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3:シュルトルーズ家のファミリア:その9『禁断魔法ワルキューレ』

「見て、イゾルデ。『賢者の書』のライトドラゴンに新たなページが加筆されているわ」


 モニカの指さす白紙ページには、まるで炙り出しのように文字が浮かんできた。



 ライトドラゴンは、『鏡世界』から抜け出そうとする『善』がいれば、

 まずはここ『境界の部屋』で説得を試みる。

 そしてその説得に失敗した場合、

 隠された逆鱗を露わにし、思い出の全てを奪って『無明の牢』へ閉じ込める。

 最優のドラゴンの慈悲を拒絶する愚か者にも、このドラゴンはなお慈悲深い。

 それを受け入れ理解したとき、その者は知らぬ間に『鏡のシュルトルーズ』で、永遠に幸福な人生を歩むのだ。



「まだ、牢での反省が足りていませんでしたか? 二人とも」


 ぞくりと、モニカ姫とイゾルデが振り返ると、ライトドラゴンは泣き止んでいた。

 否、最初から泣いてなどいなかった。

 ただ、涙を溢して、『泣いている』を表現していただけ。

 彼女は感情を理解しても、感じられはしないのだ。

 心の造りが違う。

 モニカとイゾルデは飛び退くように距離を開けて、身構えた。

 『賢者の書』の記述に従うなら、既に自分たちは『無明の牢』というところに囚われていたことになる。


「覚えていないでしょうね。『分かりました。誓います。鏡の世界で幸せに暮らします』。二人とも、私にそう言ったんですよ。だから、あの美しいシュルトルーズの街に戻してあげたのに」


