4C:災王ルート(プレビュー版)その21
深夜のクィンズガーデン、エマの居室扉を控えめにノックしたのはメープルだった。彼女は左手に銀の盃を二つ、そして右手にワインを満たしたボトルを持ってそわそわと落ち着かない様子でいる。普段は海竜塔で寝酒をしている彼女がここにいる理由は他でもない。主要地方の再建と砦化に向けた遠征が始まる前夜、メープルは散々迷った挙句にイゾルデの助言に従って、気持ちの整理を付けるべくここへ玉砕しに来たのだった。
憎き恋敵の名は氷竜エイリス。クィンダム最高戦力にして神の人形師が造ったような完全な美貌を誇り、人生経験500年を超える稀代の魔女。勝ち目など身長を除けば万に一つもない。そもそもエマとエイリスが互いに夫婦と自認している時点で割って入る隙間さえない。無論、敗北覚悟の上とはいえ初の失恋だ。持参したこの酒はその痛みを和らげるための麻酔用である。
扉の向こうからエマの近付く気配。メープルが喉の整調で「んん」と鳴らすと。
「……エイリス? 忘れ物でもしたのかな?」
早くも心がへし折れそうな第一声。メープルは胸を抉る痛みに耐え兼ねて「いちちち」と溢して片目を閉じた。あまりに辛い先客が今しがたまで滞在していたらしい。何の為かなど野暮で無粋なことは自問さえしないが、先に解答が頭に浮かんでしまう。なにせ今宵は戦に出征する前夜。恋人同士が愛を交わすのに持ってこいの夜ではないか。
早々に打ちひしがれたメープルは嘆息する。
――……二人の余韻を壊したくないし、帰った方が良さそうですね。
ノックは風の悪戯、たまたま近くにいた自分は一人で月見酒をしに来た酔狂者。もしもエマが出てきたら、そんな見え透いた嘘でもついてやり過ごそう――メープルは踵を返して途方に暮れる。
「って、応答するようにイゾルデちゃんから言われていたんだけど、どういう意味なのか分かるかな」
などと、困ったように笑いながら扉を開けるエマ。メープルは慌てて振り返って「遅くにごめんなさい姉上」と笑顔で応じつつも、内心で『いつか黒竜塔を水底に沈める』と誓いを立てた。
「メープルくんから話があるそうだからって、イゾルデちゃんに言われていたんだけれど……? とりあえず寒いし中に入って温まって」
どうぞと中へと招かれた時、メープルはやはり胸の奥がきゅんと痛む感覚があった。エマは今でも自分をメープル『くん』と呼んでくれるのだ。平静を装って「それでは、遠慮なくお邪魔しちゃいますね」と涼やかな笑顔を顔に貼り付けているのに、盃やボトルを握る手は汗ばみ、震えている。やはり相当に彼女のことが好きで、参っていて、だからこそ思ったより痛むだろうと予感した。
室内は外に比べて随分と温かかったが、エマはそれでも寒そうにカーディガンを羽織った肩を抱きながら、暖炉の前に膝を抱いて屈んでしまう。「メープルくんも早く! 風邪引いちゃうから!」と急かすように言われて、彼女は所在なく持っていたワインと盃をひとまずサイドテーブルへ置く。そして、エマの隣――から拳一つ分ぐらい空けたところに、同じように腰を降ろして座った。
「ほんと、クィンダムの夜って寒いよね。メープルくんそんな薄着で平気なの?」
まるで拾われた子猫のように震えている寒そうな彼女。それを横目に見て、メープルは少しだけ気が楽になった。深夜の来客を安々と寝室へ招き入れる時点で、エマは自分のことを完全に友人だと思っている。恋愛感情は愚か、異性とさえ認識されていない。メープル『くん』など所詮は愛称。つまり、自分には振られる資格さえなかったのだ。それがいま、冷徹なほど実感できた。
「……お酒でも飲みます? 不味いですけど温まりますよ」
やや自嘲気味にそう声をかけると、エマが「それじゃ少しだけ」と答えたので、メープルは立ち上がって二人分のワインを淡々と作り、盃を手に持って戻ってきた。一つをエマに渡し、「何かに乾杯しましょうか?」と投げやりに聞いてみる。エマは少し考えるように目を閉じてから、やがて頷くと「それじゃあ、私達の安全と女王国の平和に」と答えて微笑んだ。
メープルは少し迷ったが、もう悩む資格もないと知った今、早々に決着を着けてしまおうと決めた。彼女は痛む胸中から目を反らして答える。
「ではボクは、姉上とエイリスさんの末永い幸せに」
