2:ヴァニーユ家の白魔法:その3『シードラゴンの脅威』
「エマちん、無課金は『アイヴォリー家の謀叛』で振り落とされるけど、微課金が振るい落とされるのが次の『ヴァニーユ家の白魔法』なんだ。だいたい海で死ぬ」
「ううう、2章でまた選別されるなんて。サッコも先に進めないの?」
「んんん、バイト代ぶっ放して辛うじてクリアしたよ」
「ええ……。大いなる海ってそんなに超えるのキツいんだね」
「微課金で買えるガレオン船だとすぐ沈むからね。でも、本番はその先。十中八九、アイツに騙されて死ぬ」
*
大陸の空を三種類の絶叫がかけていく。
それは『どん』、という衝撃を伴って飛翔する氷の大魔法『アイスドラゴン』に騎乗した、エマ、エイリス、イゾルデ三名のものだった。
エマは悲鳴をあげ、
エイリスは歓声をあげ、
イゾルデは泣き笑いのように叫んでいる。
「やめてエイリス! やめて! その回転ダメ!!」
「おおおおおね、おねおね、お姉さまひひひひあああ!!」
「はっはっはっは! お前たちにそんな喜ばれたら私も張り切ってしまうじゃないか! ようし! あの雲を抜けたらスプリットSを見せてやるぞ! ほら加速だドラゴン!」
どん、とさらに速度をあげる氷竜に、
もはや三人の絶叫はかき消された。
凄まじい風圧でイゾルデの顔もエマの顔もしっかりと変顔になっていたが、お互い笑っている余裕はなかった。
必死にエイリスにしがみつきながら、エマは目を閉じる。
このままだと大いなる海へ辿り着く前に死んでしまうのではないか。
この速度なら振り落とされなくても、乗っているだけでバターがチーズになってしまう気がした。
と、徐々に速度が落ち始め、
風は緩やかになり、
身体に陽光の温もりを感じられるまでになった。
「見て見ろエマ、イゾルデ。なかなかどうして美しいぞ」
言われて恐る恐ると目を開けると、絶景が広がっていた。
眼下にはサファイヤのように青く美しい大海原が広がり、
天上には、それに負けず劣らず爽やかな青空と、
それを彩るような虹色の雲がどこまでも美しく彩っていた。
エマもイゾルデも、思わずため息をついてしまう。
こんな世界、現実では一度も見たことがなかった。
「……すごい。綺麗……」
「まるで宝石のようですわ」
口をついた感想はどれも大袈裟ではなかった。
つい本来の目的を忘れそうになってしまいそうで、エマは頭を振った。
気合を入れなくては、ここから先はシードラゴンの塒なのだ。
ここを船で渡るには乙女の生贄が必要だとモニカ姫は言っていた。
ならば空だとエイリスは言ったが、本当にそんな簡単な方法でうまく行くのか。
何事もなく海を超えられたら、それに越したことはないのだが。
「……来ましたわね」
イゾルデが不気味に囁いた時、エマは世界に異変を感じた。
緊張で喉が鳴る。
シードラゴン――海の竜。
その名前をヒントに、異変の正体を海に求めて目を皿のように開いたが、美しい海におかしなものは見えない。
否、シードラゴンというからには、もしかすると海深くに潜り込んでいるのか。
「エマ、ヤツは上だ」「……え?」
顔をあげて、絶句した。
空が動いている。
青が蠢き、虹色の雲がとぐろを巻いている。
あまりに巨大で、そして擬態していて、そうと分からなかった。
まるで空そのものがこのドラゴンで出来ているかのように、
シードラゴンは途方もなく巨大だった。
そしてその出で立ちはむしろ、ドラゴンと言うより龍、否、空にとぐろを巻く巨大蛇だろうか。
飛翔していたアイスドラゴンはさらに速度を落とし、その場に留まるようホバリングのように羽ばたく。
