4C:災王ルート(プレビュー版)その17
クィンダムの貧民地区は治安に比して衛兵の守りは少ない。戦乱が終わって平和が訪れると、命の価値には差が生まれる。たとえばメーナのような北国の戦災孤児と、ブラッドリー城への訪問を許された貴族一人の命が、クィンダムにとって等価であるべくもないのだ。そこに正義はなくとも大義がある。
しかし、ファミリア孤児院を夜な夜な抜け出し、鍛冶屋からくすねた弓と矢を路地裏で構えて、ゴブリンに見立てた廃棄野菜を射抜いてる彼女にとって、見張の目がないのはむしろ好都合だった。
メーナは憎悪によって強く引き絞った弦を離すと、狙いを定めたカボチャにドっと矢が突き立ち、腐敗した汁が散った。幼少から父に学んだ雪兎狩りの弓術は、この年でもう一級の弓兵と呼べるほどに達している。的の大きさが人の頭部ほどもあれば、この距離では外す方が難しかった。
そして彼女は、手持ちが一本切りの矢故に、近寄っては引き抜いて距離を開け、再び矢を番えて放つ、という反復に終始している。夜が明ける頃には引手のマメが潰れ、疲労困憊し、ようやく少しの時間だけ地面で微睡めるのだ。
ばきり……。メーナは手の内で『く』の時に曲がった矢を見つめる。引き抜こうとした一本切りの矢が酷使に耐え兼ねて、折れてしまったのだ。
「くそ!」
叩きつけた。もう、糞くらえだった。盗んだ弓矢も、腐ったカボチャも、生き残った自分も、孤児院の温かいベッドも、睡眠薬の入ったオートミールも、神への感謝も祈りも、知ったような口をきくマイスターも何もかもクソくらえだった。いまの自分はゴブリンを殺す矢であり、北国にそいつらを仕向けた何者かを殺す刃に過ぎない。生きる殺意であり復讐であり、それ以外に命の使い道がない『ゴブリンの食い残し』だった。
あのとき自分を助けたアイスドラゴンは言った。『復讐の刃を研いで地獄を生きろ』。メーナはそこに救いを感じた。生き残った意味がフレイトナーの報復であるなら、それこそが残された命の使い方だと確信できたからだ。
だがここに地獄などなかった。あったのは寒気のするような温もりと、惨めな同情と憐憫ばかりで、送り込まれた孤児院は、故郷の全てを奪われた自分へ『全て忘れて幸せに生きろ』と諭す偽善者どもの巣窟だったのだ。
苛立ったメーナは握り締めた拳をカボチャへ叩きつけ、腐った汁を顔へ浴びる。吐き気のするような酸味とえぐみが鼻の奥に広がった。
「ふふふ……ふふっは」
メーナは気付けば笑っていた。『ゴブリンの食い残し』が『貴族の食い残し』を殴っている。それが滑稽だったのだ。メーナは拳をさらに打ち付ける。何度も何度も。殴るほど返り血のように腐敗汁を浴び、カボチャはどんどん型崩れしていく。月明かりの加減によっては、それが潰れたゴブリンの頭のように見えなくもない。そう思うと乱打が止められなくなり、メーナは拳の皮が剥けるのも構わず殴り続けた。
「面白いの? 悲しいの? 分からないわ」
耳元に囁かれ、「キャ!」と跳ね返るように振り返ると、足を滑らせて尻もちをつく。腰に広がる鈍い痛みが間抜けで腹立たしく、罵声の一つも返してやろうと睨んだが、月明かりを背にした彼女の姿を見た途端、動けなくなった。
『まるで造り物のように神々しい』。
初めに抱いた感想はとても奇妙だった。年齢は自分より恐らく下だろう。頭一つ分は低いように思う。ただし、彼女が醸す雰囲気は幼子というより人形だ。無垢というより、表情がそこから感じられない。なのに彼女の若葉色の瞳も、陽だまりのように優しい金色の髪も生命力に満ちていて、しかしそれらが矛盾なく、完璧に収まっている。本当に人なのか。
「分からないわ。面白いの? 悲しいの?」
小首を傾げられる。メーナは頭を振って意識を切り替え、痛む尻を擦りながら立ち上がった。大人なら殴りかかってやろうと思ったが、年端もいかない子供なら流石にそれはできない。メーナは目線の高さを合わせるように屈み、不満を殺して優しく声をかける。
「……ね。ここで何をしているの? 家はどこ?」
自分はいざ知らず、貧民地区の路地裏など、こんな夜更けに小さな子が居ても良い場所ではない。
人形のような少女は振り返ると、月の方を――ブラッドリー城の方を指さした。その小さな人差し指を真に受けるなら『光竜塔』になるが、それはあり得ない。ただし貧民地区ではなさそうだ。ぶかぶかのローブという身なりはともかく、この浮世離れした雰囲気は庶民ではないだろう。貴族で間違いなさそうだ。
メーナは迷う。近くの衛兵にでも預けるべきだろうか。否、ここの治安維持に努めている連中は信用ならない。難民に分け与える食料代の多くを懐におさめ、酒代に変えている。
――仕方ない。城近くの守護騎士に引き渡そう。
メーナは決心し、手を差し出す。
「私はメーナ。メーナ・フレイトナー。雪兎狩りの長メイガーの娘よ。あなた、名前は?」
