敗残兵
「すいません。この近くに本屋はありませんか?」
落ち着いた口調で声をかけられた。だが、雑踏の中で声をかけられたくない人物だったので無視したかった。
「え?」
とりあえず、俺は声をかけられた事実を認めたくなかった。そしたら、そいつはまた言ってきた。吐く息が白い。
「すいません。この近くに本屋はありませんか?古本屋でもいいので。」
本当に空気が読めない奴だ。
「そうですね、そこの道を真っすぐ行くと駅ビルがあるから、そん中に本屋が入ってますよ。」
つい、そいつの丁寧口調にこっちまで丁寧な口調になってしまう。我ながら気持ち悪い。
「どのくらい真っすぐですか?」
重ねて質問するな。早く行ってくれよ。
「通りを五、六本またげば着きますよ。それにここらは、道が碁盤だから。」
うう、足先が寒くなってきた。早く地下道に行かせてくれ。
「そうですか。とても助かりました。ありがとう御座います。」
そいつは、帽子の下でにこりと笑い、軽い会釈をした。
「どういたしまして。」
もう付き合う義理はない。俺は早足で手近な昇降口から地下道に降りて行った。
「何だあれ?」
自分の口から疑問とも苛立ちとも言えない言葉が出た。
まず、『本屋の奴』は格好がおかしかった。はっきり言って、どこかの敗残兵みたいな格好だった。
濃い緑色の頑丈そうなロングコート、それにたすき掛けに革製のポーチを吊るしていた。コートに色を合わせたのか旧式の兵隊がかぶるような緑の帽子をかぶり、紺色の毛糸のマフラーを首に巻いていた。
そして極めつけは、背中に背負った重そうな荷物だった。なので戦後すぐなら、
「どこから帰還したんですか?」
と聞かれるであろう格好だった。はっきり言って、たちの悪い冗談だ。あいつは、顔を見る限りじゃあ、俺らと同年代だ。あれは幽霊か?
しかも、そいつが『本屋はどこですかと?』と尋ねてきたのは意外であったし、目立ちたくなかったのであまり相手にしたくなかった。
考え事をしていても自分の足は普段の習慣通りに俺を目的地に運んでくれた。さすが地下道だ、寒くない。
ここらの地方は寒さと雪の対策から地下道が発展した。おかげで地上に出ずに何でも揃う。衣服、ゲームセンター、雑貨店、化粧品、文房具、しゃれた喫茶もある。もちろん、学生の味方であるジャンクフードのお店もある。
俺の足はそのジャンクフードのレジの前の列に自分の体を運んでくれた。このあと料金を前払いすれば、温かいゴミが食えるはずだ。
二分後には、出来たてのゴミを店内で俺は食っていた。
「うん、相変わらず不味い。」
店で一番安い品を俺はこき下ろす。まあ、銀色の硬貨一枚で買えるのだから味よりも中身がまともかどうか心配すべきなのだろうが、心配する気にはなれなかった。
それから、腹を満たし俺は自分の肩掛けカバンを引っつかんで地下鉄の駅に向かう。地下道よりも下を通っているので、さらに階段で下に降りる。
「さあ、いよいよだ。」
俺は興奮していた。警官に見つからないか、おっかなかったが、そんな事にはならなかった。鞄をポンポンと叩き中の感触に満足する。
もう、嫌になったのだ。学校も家族も、取り立てて嫌な事はない。だが、それが嫌だった。周りが自然と金型を用意していた。僕はその金型には入りにくい奴だった。すると、周りの奴らは、『それは間違っている』といってきやがった。間違っている?どっちが?知るかよ。んなこと?だったら、金型どおりにはまってやるよ。
すると、どおだろうか?周りは喜んだ。そのかわり自分は歪んだ。そして限界が訪れた。もう自分が死ぬ以外に楽になる方法はなかった。それを気がついたのは、どっかの誰かが教えてくれた。でも、それとは別に『周りを変える努力をするべきだ』という奴がいた。しかし、十七年もまともに物を考えずに生きてきたやつに、そんな方法は思いつかなかった。僕が出来た事は、そいつを黙らすことだけだった。今頃、僕の元友人は雪の中に埋もれて凍っているのだろう。おかげでいい練習が出来た。
僕は駅の改札を定期を使って通る。そしてプラットフォームに降りていく。いつものように、大量生産されたサラリーマンと没個性な同年代が駅構内を埋め尽くしていた。僕は生きてきて初めてこの光景を神に感謝した。信じてないけど。
僕もその群れの中に紛れ込んだ。そして肩掛け鞄のファスナーを開けて中の物を右手で取り出そうとした。
突然、横から人が雑踏の中から飛び出してきた。背丈がそれほど高くもないくせにぶつかった衝撃は意外と大きく、僕は尻もちをついた。タイル張りの駅構内なので尻の痛さと冷たさを感じた。そして、それらとは別のショックが僕を襲った。
「いやあ、すいません。」
あの敗残兵がこちらに手を伸ばしているのだ。相変わらず、馬鹿丁寧な口調でものを言ってきた。その目が僕の顔を見ていた。
僕は怖くなり、そいつの手を借りずに立ち上がった。そして、電車がちょうど来たので僕はそれに飛び乗った。幸い、電車はそこまで混んではいなかった。
列車に乗り、すぐに車窓から自分がいたあたりを見やる。敗残兵の姿はなかった。電車が動き出し僕は安堵した。
「それにしても、最近寒いですねえ。」
横から馬鹿丁寧な声が出てきたので、僕は動けなかった。そして、なにも返せなかった。視線も前に固定したまま話せない。
「これから、雪が降るそうですよ。」
この敗残兵は、かまわず喋ってくる。冬なのに僕は汗をかき始めた。
電車が駅に着いた途端に、僕の足は走りだしていた。
振り返らずに、灰色の空の下を走った。地面で凍った雪や氷で僕は何回も転んだが気にならなかった。
そして、僕のお気に入りの場所になって足は止まった、ズタボロだ。
僕のお気に入りの場所はL字型の建物の裏だ。建物が外界の視界を遮断し、特にこの時期は雪捨て場にしかならないこの場所には雪害対策の役人くらいしか近づかない。
荒くなった息がなかなか落ち着かない。肺が空気の寒さで痛くなってきた。最近運動してなかったからな。
「はあ。」
最後にため息にも似た息を吐き出した。目の前が息で真っ白になった。
「あいつは何だ?」
敗残兵は何で俺にかまうんだ?何でだ?俺が何しようとしてるか分かってるとか?