 ライトドラゴンが小首を傾げると、イゾルデとモニカは糸の切れた人形のように膝を折った。

 ああ、これも初めてじゃない。

 何度目なのか。

 あのときも思った。


『 も う 何 を や っ て も 無 駄 だ 』と。


 手足に力が入らないし、何も考えられない。

 心を折らないと誓い、そのヨスガとした国や仲間の記憶さえ溶けていく。

 そこへライトドラゴンが歩み寄ってきて、モニカ姫を優しく抱き締める。


「しー……。よしよし。良い子ねモニカ。大丈夫大丈夫。悪い夢を見ていたのよ。さ、お目目がしょぼしょぼ、してきたでしょ? 暗く静かなお部屋で眠りましょう」


 モニカ姫の意識は急速に薄れて消えた。

 いま自分が救い、繋ぎ止めようとしたものなど、この温もりに比べれば些細なことだった。

 イゾルデもまた、その小さな手に抱き寄せられる。

 彼女の髪から香る匂いは、疲れたときに眠るふかふかのベッドよりも心地よかった。


「よしよし、イゾルデちゃん。……お母さんがそばにいるからね。一緒に眠りましょう」


 ただでさえ瞼の重かったイゾルデは、額に優しい慈母のキスをされて眠ってしまった。

 こうしてまたモニカとイゾルデは記憶を失い、名前を失い、そして姿さえ失い、あの暗い牢屋に閉じ込められてしまうのだ。

 多くのシュルトルーズ家の者達と共に。

 そして、この二人が守ろうとした王と、その守護騎士と共に。


 ぴしり、ぱきぱき。


 ライトドラゴンは亀裂の音に振り返ると、壁に亀裂が走っていた。

 馬鹿なと目を見開く。ここを破る意思の力など、『名もない囚人』たちに残されているはずがない。

 ここ100年、そんな力を持った者などいなかった。

 いったい『無明の牢』で何が起きている。


「では、王陛下。存分に」


「いつも美味しいところをもらって悪いな、ハイペリオン。……ぜやああ!!」


 雄たけび一閃、壁が粉々に砕け散る。

 石牢を模した『境界の部屋』が砕かれて、

 それが覆い隠していた残酷な真実の世界が露わになる。

 狂ったアイスドラゴンの魔法で凍り付いた大地、

 そしてそれを待たず争いで死に絶えたシュルトルーズの民たち。

 なお、そこで悪鬼羅刹のように戦い、そして無残に死んでいったエマ、サッコ。

 まだ辛うじて自我を保っていたエマが飛ばした伝書鳩、それに駆け付けた末に殺されたレイヴン。

 それでもなお、

 全ての者達がイゾルデの残した死霊術でアンデッドに変わり果て、這いまわっていた。

 真実のシュルトルーズの地は、まるであらゆる地獄を凝縮したような惨状に変わり果てていたのだ。

 そして、そこに降り立ったのが『鏡世界』の見せる偽りの幸福を良しとせず、

 ライトドラゴンに抗い続け、そして自らの力で戻ってきたシュルトルーズ家の者達。

 そして彼らを扇動した王マーカスと守護騎士ハイペリオンだった。

 真実を目の当たりにして悲鳴や慟哭の声があがった。

 妻を失った者、子を失った者、夫や親友、父や母、恋人を失った者。

 全ての記憶を取り戻した彼らは、その惨状に絶望の声をあげていた。

 『悪』しか残らなかった人間の末路は、破滅だったのだ。

 マーカスは目を閉じて拳を握りしめ、ハイペリオンもまた瞑目した。

 銘々に絶望を表現している彼らに、ライトドラゴンはまた小首を傾げた。


「分からない。人間はこうなってしまう生き物だから、悪いものを捨てさせて、良いものだけを取り出して、幸せな世界に連れてきてあげたのに。本当に可哀そう。でも、私の魔法を破るなんてすごいわ。ねえ、王様。王様ってすごいのね」


 ライトドラゴンに問われて、マーカスは目を開けた。


「ライトドラゴンよ。お前は憐れだ」


「憐れ?」


「ああ、憐れだ。人々の幸福を理解しながら、しかし一人の幸福を感じられないのだ。俺もそうだったから分かる。為政者はいつしか民が一人の集まりであることを忘れ、民を一個の巨大な生き物として接してしまう。民という巨大な生き物を、権力と武力で飼いならすことこそ、王者の責務だと。だが俺は、自分がそんな怪物になることを恐れて『王殺しの法』を定めた。王を殺すのには、人一人がナイフ一つを持てば足りることを忘れず、戒めるためにな。俺が『一人の幸福を忘れた怪物になった時、殺せ』と」


 そのとき、ライトドラゴンの口元が三日月のように歪んだ。


「そう。そして貴方は……」


 自 分 の 定 め た 法 に よ り、

 守 護 を 受 け る べ き 騎 士 に 殺 さ れ た わ。

 こ れ が 貴 方 の 望 ん だ 世 界 な の?

 

 それはライトドラゴンによる魔法なのか、

 中空に波打つように出現した巨大な鏡には、鮮血に染まった玉座の間が投影されている。

 そこで倒れ伏している血染めのマーカス、その背中より醜悪な顔で剣を引き抜くハイペリオン。

 皆の知る英雄二人の惨状が見せつけられ、そこら中で悲鳴があがった。

 俯くハイペリオンは言葉もなく震えている。

 如何に自分の『悪』の部分のみがそこに残されたとは言え、しかし自身の内にこのように醜悪な野心が眠っていたことは否定したかった。

 たとえ悪であれ、己は今でも王を守っていると信じたかったのだ。


 ――俺が……守護騎士キングズ・キーパーから、王殺し、キングスレイヤーに。


 だがしかし、これに王は笑って答えた。


「いいや、俺ではない。これはお前が望んだ世界だ。ライトドラゴン」


「私が? 言っていることがおかしいわ。私はこんな世界や争いが嫌で、皆を助けたくて、幸せにしたくて『鏡世界』を造って皆を閉じ込めたのよ。聞き分けのない子は『無明の牢』に閉じ込めて反省もさせてあげたわ。幸せの国を築いて、幸福に治めたわ』


 王は「治めるだと」と大笑いした。


「お前は『助けたいものだけを助けて引き込もった』だけだ。何も治めて等いない。気に入らぬものを『悪』と断じ、それを拒絶した。その区別が何を生むかを教えてやる。お前の大嫌いな争いだ。戦乱だ。……俺が真の王とは何かを教えてやろう。助けたくない者をも助け、敵を敵と認めたまま和解し、共存せしめる者だ。でなくては統一も支配も叶わん。ライトドラゴン、お前は世界を支配する器ではない。せいぜいで小国の主だ。俺がこれまでに滅ぼしてきた小国の主と大して変わらん。だが、奴らでさえも人の幸福とは何かを感じていた。だから」


 お 前 は 憐 れ な の だ 。


「私だって人の幸福ぐらい分かるわ。だから『善』だけを選びとってあげたのよ? そんな簡単なことも分からないの?」


「『何かを選ぶ』ことは『他を捨てる』ことだ」


「そうよ。私は『善』を選んで、『悪』を捨てたわ」


「捨てた『悪』は何処に行く? 消えはせんぞ」


 ライトドラゴンは言葉を詰まらせた。


「人から悪は消えん。治めるしかない。人はその善の心で悪の心を治めてきたのだ。そしてお前の取り上げた『善』こそが、人を治める『真の王』だ。お前は人が幸福に暮らすための『真の王』を悉く取り上げ、最も惨い戦乱を世界にもたらしたのだ」


