4C:災王ルート(プレビュー版)その5
『石と書のアイヴォリー』と名高いアイヴォリー地方は、
手先の器用な職人と博識な学者たちが暮らす街だった。
立ち並ぶ家はどれもが良質な石造りで、
踏み締める道にもぴっちりと寸法の合った石畳が敷き詰められている。
その精巧さは熟練の石工職人が手掛けたものだと一目でわかるほどだ。
街の随所では、長梯子に車輪をつけたような巨大な機器がモニュメントのように置かれている。
これは『カタパルト』という投石を行う攻城兵器であり、
アイヴォリー地方の技術力を示す代表的な観光用展示物だ。
他にも巨大なクロスボウに見えるバリスタ、複雑な連射機構を備えた石弓『火竜』、
城門を一撃で破る火薬式破城槌『パイルバンカー』など、
見ているだけで知的好奇心を刺激するようなものが屋外で展示されている。
『戦王史』でも、先王マーカスがもっとも戦を忌避した相手の一つがアイヴォリーだと語っている程だった。
そこを占拠したコボルドの知恵では、無論その価値を理解できようはずもない。
灰色の石壁へ血を擦りながら息絶えたのは、誰かの母親だった女だ。
血の気の引いた顔には光の消えた瞳があり、すぐ下には涙の跡がある。
しかしそれも、目の前で夫と息子の腹を裂かれた時に枯れ切ってしまった。
今、そのうなじに食らい付いて鼻をフゥフゥと鳴らしている獣は、
二足歩行になり損ねた狼と言うような魔物、コボルトだ。
それは女の首筋を食い破ると溢れる血液を啜りつつ、その肉を貪り食った。
野卑な口が唾液と血に染まれば、それが一層に獣性と食欲を刺激し、
コボルトはなお荒々しく肉を食い破るのだった。
街に転がる遺体の多くで、首から肩にかけての肉がごっそり削げているのは、
コボルトによるこの始末からだ。
今や数少なく生き残っているのは若い乙女ばかりであり、
彼女たちは一部の群れに囲まれ、慰み者とされている最中だった。
年中、盛りのついた雄犬のようでもあるこの魔物にとって、
『高い声で泣き叫ぶ柔肉』なら、例外なく性の対象でしかない。
そしてそれ以外はエサか、玩具か。人はその二つに大別される。
「……ねがい。……お願い、……です。たす、けて」
性の捌け口として汚し終えた女からの嘆願を、その尖った耳で聞いた一頭のコボルト。
しかし次に為すべきことはもう決まっていた。
コボルトは乱暴に髪を鷲掴みにして仰け反らせ、悲鳴をあげる彼女の喉に牙を突き立てた。
がぶり……ぶちぶち。もぐ、もにゅもぐ、じゅるる、もぐ。ごぐん。がぶり……ぶちち。
耳慣れない咀嚼音が聞こえて、
コボルトは皮膚を食い破る寸前だった牙を離し、
すぐ後ろを振り仰いだ。
そこに、黒い女がいた。
先端の折れた黒く大きな三角帽子を目深に被っているから、顔はよく見えない。
ただしそこからザワリと溢れ出るような長い黒髪は、
彼女の纏った黒のローブよりなお暗く、
夜よりも深い黒をしている。
がぶ、みちち、ぶち。もぐ……もぐ。じゅじゅ。はぐ……ぶちぶち。がぶ、もにゅ。
俄かには信じたい状況で、コボルトはありつこうとしたエサの事が頭から飛んだ。
なぜここに、無傷の女が平然と突っ立っているのだろうか。
周囲のコボルトもそうだ。
この唐突な異常事態が理解できず、身動きがとれなくなった。
そもそも、一方的に食われるはずでしかない人間の女が、
いったい何を食っているのだろうか?
まるで大事なお菓子をもらった女の子のように両手で抱えて、
しかし飢え死にしそうなほど貪欲で下品に貪り付き、小さな口をどす黒い血に塗れさせて。
ぶちち……ぶち。がぶ、もぐもにゅ。じゅるる……ごっくん。はぐ……。
牙のような八重歯で肉を噛みちぎって、ある意味で自分達よりも獰猛に、旺盛に咀嚼して。
ぼたり、と。
その女が両手から溢して、石畳みに落ちた食い残しを見る。
それは良く見慣れた形をしていた。
細部に渡るまで感覚で覚えている。
何度もそれで人間の肉を引き裂いてきた。
中指の爪は皮膚を裂き、人差し指は内臓をほじくるのによく使った。
小指などは目玉をつくのに丁度いい。そう、間違いない。これは。
自分の左手、だ。
理解と感覚が結びついた瞬間、左腕に爆ぜるような熱が込み上げてきた。
「コボルトが美味しいです」
ぞくりと、背筋を怖気がかけあがる。
なくした左腕の激痛さえ些末に感じる程の悍ましさに、コボルトはいよいよ動けなくなった。
この世の地獄と目があったのだ。
帽子の女が顔をあげて、下からすぅと覗き込んで来る。
メガネの奥に広がる躯の丘。死人の血よりも暗く濃厚に粘つく赤。赤。それが瞳で濁っている。
「コボルトが美味しいです。コボルトが美味しいです。コボルトが美味しいです」
愛らしい呪詛が囁かれる。
コボルトの尾がしおれ、ちじこまって、両足の間に引っ込んでいく。
これは『降伏』を示す生体反応だ。
この魔物における最大の恥辱。
群れの中で争いが起きた時、相手が『降伏』を示せばそれで戦いは終わる。
例え命を懸けたボスの座を争うときでも例外ではない。
これで終わりだ。終わりなのだ。
終わりなのに。
「コボルトが美味しいです。コボルトが美味しいです。コボルトが美味しいです」
赤い瞳が一層深く濃く濁り、
そしてどす黒く染まった口が懇願するように、
悍ましいことを唱え続けている。
「コボルトが美味しいです。コボルトが美味しいです。コボルトが美味しいです」
地面が、風に遊ぶ木の葉のように蠢ている。
しかしそれは良く見ると彼女の影だ。
人型であるはずのそれが、
まるで植物の生育を高速で見るかのように伸び、育ち、枝分かれしていく。
ただしその禍々しい影の植物は、
どの先端も人の手を象り、奈落へ手招くよう指をわらわらと動かしている。
ダメだと思った。
何がダメかは分からないが、拒絶しなくてはと本能が叫んだ。
なのに、声が出ない。
女から煙のように黒い瘴気が立ち上る。
鼻先に触れると、真新しい墓の土を頬張ったような臭いがした。
ああ、これは死の臭いだ。
そう悟ったとき、女の瞳に深い渦巻を見た。
深い深い赤い赤い濃い濃い螺旋がぐるぐるぐる。
「 私 達 、 い い 友 達 に な れ そ う で す わ ね 」
女が笑っていた。




