3:シュルトルーズ家のファミリア:その5『ダリアとマルスの死』
マルスとダリアが会話で盛り上がっていると、
「うるさいな。静かに眠らせてくれ」
と寝起きのような声がした。
びくっと、マルスとダリアは肩を震わせて驚く。
しかし、この暗がりに二人だけではなかったという事実を理解した瞬間、
興奮が身体を駆け上がってきた。
「ほ、他に誰かいらっしゃいますの!? ねえ、教えて! あなたはどなたなの!? ここはどこですの!?」
ダリアは興奮から思わず声をあげてしまっていた。
「もう、うるさいって言ってるじゃないか。……そうだよ。俺やあんたたちだけじゃなくて、ここには他にも大勢いるよ。大勢。……はぁ。もうずっと昔からな。いや、もう、『俺』かどうかも分からないけど」
聞き捨てならない情報が二つもあった。
一つは、ダリアやマルスのように闇に閉じ込められた人間が近くに『大勢いる』ということ。
もう一つは、そんな彼らは『ずっと昔からここにいる』ということだ。
マルスはそれを理解した瞬間、背筋が寒くなるのを感じた。
――なら、どうして皆、黙って大人しくしているんだ?
脳裏を過った絶望的な可能性を、しかしマルスは頭を振って否定する。
深呼吸して心を落ち着けた。
それが何を意味するかを分析することは大事だが、早合点をして絶望してはならない。
もっと具体的に知ることこそが脱出のカギに違いないと、前向きな心を捨てなかった。
だから、マルスは端的に尋ねる。
「大勢って、何人ぐらいですか? 昔って、何日ぐらい前ですか? そして、どうして皆は助けを求めないのですか?」
舌打ちが返ってきた。
「そんなの分からないよ。大勢は大勢だよ。昔も昔だ。……それに、皆、出たくないんだよ。もう何をやっても無駄だから。だから皆ここにいるんだろう。それだけはなぜか分かるんだよ。……はぁ、もう寝る」
「ま、待ってくださいまし! もう少しだけお話を! お願い! お願いですわ!」
ダリアは叫んだが、しかし、もう声は聞こえてこなかった。
マルスとダリアはまた、大きな謎を抱えてしまった。
ここには自分達二人だけではない、
その言葉には微かな希望の光が見えたのに、
いまの話を聞いてより深い絶望に苛まれてしまった気がした。
人数は分からないながらも、
ここには大勢と言えるだけの人達がいて、
なのに皆、帰ることを諦めてしまっているからだ。
――もう何をやっても無駄だから。
その言葉が重たくのしかかる。
もしかしたら、自分達もやがてそんな風に絶望して、闇の中で沈黙してしまうかも知れない。
あるいはここにいるという大勢の人達も、
かつてはマルスやダリアのように希望を捨てず、
互いに励まし合いをしていた人達だったとしたらどうだ。
いつか助かると信じた末に絶望し、闇での眠りを選んでしまった人達だったとしたら。
ダリアはそれが恐ろしくなった。
「……僕はここを出る」
マルスだった。
「そんな意思を放棄したような生き方、僕は認めない」
マルスが力強く再度言った。
「いや、僕だけじゃない。僕は皆を連れてここから出て行く。たとえ残りたいと願う者さえも一度は外に連れ出して、外の世界をその目で見せ、そしてその上で残りたいのなら残ってもらう」
この状況下でそう言えるマルスの心強さを、
ダリアは頼もしいと勇気づけられる部分があった。
しかしその反面、少し意地になっていないかとも心配になった。
「マルスくん、頼もしいお言葉ですけれど、まずはその方法を見つけなくてはなりませんわよ。先ほどもお話し合いしましたように、いたずらな行動は危険を呼び、そして体力の」
「大丈夫だよダリア。――俺には、んんん、僕は……」
そ れ が 出 来 る っ て こ と を 思 い 出 し た。
ダリアは鳥肌が立った。
理由は分からない。
しかしこの瞬間に、マルスが何者かに変じたことを直感で知ったのだ。
今更気付いたことだが、マルスの言葉には心を震わす強さと、同時に心を惹きつけるカリスマがある。
その理由もまた分からない。
しかしもし、その理由を知ることができれば、マルスが一体、何者なのかをを知ることができるかもしれないと、ダリアは思った。
そして実際、かすかなざわめきが、周囲の至る所から聞こえてきたのだ。
「誰だ」「なんの騒ぎ?」「ねえ今の誰なの?」
そんなざわめきに応えるかのように、
マルスの声はより力強く、
そしてより人を惹きつけるものに変わっていく。
「名も知らないみんな」
僕 は マ ル ス だ。
もはや別人だと、ダリアは絶句した。
この一声はそれほどまでに力強く、威厳に満ちていたのだ。
そしてその得体の知れない力に扇動されたのか、さらにざわめきが大きくなる。
どうして名前が分かるのか、とか。
どうやって名前を知ったのか、とか。
皆が心底不思議がっている様子が伝わってきた。
誰もがマルスの言葉を聞き流さず、真正面から受け止めている。
まるでそれは、賢者からの予言を仰ぐ信者のようとさえ感じられた。