そう微笑んで盃を小さく掲げて見せる。これは自分への三下り半だった。最初で、そして恐らく最後の恋は、告白の機会さえなく終わってしまった。でもこれが言い訳なのは理解している。本当は自分に意気地も勇気もなかっただけ。資格のない恋などない。ただ、自分が眼中にさえなかったという事実を目の当たりにして、惨めな自尊心が告白を遠ざけたに過ぎない。情けなくて目元が熱くなる。
そしてこの珍奇な挨拶にエマは目を瞬かせていた。急に二人の関係を持ち出されて唖然としたのかも知れないし、余計なお節介と思ったのかもしれない。メープルはその場を誤魔化すようにワインをぐいっと煽った。今晩は殊更不味く感じられる。
「……もう。てっきり告白されるかと思ってすっごい緊張してたのに」
むせた。
気管支に雪崩れ込んだ発酵葡萄は焼けるほど熱く、メープルはただ咳き込むことしかできなかった。そしてエマは、そんな道化のような仕草を続ける彼女の様子にくすっと緊張を解されて、ようやく肩の力を抜いて話始める。
「イゾルデちゃんも人が悪いんだから。すごい思わせぶりな言い方してこれだもん」
エマは少し怒ったように口を尖らせている。本当にあのメガネ黒竜なに吹き込んだんだろう――まだ咽ながらもメープルは呪った。しかしその矛先は自分にも向けられる。
「メープルくんも、ちょっと繊細さに欠けてます。この戦争前夜の大事な時間帯に、人伝で『大事な話があるから今夜二人きりで』って伝えられたらどう思うかな? しかもその人が本当にやってきて、二人分のお酒なんて持ってたら。……はぁ。緊張して損した」
エマは溜息をつくと盃のワインを一口飲んだ。涙目のメープルは気管支の処理こそ辛うじて終えていたが、頭は混乱状態だった。エマは緊張していた? ボクに告白されると思って緊張していた? 彼女の言葉をどう受け止めて、どう答えたらいい? 気ばかり焦るくせに、こんな少量の酒でもう思考は回転しなくなっている。一方、エマの方はすっかりリラックスした様子で、彼女はまたワインをちびりと一口含むと、暖炉の火を見つめながら独白を始めた。
「明日から当分会えなくなるし、もしかしたら……ってこともあるから。ちょっと恥ずかしいお話するね。私の初恋って、実はメープルくんだったんだ」
はにかむように微笑むエマを見て、このワインの効果は抜群だと酩酊状態のメープルは思った。酔うどころか、実に都合の良い幻覚まで見せてくれる。例え嘘でも良い。今はこの夢にもう少し浸っていたいから、「そうなんですね」と相槌を打つ。
「こうして二人いたら、ヴァニーユのこと少し思い出すね。あの頃の私ってまだまだ少女だったし、男の子に対する人並みの憧れもあった。でもそれ以上に怖かったかな、男の人。人見知りが強かったのもあるけど、同じ年ごろなら、女の子としかまともにお話できなかった。でも、メープルくんだけは違ったの。こんなこと言ったら怒られるかもしれないけど、すごく綺麗で可愛くて、本当に女の子みたいだったから、……全然怖くなかった」
この夢が途切れないようにと、メープルはもう一度ワインを口に含む。酒はどれも嫌いだが、寝付きの悪い夜には必須の為、色々と銘柄を変えていたが、これがゴールだと彼女は確信する。一方で妙な薬が混ぜられていないか、念のためにマイスター・クロウへ分析依頼をしたいとも思った。
「でも、告白する勇気はなかったかな。色々とセリフを考えてみたこともあるけど、どれも切り出せなかった。それに、『メープルくんは女の子みたいな男の子だから好き』なんて伝えたら、変な誤解をされちゃうもんね」
それは自分の抱いていたコンプレックス。呪いながらも諦めていた、水の巫女としての宿命だ。それを大好きな人から最高の形で肯定されて、メープルはたとえ幻想であれ救われた心地になった。同時に、急に言いようのないやるせなさが込み上げて来て、それが堪える間もなく目元から熱となって零れてしまった。あ、とエマが驚いたように口へ手を当てる。
「……ごめんなさいメープルくん。その、私の方こそ繊細さっていうか、デリカシーなかったね。本当に余計なこと言っちゃった」