「ファミリア。ファミリア・シュルトルーズ。私は貴方のママよ。迷子みたいだから探しにきたの」
後半のセリフがなければ、メーナは『シュルトルーズって、随分と遠くの出身ね』と返すつもりだったが、『ママ』を自称されたせいで気を取られてしまった。ここは『浮世離れ』と言うより『風変り』と言うべきなのか。しかし言葉尻を捉えて白黒つけるような年齢ではないだろう。メーナは彼女の不思議な緑の瞳を見つめるが、冗談のつもりはないらしい。
――おままごとに付き合うっきゃないね。
「えーっと、ありがとね……ママ。その、これから一緒にママとおうちへ帰ろうと思うんだけど、道分かるかな?」
「もちろんよ。ママがファミリア孤児院まで連れて行ってあげる。ついて来て」
メーナの差し出した手を取ると、そのままトコトコと先へ歩き始める風変り少女ファミリア。住処が同じファミリア孤児院ということは、どうやら彼女もまた戦災孤児であるらしい。それでファミリアと名乗ったのか、とメーナは自分なりに得心した。
とすれば、最初から難しいことは何もなかったことになる。自分が最北のフレイトナー出身の孤児であるように、ファミリアはシュルトルーズ出身の孤児であるだけだ。ならその理由も大方同じだろう。孤児院のマイスターたちの話によれば、シュルトルーズ地方はハーピーたちの襲撃を受けて、民の多くが死傷したそうだ。恐らく彼女はそこの生き残りで、城を指さしたのは貴族の生まれ故の事なのだろう。
――まだこんなに小さいのに。
ファミリアに連れられながら、メーナはやり切れなさを覚えて歯噛みする。この子が生き残ったのは幸運なのか。それとも不運なのか。そして、残された人生は幸福に生きて欲しいと願うべきか。それとも自分と同じように、シュルトルーズを襲ったハーピーを殺す復讐鬼になれと、そう願うべきなのか。まるで赤子のように小さな手に握られていたら、少しだけ孤児院の偽善者たちの気持ちが分かりそうになって、それがメーナを小さな自己嫌悪に陥らせた。生き残った意味を見失いそうになったのだ。
「ママは……おうちのこと好き? 先生とか、他の子とか」
何を聞いているのだろうと自分で思った。しかし自分と似た境遇にいながらまるで対照的な心境にいるようなこの子に、メーナは聞かずにおれなかったのだ。どうしてそんな平静でいられるのと。ファミリアは淡々と答える。
「分からないわ。でも愛してる。みんなママの子だし、おうちはおうちだもの。それだけよ」
本当に不思議な子だと思った。『分からないが愛している』。愛を理解しているとメーナは言うつもりはないが、あまり聞かない表現だと思う。それに、『おうちはおうち、それだけ』。これも年齢にしては随分と達観した言い草だと思うし、なお言えば冷めているようにも感じる。心を失うほど酷い目にあったのかもしれない。メーナ自身がそうであったから、想像に固くはなかった。
「ママは……この先どう生きたい? 幸せに生きたい? それとも」
たとえ死んでも殺したいヤツがいるか。そんなバカげた質問をしかけたメーナは「ごめん、なんでもない」と口を閉ざす。質問内容以上に質問相手が最悪だった。自分が傷つくのは自分の勝手だが、それを他人にも強いてまで痛みに共感を求めるのは最低だ。それもこんな小さな子を相手に。
「自分が死んででも殺したい人がいるかって? それは効率が悪いとママは思う」
メーナは思わず足を止めた。
言っていないはずだ。
なぜわかった。
途端に背筋が寒くなる。
この目の前の少女が、急に得体の知れない異物のように感じられた。手を繋いだまま同じように足を止めたファミリアは、振り返らぬまま続ける。
「メーナは死にたがってるけど、それ以上に殺したがってる。まるでさっき折れた使い捨ての矢みたい。効率が悪いわ。そんなの外れたら終わっちゃうでしょ。それなら矢よりも弓、弓よりも射手、射手よりも指揮官。死んでまで殺したいのなら、そうあるべきよ。あんな風に死にたがってはだめ。だって生きてないと殺せない。……ああ、だから。面白いのか悲しいのか分からなかったのね、ママは」
幼子の口が三日月みたいに笑っている。まるで自分でさえ気付かなかった心の奥底を見透かされたようで、メーナは彼女の目が恐ろしくて直視できなかった。沈黙のまま立ち尽くすメーナに、ファミリアは小首を傾げて言う。
「ついたわ。『あなたの』おうちよ。おやすみなさい」
顔を上げると、何時の間にかファミリア孤児院の前についていた。そして彼女はメーナを置いてそのままトコトコと、月の照らす城の方へと歩みを進め、やがて夜の闇へと消えていった。メーナはその後姿が消えても、じっと闇の奥を見つめていた。
――もしかして、本当にあの子は……。
メーナは目線を少しあげる。月明かりがもっとも明るく照らしていたのは、ブラッドリー城ではなく、小さな指が示していた『光竜塔』だった。




