出来た真新しい墓の土を頬張ると、こんな臭いが口に充満するに違いない。
でもここで彼女を拒絶したら絶対に死ぬ。
目の合ったエイリスが『頑張れ』的な表情をしている。
頑張ります。
「お姉ちゃん」
と甘えてくるイゾルデを、エマは心を無にして抱き締めた。
そして思った。
エイリスが渋面した本当の理由、実はシンプルに『臭い』からではなかろうかと。
「あ、そうだわお姉さま」
ようやく離れてくれた。
「私、実はお姉さまが王国にいらっしゃると分かった時、プレゼントを準備したんですわ。ふふふ」
ゾ ク リ と、エマは背筋の凍える感触がした。
これも分かる。
しかし、嫌な予感というほど曖昧な感触ではない。
もっと明確だ。
鳥肌が立ち、吐く息が震えた。
「ほほう。それは嬉しいな。何であれ贈り物は嬉しいものだ」
とエイリスは笑っているが、
これは『絶対にダメなヤツ』だ。
エマ自身そうだったから分かるが、
空気の読めない子が、
恐る恐るではなく自信満々に、
そして張り切って何かをやらかすとき、
大体その結果は手ひどい失敗となる。
それでも人の子供同士なら精々で喧嘩して、泣いて済むだろう。
でも、ドラゴン同士ならタダではすまない。
「きっと気に入ってもらえるわ。だって、あんな『いい子たち』になったから。ほら見てください」
――生 き た ま ま だ か ら 、殺 し て ま せ ん わ 。
――だ っ て お 姉 さ ま が 大 好 き な モ ノ だ も の 。
イゾルデの笑みはあくまで無垢だった。
『それ』を見た時、エイリスの瞳から光が消えた。
『それ』は大勢の猫だった。
そして皆、生きてもいないし、死んでもいない。
ただぎこちなく動く『人形』だった。
しかもその中に、見覚えのある一匹がいた。
「サプライズです! ふふふ“ 特にこの子はお姉さまが『なかなかいう事を利かない悪い子だ』って愚痴っていましたから。私が良い子にしてあげましたの。あの無能でクソの役にも立たなかったバカ王子に、こっそり捕まえてくるよう命じたんですけど、そこは褒めてあげてもいいですわよね? お姉さま」
にゃあ、にゃあ、と。
それはぎこちない動きで走り寄り、
エイリスに甘えるように肢体をこすり始めた。
それはこする傍から毛が抜け、肉が削げ落ちた。
元はノアルだったそれを「あらら」とイゾルデが笑う。
「大丈夫ですわお姉さま。こんな人形、代わりはいくらでも作れますから。そこの『お姉ちゃん』だってそうなんでしょ?」
ぱしん。
と、気付けばエマはイゾルデの頬をぶっていた。
頭に血が昇って真っ白になり、
相手がドラゴンとか、
まずは説教とか、
そういう後先とか正しさとか、
なにも考えずに手が動いていた。
イゾルデの真っ白な頬にじんじんと咲いた薄紅色の手形。
彼女はおもむろに、そこに自身の手を重ねる。
まだ自分が何をして、何をされたか、分かっていない様子だった。
もちろんそれはエマも、エイリスもだ。
「――何をやっているのだ、お前は」
エイリスは零すように言うと、
へたりこむようにしゃがみ、
かつてノアルと呼んだ人形を抱きしめた。
そして大きな溜息をつきながら、その剝がれやすくなった背中を撫でさすった。
「お前、せっかくエマに助けてもらったのに、本当に何をやっているのだ。あれだけ気を付けろ・勝手に出ていくなと言ったのに、話を聞かないからこんな目にあったんだぞ。お腹がすいていたのか? 今朝に新鮮な魚をやったじゃないか。それとも私がエマばかり構うから気を引きたかったのか? 寂しかったのか? ほんと、普段はつれないくせに、お前はいつも私を困らせていたな。……でも」
――お前はもう私を困らせてくれないのだな。
エイリスが顔をあげたとき、
そこにはアイスドラゴンではなく、
ただ泣きそうな女の子が目に涙を浮かべていた。
「どうしようエマ。ノアルが……死んじゃったよ」
小さく震える彼女がいたたまれず、エマが抱き締めようとしたそのとき、
ザクリと腹部に熱い感触があった。
何だと目をやると、お腹にナイフみたいなものが突き刺さっている。
死んだ目をしたイゾルデがこっちを見ている。
なに? と聞く間もなくそれ――ナイフを彼女に引き抜かれ、
再びザクリ、ザクザクと熱が腹部で爆ぜた。
「悪くない。私は悪くない。悪くない悪くない悪くない悪くない」
イゾルデが壊れたスピーカーのように繰り返す中、
エマは吐血しながら膝を折り、倒れた。
急速に意識の薄れる感触があった。
暗くなっていく視界の奥で、半狂乱になったエイリスが両手でイゾルデの首を絞めるように掴み、そのまま果実でももぐように引き千切るのが見えた。
転がった首は急な圧迫を受けたせいで目が少し飛び出ていて、鼻や口から血を流していた。
エイリスが無き縋ってくるのが見えたが、
エマはもう音も聞こえないし、風景もほとんど見えなかった。
ただ、彼女の絶叫が一瞬で世界を凍らせたこと、それだけは分かった。