「出迎えご苦労だな。シードラゴン。私はアイスドラゴンだ。彼女が妻のエマ。そして、後ろにいるのが妹のブラックドラゴンだ。故あって今は王国に肩入れしている。単刀直入に聞くが、お前はヴァニーユ家が海を渡るたびに生贄を求めるそうではないか。ドラゴンは生ける災厄だ。だから起きる災厄には理由があり、意思がある。彼らがお前のどんな逆鱗を踏んでいるのか、話してくれないか?」
シードラゴンと呼ばれたそれは問いに答えず、ただエイリスたちを蛇のように凝視している。
そして、この沈黙に黙っていないのは、もちろん彼女を無視されて不機嫌な『妹』だった。
「思っていたよりも礼儀知らずですわね、この愚竜は」
と口を開いた時、海におぼろげな霧が生じ始める。
否、霧ではない。
どす黒いこれは死霊術を示す瘴気だ。
程なく眼下の海ではザバン、ザバンと波しぶきをたてて、彼女の『お人形ゴッコ』の幕が開く。
海底より次々と浮上してくるのは、かつてこの海で幾度となく沈められてきたガレオン船の数々、そしてそれを操舵していた元船員・船長たちだ。
ザバン、ザバン、ザバンと、それらは広大な海全てに波及していくかのように、古今の沈没船たちがブラックドラゴンの呼びかけに応じて浮上していく。
そして砲のある船はそれを、バリスタのある船はそれを、火竜のある船はそれを、シードラゴンへ向けていく。
「エマ。……味方で良かったぞイゾルデが」
苦笑しているエイリスに、仰る通りと思った。
そうこうする間に、幽霊船による大艦隊が出現したのだ。
並の死霊術師なら、否、ゲームに多くの課金をしたプレイヤーでも幽霊船の召喚と操作など、せいぜいで3隻が限界だろう。
それがゆうに100はいる。
この能力と規模、その気になれば世界の海を支配できるに違いない。
『死者の書』がなくとも、イゾルデはやはりドラゴンなのだ。
つくずく敵に回したくないと、エマは震えた。
「質問に答えなさい。シードラゴン。嫌ならあなたも私の『お人形』にして、聞き分け良くしてさしあげますわよ?」
微かにシードラゴンが笑ったように見えたが、しかし確かにその口は言った。
――愚かものどもめ、と。
それがイゾルデの逆鱗に触れた。
瞳が赤く灯ると、その口が引きつるように笑った。
始まったのは大艦隊による一斉射撃だった。
晴れ渡り澄み切った空が、弾幕で暗転するほどの攻撃が始まる。
ダダダダダダっと、まるでナイアガラのような瀑布に頭から突っ込んでしまったかのように、凄まじい轟音と衝撃に包まれた。
空のシードラゴンなどとうに原型を留めていない。
まさに数の暴力だった。
イゾルデは『撃ち方やめ』とばかりに、手をあげると砲撃がやんだ。
エマは信じられなかった。
イゾルデの行使した圧倒的な制圧力もそうだが、それよりもシードラゴンが無傷なことがだ。
彼女には見えている。異世界の人間が使いうる『メニュー画面』から、現状が。
――うそでしょ。こんなの、……反則じゃない
*
シードラゴン(仮称)
HP:∞(無限大)。
解説:大いなる海に挑むものを恐れさせる、
ヴァニーユ家の災厄。巨大なその姿は水のウロコによって、あらゆる物理攻撃を吸収する。
それはちょうど、水面に投げ入れた石が、水面を破壊できないように。
*
空のシードラゴンはまさに、石を投じられて乱れた水面が時と共にもとに戻っていくのと同じように、その姿をゆらゆらと戻していった。
イゾルデは「クソが」と舌打ちする。
「エイリス、イゾルデちゃん。このドラゴンには物理攻撃がききません。まるで水に投げた石のように全て吸収されてしまいます」
直後、シードラゴンが口をかすかに開いたのが見えた。
何か来る、と思う間もなく「つかまれ!」とエイリスが叫んだ。
アイスドラゴンが急上昇し、そして一瞬前に自分たちのいたところに水圧カッターのような水の線が通過した。
その威力はかのモーセが海を割るかのようで、斜線上にいたガレオン船はきれいに真っ二つにされた。
