4C:災王ルート(プレビュー版)その15
*ここから先にはガールズラブ要素を含みます。
氷竜塔はクィンダムにおける逆鱗と呼んでも良かった。一階の入口にはエイリスの象徴でもある氷の翼竜が昼夜を問わずに侍り、近付くものへ牙を剥いて喉を鳴らす。2階から最上階までの道中は幾つもの罠魔法が仕掛けられており、冷ややかな氷壁に目を凝らせば、魔法陣の造る幾何学模様を幾つも見つけられるだろう。つまり、翼竜の目を掻い潜って塔へ侵入を果たせたとて、主がパチッと指一つ鳴らせばどこに潜んでいようと氷の磔刑に処されることになる。無論、その先に棲む『生ける災厄:北国殺』に比べれば、そのいずれも前座に過ぎないのだが。故に、この氷竜塔へは女王モニカから給仕を命じられた召使さえ、近付きたがらない。
いま、その最上階となるエイリスの寝室で熱く肌を重ねていたのは、塒の主たるエイリスと彼女が『妻』と呼び親しむエマだった。クイーンサイズのベッドの足元には暖炉の火が灯り、二人の脱ぎ散らかした衣類を薄暗く照らしている。
ベッドの上では、赤みの差した肌をシルクのシーツに包んで、静かな寝息を立てるエマの寝顔を愛おしげに見つめながら、エイリスがその頬を静かに撫でている。凄惨な戦いを終えた後の癒しを求め、この秘められた関係を望むのは、いつも愛を囁くエイリスではなく、エマの方だった。
不老の魔法により、ともすれば未熟な体躯に留まったエイリスの実年齢は500を超えている。悠久とは呼べぬまでも、しかし十分な時を過ごした彼女にとって、もはや交わる相手の性差など些末な問題だった。原始的な性欲はとうに失せ、より大きな愛の形でしか満たされない彼女にとって、自己犠牲で世界を救い続けるエマはあまりに尊く、そして最愛だった。
一方のエマは、人格の形成を見ぬうちに多くの死を経験し過ぎていた。それも残酷な運命竜の力によって何百人もの人生を繰り返し、死に、気付けば少女の心は取り返しがつかぬほど歪んでいた。そんなエマが焦がれたのは絶対の安らぎであり、失いようのない最愛だった。まして年相応の少女が異性に抱き得る憧れも、理想も、とうになく、故に不老にして最強のエイリスこそ拠り所だった。
二人の秘め事が始まったのは、偉大な先王マーカスの死が契機だった。
それが、限界まで心に傷を負っていたエマを最後に打ち砕いたのだ。
後に『魔女を殺す魔女――ドラゴンスレイヤー』と題され、戦史に残る大戦を終えたある夜、胸騒ぎを覚えたエイリスが氷竜塔を抜け出し、クィンズガーデンにあるエマの私室を尋ねると、そこで彼女はベッドにうずくまり、その全身を鮮血に塗れさせていたのだ。
光のない目で天井を見つめていた彼女の、その首や手首の至る所に刃物の躊躇い傷があり、そして疲弊で覚束なくなっていたその手は、それでもなお古刀を握って自死を試みていた。エイリスは知っている。エマはどれほど傷つこうが自死による救済を躊躇わない。だから彼女は、この凄惨な見た目以上に既に何度も繰り返し死に、再誕してここへ戻されていたのだ。どうあっても、マーカスの生前に戻れないことに絶望し、傷つき、嘆きながら。心を壊し続けて、なお。それでエイリスは、自身には知り様がなかったもう一つの逆鱗を身の内に感じた。
――ごめんね、エマ。
――私、気付いてあげられなかった。
エイリスは頬を伝う涙も拭わずに、抜け殻のように自死を試みているエマの元へ寄ると、そのまま彼女を抱いたのだ。
戦場で傷ついた兵士は娼館の女を抱いて束の間の救いを得る。それを下賤な風習と蔑む戦知らずの貴族は多い。しかし癒せぬ傷ならせめて忘れるためにも、それは崇高でさえある儀式だとエイリスは知っていた。なにより、今の彼女がエマにしてやれることが、それしかなかったのだ。