大丈夫ですよ、と笑って否定したかったのに。嗚咽が漏れそうでメープルは抱いた膝に顔を埋めてしまった。分からない。でもこんなに苦しいなら、きっとこれは幻想じゃない。現実だ。先の大戦で性を失った時でさえ『これも運命ですか』と笑って受け入れたのに、初めて彼女は理由なく後悔した。これは間違いなく幻想じゃない。現実はいつだって残酷だから。
「その。えっと。なんだか私ばかり話しちゃってるね。それも余計な事。……それでメープルくんの話って、やっぱり遠征のこと?」
場都合が悪そうに話を振ってくるエマに、この空気感を変えなくちゃとメープルは顔をあげて目元を拭った。そして気持ちを吹っ切るように話し始める。
「んんん。実は僕、姉上と……エマさんと恋人の真似事をしてみたかったんです。これまで一度も恋愛経験をしたことがなかったから。だから僕にとって一番……安心できるエマさんにそれを教えてもらいたくて。明日からみんな散り散りになってしまいますよね。だから、今夜を逃すともう機会がなかなかないなって思って。それで……」
もしもこの言葉を、いつものような悪戯っぽい笑顔で言えていたなら、エマもそれに付き合って笑って応えられたかもしれない。なのにメープルの声は震えていて、無理に笑おうとした眉は悲痛なほどに歪み、目からは涙が溢れていた。だからエマは返す言葉を失ってしまう。彼女がここに来た理由が分かってしまったから。ごめんなさい、という言葉があまりに残酷で、それを発する勇気がエマにはなかった。
けれども。
そんな風に戸惑っているからこそ、メープルは申し訳なさそうに言ってしまった。
「好きになって、ごめんなさい」
泣いているメープルに、そんな悲痛な告白をさせてしまった。好意と謝罪。最低なことをさせたとエマは強烈な自己嫌悪に陥る。そして先に自分の打ち明けた言葉の数々。それがどれほど不用意で、メープルの想いや自尊心を傷つけてしまったかを理解した。エマには涙を流す資格さえないのに、彼女はそれを止められなくなった。
「ごめんなさい。……本当にごめんなさい。私、最低なこと言ったんだね」
慰めに肩へ触れようと伸ばした手が、自分でも白々しくて止まってしまう。そしてそれ以上、言葉が出てこなかった。何を言ってもだめで、何をやっても彼女の傷を癒すことはできないから。
「……さっきまでは、夢なら覚めてほしくないと思っていました」
先に沈黙を嫌ったのはメープルだった。彼女は洟をすすると、静かに息を吸ってから話し始める。
「途中から、辛い現実に気付いて後悔しました。最初からそのつもりで来たのに、おかしいですね。でも今は、伝えられて良かったと思います。後でイゾルデさんにも御礼を言うつもりです。だって」
メープルは今度こそ笑顔で答える。
「こんなに好きな人に泣いてもらえるなんて、僕って幸せじゃないですか?」
そしてエマが何かを言う前に、メープルはまた涙を拭って立ち上がると、サイドテーブルのワインボトルと盃一つを掴んで扉へと向かう。もう十分だ。自分にしては素直に玉砕できたと思った。煮え切らない態度のままダラダラと時間を過ごし、何の解決もないまま酩酊だけして立ち去る。そんな結末もあるかと思っていた。
――ほんと、上出来です。
それでは最後にお休みの挨拶をと振り返ると、目の前にエマがいた。鎧を着ていない彼女は細いな、とか、こうして間近で見たら結構小さいな、とか、思ったより黒目がちで睫毛長いなとか思っている間に、背伸びしてきた彼女に両手を頭の後ろに回され、頬に優しい口付けをされる。
さらりと流れた遅れ毛から、柑橘系の匂いがふわりと香った。
「……親愛のキスぐらいなら、エイリスだって怒らない。恋人も恋人ごっこも出来ないけれど、これで別れ別れになるのはダメだよ。これは私の我儘。メープルくんには必要のない罪悪感。帰ってきたら、また一緒にお酒を飲んで、泣いて、笑って、それでお話して」
そっと離れた彼女はまだ涙目で、それでも笑顔で言ってくれた。
「それじゃあ、おやすみなさい。飲めないお酒は程々にね」
と。だからそれに笑顔で答える。
「ありがとう姉上、おやすみなさい」
メープルは居室を出て静かに扉を閉める。夢の時間はおしまい。深夜の寒さが火照った身体に心地よかった。吐く息は白く、夜空へ立ち上るそれに目をやれば、青白い月が美しく見えた。今夜からお酒が無くてもよく眠れそうだと、メープルは杯を手に笑った。