それを境に、海の災厄から反撃が始まった。
高圧力の水の線は口からだけでなく、シードラゴンの全身から次々と、まるで流星群のように放たれ始めた。
「癪にさわるやつめ!」
三人を乗せたアイスドラゴンは、エイリスの的確な操竜でそれらを次々と回避している。
イゾルデは必死に捕まりつつも、眼下の幽霊艦隊がなすすべもなく沈められていく様子を見ながら、無念そうに口を開いた。
「ぬぐぐ、これと『艦隊ゴッコ』では相性が悪そうですわ。お姉さまいかがでしょうか?」
操竜に必死と思われたエイリスだったが、しかし彼女は老獪な魔女のように笑っていた。
「そうだな。さすがは私の妻と言うべきだろうな。王が最高顧問に任じるのも頷ける。『いかが』といったなイゾルデよ。答えてやろう。……見るがいい」
エイリスが指を鳴らすと、アイスドラゴン直下の海を中心として、巨大にしても巨大な魔法陣が水平線の彼方まで駆け抜けていった。
次に起きる異変を知る前に、エマもイゾルデも鳥肌が止まらなくなった。
何なのだこの規模は、何が起きるのかと。
「世界を凍らせるのはそう難しくないが、『海だけに加減』してやるのは少々コツがいるのだ。生ける災厄にも格があることを教育してやる。水は氷に服従するものだと」
なにか怖いことを言っている。
ばきばきばきばき、と魔方陣の中心から霜が駆け抜けていく。
まるで美しい結晶を描くようだ。冗談でなく海が凍り始めているのだ。
エマは凍てついていく海に目を奪われていたが、エイリスだけは空の竜を見ている。
「シードラゴン、海の竜よ。その水のウロコが、もしも海で出来ているなら……お前の身体とて例外ではないぞ?」
いつの間にか、水圧カッターの攻撃はやんでいた。
そして空で美しく波打っていたシードラゴンの身体が、明らかに自由を失っている。
凍り始めているのだ。
そしてもし身体が凍ってしまえば、イゾルデの攻撃を水のように吸収することはできないはず。今ならやれるとエマは拳を固めた。
「……うかつ……でした」
イゾルデが呟いたかと思うと、フラリと脱力してアイスドラゴンから落下した。
エイリスは咄嗟に
「イゾルデ!」
と叫ぶとアイスドラゴンを急降下させ、凍結した海面に墜落する直前に受け止める。
エマは何が起きたのた、と焦燥しながらイゾルデを抱き寄せる。
そして彼女を見て絶句した。
目や鼻、口から黒い血を溢れさせて、痙攣している。
ケッホ! ッケホ! と咽るような咳をするたび、
彼女は黒い血を顔の至る所から吐き出した。
「……ちゃん……。ね、さま。……これ……は」
「しゃべるなイゾルデ! くそ、どうしたんだ急に! 待ってろすぐに助けてやるから! 大丈夫だ!」
エイリスはそう声をかけているが、氷の魔女には何も打つ手がない。
ただ苦しそうに呻き、泣いている彼女を抱き締めることしかできない。
そしてしかし、イゾルデは濁ったその目をエマに向けると、
必死に口を二回動かして真相を伝えた。
――ど、く。
エマがそれを『毒』と理解した時、食道を黒い熱が駆け上がってきた。
なんだと思う間もなく「げっほ!」とむせると、
手のひらに真っ黒な血が飛び散った。
茫然自失で手を見つめるエマを
「……ウソだろエマ……。エマ!」
とエイリスが叫ぶ。
私は大丈夫と応えるはずが、
エマは自身の吐き出す黒い血にむせるばかりで、何も言えなかった。
そして吐き出すたびに命も吐き出しているような心地がして、
どんどん思考も麻痺していった。
黒く濁った視界ではエイリスが泣き叫んでいて、
その奥では、凍った海がまた水へと溶けていく様子が見えた。
ああ、ダメだよエイリス。
と思った時、目の前を通過した水圧カッター。
ごろりとエイリスの首が落ちる様子がエマの瞳に映ったが、
もはや彼女には何も見えていなかった。