そして、マルスはそれに答えるべく、全てに心から伝えるべくいっそうに声を張り上げる。
「僕は先ほどまで何者でもなかった! みんなと同じで、何も変わらない! でも、いま自分の意思で僕はマルスとなった! だから僕はマルスだ! 君たちも『自分が誰か分からない』なんて理由で自分を諦めてはいけない! 自分のことは自分で決めてきたはずなんだ! ならばここで決めるんだ! 君たちは何者だ!? 君たちはそれを決めて、いま名乗るんだ!」
再びしんとなった。
マルスの檄に自失するほどのショックを受けたのか、
それとも突拍子がなさ過ぎて唖然としているのか、
それは当のマルス自身には分からない。
しかしダリアには分かる。
胸に広がり、込み上げてくる衝動があるのだ。
生きたいと思う力。私は私なのだという、忘れてしまっていた当然の自己肯定。
それを取り戻したダリアは、それに突き動かされるままに叫んだ。
「私はダリアよ! 今からダリア! そう決めたの!」
ひときわ大きな声で叫び、そして皆にも語り掛けるように続ける。
「私はここから出て行きますわ! そして外の世界を知るの! そのときダリアとして外の世界で生きていくかは分からない! でも、外の世界を見ないで生き方を決めたくはありませんわ! マルス! 私は貴方についていく!」
それが引き金になった。
「俺はガイアス!」「あたしローズよ!」「ぼくは、ぼくはパルマ!」「わしはジャックだぜ!」
皆が口々に自らの名前を決めて、それを名乗り始めた。
そして皆が出たいと心から叫んでいた。
そしてそれはドミノ倒しか、雪崩か、はたまた津波か。
名乗りは暗闇の中を次々に波及していき、怒涛の勢いで駆け抜けていった。
その熱量は途方もないものだとダリアは圧倒されて腰を抜かす。
自分がもしもこんなことを仕出かしてしまったら、
きっとその熱量を受け止めきれずに耳を塞ぎ、
隠れてしまうかもしれないと。
なのに、マルスは全く動じていないように感じられた。
むしろ、もっと大きな熱量さえも背負い、受けて止めてしまうような力強さを感じられた。
――本当に、マルスくんは誰なのかしら?
ダリアは思った。
自分の事よりも、そのことが気になってしまった。
マルスは続ける。
「よくやった! 君たちはいま確かに生まれたのだ! しかもそれは自分の意思でだ! なら今度は、その姿を確かめよう!」
「どうやって?」「何も見えないのよ?」「無茶だそんなの」
再び広がる動揺の波に、マルスは「大丈夫だ!」と、弱気を捻り潰すように答えた。
自 分 の 身 体 を 触 る ん だ !
「手のある者は自分を抱き締めろ! ないなら舐めてでもいい! とにかく自分の身体を感じるんだ! 胸はあるか!? 髪はあるか!? 長いか!? 自分を知るんだ!」
周囲でまたざわめきの波が広がった。
「え、あたし男!?」
「うわ、俺、胸がある!」
「やった私おんな!」
「うう、そんな、僕にヒゲがあるなんて」
マルスはしまったと思ったが、しかし気弱な声を聞いて、吠えたのはダリアだった。
「聞いてくださいませ皆!」
私 ダ リ ア の 股 間 に は
『竿』 が あ り ま し た わ !
しん、となった。
「顎をさするとチクチクしますの! でもね、わたくしはダリアですわよ! 他の誰がなんと言いましても! そう決めましたもの! 自分のことは自分で決めるって! 外に出て股間の竿が煩わしいと感じたら、そんなの取っちゃえばいいんですわ! メソメソしてたら、そんなこともできないじゃありませんこと!? 今の自分がもしも嫌いなら、外に出て変えたらいいじゃありませんの!?」
マルスもまた、自分が思ったより体格が良いことに気付いていた。
そしてダリアに励まされて、マルスはいっそう声高らかに叫ぶ。
「ダリアの言うとおりだ! 自分の姿形を知って歓喜したなら愛してやれ! 失望したなら、愛せるように変わっていけ! 生まれたばかりの自分をここで殺すな! 皆、外に出るぞ!」
大歓声があがった。
そして、その歓声の音が一瞬、ダリアに遠い記憶を呼び覚ました。
兵士の勝鬨だ。
手にした剣や槍を掲げ、
喉が潰れる程の大音声を、
勝利の喜びに震えながら叫びあげる。
そして遥か前方にはそれを、一身に受け止める覇者の姿。
鬼を模した鎧をまとい、戦斧よりも大きな巨剣を担いだ赤き戦場のカリスマ。
そう、ずっとその背中を追いかけてきた。
ずっと、ずっと。
死に物狂いで戦乱を駆け抜け、生死を掻い潜り、
そのたびに、遠かった背中はどんどん近くなった。
津波のように膨大な兵士の軍団の前へ、前へ。
前へ。
幾つもの戦乱を乗り越えて、そして、ついには目の前で、跪けるほどに。
「……王陛下」
と。
「ダリア、否、我が守護騎士ハイペリオン。よくぞ戻った。ま、ワシもつい先ほどだがな」
マルス、改め、マーカスは笑った。
同時、まるでこの大音量の津波に圧倒されるかのように、
暗闇の世界に亀裂が入り、光が差し込んで来た。