 憐れなライトドラゴンよ。

 お前ほど、

 幸 福 か ら 遠 い モ ノ を 見 た こ と が な い 。


 その言葉は、ライトドラゴンに秘め隠された『逆鱗』へ触れてしまった。

 すぅ、と。彼女の瞳から艶が失われる。


「……今日知りました。私でも救えない人がいるのですね。ここにいるのはマーカス、貴方の『善』です。なのにこうまで私に反逆してしまう。救いがたいわ。……仮にこのまま元の世界に戻っても、もう生きていないと言うのに」


「虜囚の辱めは受けん。お前を滅ぼした後、ここににいる新王ハイペリオンが統治する新たな王国を、地獄の底から見物するのが楽しみだ」


 マーカスはそう言うと、戦乱では常に共にあった巨剣を思い浮かべた。


「選択の時だ、シュルトルーズ家の民たちよ。お前たちの善なる心を閉じ込め、偽りの幸福をささやき、そしてお前たちの国を滅ぼした悪竜がここにいる。戦って勝利しても、待ち受けるのは絶望だ。しかしこの先より起きる同じ悲劇を止めることができる。残酷な勝利を求める者は心で剣を取れ。甘美な敗北を受け入れる者は引き返せ。俺は……」


 命よりも大事な配下を辱め、

 そして殺したお前を許さん。


「ここに王マーカス・ブレッドリーの名の下、光のドラゴンを反逆者として処刑する」


 マーカスの手に、巨剣『オーガスラッシュ』が現れた。


「王陛下。忠心が足りずに王の守護者『キングズキーパー』足り得ず、愚かな王殺し『キングスレイヤー』へと堕ちたこのハイペリオンも、いまは末席にお加えください。勝利の暁には如何様な裁きもお受けします」


 ハイペリオンの手には淡い緑に艶めく刃、『キングズ・キーパー』が握られていた。


「俺の法の体現者こそ新王に相応しいではないか。剣の腕は錆びておらんだろうな?」


 この二人に導かれるように、皆の手に手に思い出の武器が現れ始める。


「シュルトルーズ家のロイヤルガード! アイザック以下30名! 戦王マーカスに加勢します!」


「同じく衛兵50名! 加勢します!」


「オールドブラザーズ傭兵団20人だ。手を貸してやる」


「俺もやるぞ!」


「私も!」


 兵士や傭兵だけでなく、大工や職人迄が仕事道具を手に手にマーカスの後ろに続いた。


「……悲しいお姉さんに殺された僕、ロベルト。王様と一緒に戦う」


 消えたものは一人もいなかった。

 皆が勝利の果てにある絶望を理解した上で、武器を取った。

 その様を目の当たりにして、ライトドラゴンの胸に初めて生じた炎があった。

 どす黒く、赤く、熱く、形容しがたい熱。

 明瞭だった思考を妨げ、自分が忌避してきた『負の衝動』に、任せてしまいたくなる。

 ライトドラゴンはこれが逆鱗だと、怒りだと理解できなかった。

 瞳の色がより深い緑色の明かりを放ち、放散される魔力の奔流を受けて金色の髪が波のようにざわめく。

 マーカスは『それ』が放たれた瞬間に全てが終わると理解し、


「突撃!」


 と怒号をあげて斬りかかった。

 マーカスとハイペリオン以下、総勢2千にもなる者達が雄たけびを上げてライトドラゴンへと殺到する。

 そして、あれほど幸福にしたかった人々に、

 もっとも忌避していた戦乱の刃を向けられたドラゴンは、

 ついに『逆鱗に触れられた』と理解した。


「そう。ならば、滅びなさい」


 人間(はいきぶつ)ども。


 指先より放たれたのは緑の発光直線。

 それが殺到する2千の挙兵を一文字に舐めた直後、

 切り裂かれた大地から緑色の発光が煌めき、

 直後、天まで届くようなエメラルドの爆炎が吹きあがった。

 マーカスを含めた2千は影まで蒸発し、跡形もなく消え去った。



 ワルキューレ:光の禁断魔法。

 指先から濃縮した『太陽』を放って大地を切り裂く。

 世界に豊穣をもたらす太陽を怒りに任せて振るえば、

 大地は溶け、星空を焦がすような緑炎が天まで吹き上がる。

 もしも『鏡世界』の外で振るったなら、

 生き残った賢者が為すべきは大陸地図の書き換えである。



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