「そんなわけない。あいつは異常者なんだ。」
だんだん、体と頭が冷えて来て冷静になってきた。それどころか汗が冷えて気持ちが悪い。もう疲れた。今日はもうかえって寝る。あれ、雪が降ってたのか。どおりで寒いはずだ。
「また明日やればいい。」
そう俺は呟いた。
「あれ?諦めてくれないんですか?」
俺の後ろから声がかかった。俺はしなきゃいいのに、反射的に体ごと後ろ向いた。
「なんなんだよ、あんたは!」
敗残兵が立っていた。
「幽霊です。」
敗残兵が笑いながら答えた。そして、さらに続けた。
「だから幽霊になろうとしている人はすぐに分かるんです。あと幽霊を作ろうとしている人も。」
僕を黒い眼で敗残兵が覗き込んできた。敗残兵はやっぱり笑っている。
「ねえ、やめましょう。」
僕にそいつが語りかけてきた。こいつ、知ってるんだ。知ってるんだ。ここで黙らせないと。
「嘘つけ!それに俺が何をしようとしてるって言うんだ?」
悪あがきだ。敗残兵はこともなげに答えた。
「鞄の中を見れば一目瞭然だと思いますが?」
図星だ。その通りだ。嫌な汗が流れ、歯の根が震えて合わなくなった。僕は考えた。友人を黙らせたのもここだ。こいつも黙らせる。
「鞄?別に何も入っちゃいねーよ。」
喋りながら鞄に手を突っ込み、ガサガサと漁る。
「おかしいですね。持っているはずなんですけど。」
敗残兵は無防備に突っ立っている。距離は一メートル半。いける。
「あったよ!」
俺は右手を鞄から引き抜いた。手には必殺の拳銃だ。親が前に戦場から拾ってきたやつだ。そして俺が商品になるはずだった、それを十年前に盗んだ。どんなにせがんでも、親は俺にそれをくれなかった。ぼろぼろの中折れ式拳銃で、どうでもいいように放ってあった。だから盗った。十年かけて俺は銃を直していった。今ならまだ、戦争のときの弾だってわんさか売っている。パーツだってより好みさえしなければ物が売っているのだから。
その拳銃が敗残兵の向けられていく。だが、敗残兵は右手の先にはいなかった。俺の足元に体当たりをかましていた。そして俺と敗残兵は倒れた。俺は右手を敗残兵の頭に向けた。敗残兵は左腕を俺の右腕の下に入れて強制的に右腕を空に向かせた。そして同時に俺の体に馬乗りなり左腕の付け根に敗残兵の右足を乗せ左腕を動けなくし同時に破壊した。そしてトドメとばかりに銃をひったくられた。
敗残兵は背中の荷物と自身の体重で俺の左腕を破壊していた。そして、その重さが俺を拘束した。不思議と痛みはなかったが、焦りはあった。足をとにかくばたつかせる。しかし意味がない。
「幽霊になろうとした奴が、何を慌ててるんだい。」
敗残兵は笑っている。帽子の下で笑っている。敗残兵はもぎ取ったばかりの拳銃を僕に向けてきた。僕の頭だ。
「泣くか。」
そう言われて、初めて僕は泣いてる事に気がついた。そして何も言えなかった。敗残兵の人差し指が動いた。
意識がなくなる前に見たのは、目が笑っていない敗残兵と、空から落ちてくる雪だった。
「ああ、またしてしまいました。」
敗残兵は、動かなくなったジーンズにジャケットを着た若者を見ながら呟いた。そして、敗残兵は若者のジャケット漁る。右ポケットから携帯電話を見つけると、携帯を開き電話をかけ始めた。そして敗残兵は目的の番号を打ち込み終えると自分の耳もとに電話を持っていた。
「ああ、もしもし!わ、私、大変な事をしてしまったんです……。けが人が…」
声には焦りがあったが、敗残兵の顔には苦笑しかなかった。敗残兵は心の中で思った。
もうすぐ、救急車が来るなあ。
「いきなり、襲われたんです。ええ、はい…。場所は…」
雪がしんしんと二人に降りかかって周りを白く染め上げていく。
相変わらず訳のわからない話で、すいません。