壊れたエマを、小さなエイリスはベッドへ押し倒すと、うなじへ舐めるような口付をする。彼女は有無を言わさず、何も言わず、エマを見つめながら、それを始めた。
思慕や甘えとは異なる触れ方や口付け、身体の重ね方にエマは戸惑ったが、それで確かに壊れていた心の隙間が満たされていくのは否定できなかった。たとえ疚しく、卑しく、背徳的な罪悪感があれ、しかしその感覚に身を委ねている間は、堪えきれない傷の痛みを忘れることができた。そしてエイリスは、無防備に許し、委ねてくれた彼女の感覚を決して離すことはなかった。上昇していく体温。増していく感度。噛み殺すことのできない喘ぎ。吐息。いま、エマの世界にはエイリスしかいなかった。
――怖がらなくて良いエマ。私が最後まで導いてあげるから。
自身の知らない感覚の波に怯えるエマへ、濡れた目のエイリスはそう囁くと、その口元はエマ自身がもっとも自我を感じられるもとへ寄せられる。それで堪えていた波が突き抜け、背筋が蕩けそうな感覚とともに仰け反ると、彼女は意識を失った。エイリスによってもたらされたのはエマの知らない小さな死だった。それは甘美で背徳的で、でもこれまで感じたことのない充足感と癒しを与えてくれた。ただ、それが何か知りたいとは思わなかった。
「……起こしてしまった?」
薄らと開いたエマの瞼、それに気付いたエイリスが囁くような声をかけると、エマは枕に埋めた顔を否定向きに振る。
「王陛下が亡くなった時のこと、夢に見てた。ドラゴンを殺すドラゴンとの戦い。豪雨のように降り注いだ禁断魔法。死んでいった十万規模の王国軍。霧か霞のように消えた地方。傷ついたドラゴンたち。……それでもあの人と和平は結べずに、勝ち取れたのはクィンダムと禁書封印図書館を互いに不干渉とすることだけ。……私達、繰り返すのかな」
今日の大評議会で承認された主要議題の中に、『禁書封印図書への災王調査』があったのだ。
それはクィンダムが災厄認定ならぬ禁忌認定した、あの魔女――メルセデスとの対峙を意味する。世界の在り方を変えることも厭わずに、旧王国の持ち得る全ての戦力をぶつけた『魔女を殺す魔女メルセデス』との戦いは、マーカスによる休戦の申し出により終わったのだ。恐らく戦い続ければ勝利を得られた。しかしその先に残る未来の悲惨さを、誰よりも正確に見極めた王の英断によって今があるのは間違いなかった。事実、あの戦いを境に変わらなかったのはエイリスだけだ。死霊術の深淵に触れ過ぎたイゾルデは前にもまして死に近くなり、海魔法の精髄を極めたメープルは性を喪失した。最後まで戦いを忌避し、その末に光魔法での破壊に追いやられたファミリアも、以前のように孤児たちと過ごすことはなくなった。そしてエマ自身、もう生きていても命の重さを感じられない。あの戦いだけで何度死に、何度殺し、何度同じ人生を経験したのか。
「……心配しないでエマ。まだメルセデスの傷は癒えていない。もしもエマが傷つくようなことがあったら、その前に私があの女を殺してあげる」
エマにしか聞かせない口調と声音で囁くと、エイリスは額へ口づけした。
「私はね。もうエマさえいれば後のことはどうだっていいの。この国が滅んでも、魔物が世界を支配しても、人がこの世界から死に絶えようとも、私はエマがいれば構わない。そしていま、この世界には私達二人きり。全てを忘れて、今日はもう眠りましょう」
白く長い睫毛のかかったエイリスの瞼が、ゆっくりと瞬いていく。エマはその仕草を見つめている内に、暖かな微睡へと溶けて行った。




