2:ヴァニーユ家の白魔法:その11『アリアドネのモニカ』
「では、改めて。無事に帰って来い。三人ともだ。お前たちは王国の至宝。死ぬことはならんぞ……。ん? なんだエマよ?」
我に返ったエマは周囲を見渡す。
エイリスとイゾルデ、サー・ハイペリオンやマイスター・レイヴンたちも、自分を見ている。
気付けば、何かに怯えるように頭を抱え、しゃがみ込んでいた。
「あの……その」
と、エマは慌てて立ち上がる。
酷い醜態をさらしたと恥ずかしさで顔から火が出そうになった。
「待って。ねえ、エマ。よく目を見せて」
立ち上がって近付いてきたのはモニカ姫だった。何か様子がおかしいと。
まるで医者が患者の目を覗き込むかのように、鼻先が触れる程の距離でエマは覗き込まれる。
「……陛下。エマ殿はいたって健康です。体調管理は常にマイスター・レイヴンが気を配っています」
「そうね。健康には何も問題はないわ。何も。でも何かが隠されている。……恐怖。絶望。憎悪。本人でさえ気付けない。意識の奥に、魂の奥に刻み込まれた感情……。私はこの目を知っている」
モニカ姫は顔をひくと、皆を振り向いて言った。
「エマは記憶を失っているわ。それも何度も。繰り返し酷い目にあって、殺されて、絶望し、後悔し、憎悪し、それでもそれを覚えていられない。……これはリヴァイアサンの毒とは無関係よ」
評議会がざわめく。
モニカ姫の突然の発言にエマは混乱したが、そのまま彼女に抱き締められてしまった。
「本当に……可哀そうに。とても辛かったわね。でも、もう大丈夫だから。ね」
照れくさくなって
「大丈夫です陛下」
とエマは離れようとしたが、
しかし、何故か彼女に言われた言葉が胸に響き、
それを境に湧き出る涙がとめられなくなってきた。
「ちょっと、待ってやだ」
と慌てて涙を拭うが、ボロボロボロボロと涙が溢れて来て、
「泣いていいのよエマ。大丈夫だから」
と髪を撫でられると、ついには人目もはばからず泣きじゃくってしまった。
「うううう……ひっぐ。……ううう。ううう。うえっうえ。エイリスが……ううう。ひっぐ。うううう。イゾ……ルデが……ううう。あああ。ふうう……うえうえ」
理由は分からない。
原因も分からない。
なぜ二人の名前が出たのかも分からない。
ただ何か、心の奥底に封じられていた枷を外され、そこに温もりと光を当てられた気がしたのだ。
モニカ姫は静かにエマを離すと、
エイリスがその涙をぬぐい、
イゾルデが背中を擦る。
そんな彼女たちに微笑んでから、モニカ姫は王に振り返った。
「父上。私もエマたちと共にヴァニーユ家へ向かいます。これは剣と魔法による戦いではなく、権謀と術数による罠です。特に今回は不運の噛み合いが強く、こればかりは騎士やドラゴンでも抜け出せません」
評議会がどよめいた。
モニカ姫はマーカスの血統を受け継ぐ、いまやただ一人の後継者なのだ。
命の危険がある場所に向かうなど王家存続に関わる。
もってのほかだった。
当然のように王は眉間に皺を寄せたが、何か言葉を発する前に、モニカ姫の目が一瞬、刃のように鋭くなった。
それを見逃さなかった王マーカスは沈黙し、それから「やれやれ」と笑った。
「王国の姫ではなく、密告者の長『アリアドネのモニカ』が向かうと言うのか。ヴァニーユ家は新たな災厄に見舞われるかもしれんな。加減を忘れるなよ。ヴァニーユ家は忠義に厚い」
「王陛下。人聞きの悪いことです。ヴァニーユ家の忠誠はこのモニカも疑っておりません。献上品の金貨は純度が高く、キングズ・キーパーの叙任式に向かう船で王への侮辱的な言葉は衛兵2人から三度しか聞いていません。もっとも彼らは不運なことに道中で落馬して絶命してしまいましたが。そんな彼らだからこそ、褒美として身中の虫を焼いて差し上げます」
ぽかんとしているエマに、エイリスが耳打ちする。
「妻よ。アイツ、たぶん下手なドラゴンよりやっかいだぞ」




