Happy wedding, my dear
初めて出会ったとき、こんなに素敵な人が世の中にいたのかと驚いた。
ふわふわした髪、かわいい笑顔、鈴を転がしたような声。性格に裏表はなく、誰にでも親切で、人の痛みに共感できる心を持っている。
小さな頃から僕の隣でずっと笑ってくれていた、優しい子。大好きだった彼女は、明日入籍する。
相手は、悔しいことに僕ではない。落ち着いた居酒屋のテーブル席で僕の目の前に座り、黙ってビールジョッキを傾けている男だ。六月にもなってネクタイをきっちり閉めているのが何とも暑苦しい。四角い黒縁眼鏡も相まって非常にとっつきにくい印象を与えるため、会社では「堅物野郎」などと陰口をたたかれているに違いない。ざまあみろ。
心の中で毒づきながら、ロックのウィスキーに口をつける。向かい合ってはいるものの、僕たちの間には太平洋より遠い心の距離がある。店内にゆったりと流れるピアノの調べも、これを縮めることは不可能だろう。
「……おい、何か言うことはないのか」
注文を終えてから一言も発しなかった僕に耐えかねたのか、奴が地を這うような声で尋ねる。僕はグラスを手放すことなく、顔をそむけて心底言いたくなかった台詞を吐き捨てた。
「……ご結婚、おめでとうございます、卯月クン」
「山崎、お前な、その台詞は苦み走った顔で言うもんじゃねぇぞ」
卯月が面白くなさそうに指を向けるので、お返しにべぇっと舌を出す。
「花凛が来たら、もう一度笑顔で言ってやるよ。ただしそれは百パーセント彼女に向けてのはなむけだ。お前には一ミリたりともやらん」
「本当に性格悪ぃ」
今日は俺と花凛の結婚祝いじゃないのか、と卯月はぼやく。確かに、この場は二人の結婚祝いと称して設けたのだが、僕が心から祝福を送りたかったのは花凛だけだ。
しかも彼女は、仕事が長引いて少し遅れるという。それならどうして、取り繕う必要があろうか。
行き場のない憤りを、ウィスキーと共にぐーっと飲み込む。とろりとした液体が熱を持って、喉を一気に滑り降りていった。
「あー、なんで花凛はこんな奴を選んじゃったのかなー。絶対、僕の方が幸せにしてあげられるのにー」
「その言葉は聞き飽きた。高校時代から何度言われたと思っているんだ」
「おーおー何度でも言ってやるさ。僕の花凛を奪った怨みは深いぞ!」
卯月がうんざりしたように舌を打つ。何百回も交わしたやりとりだが、どれほど繰り返しても僕の中のどろどろと煮える熱は冷えることがない。むしろ、年を重ねるごとに温度は上がっていく。
自分勝手なやつだ、と卯月はため息をつく。その台詞も聞き飽きた。
「大体、告ってきたのは花凛からだし、その仲介をしたのはお前だろ。どっちかと言えば俺たちのキューピッドじゃねえか」
キューピッド。その単語を聞いて、グラスを持つ手に力が入る。角が手のひらに食い込み、氷がピシリと音を立てて割れた。
「……そうだよ、だから悔しいんだよ! 花凛が、お前なんかに惚れなければ! 初恋なんか、しなければ!」
僕と卯月の出会いは、高校の将棋部だ。唯一の同期、そして卯月にとっては初めて自分に勝った相手、らしい。盤上では何度も火花を散らした因縁の間柄だ。
それに対して花凛と僕は、小学一年生から高校までずっと同じ学校の幼馴染。お互いの家を行き来して遊び、喜びも悲しみも共有して成長してきた、かけがえのない親友だ。
それが二年生のクラス替えで、たまたま花凛と卯月が同じクラスになったことで、運命の歯車が狂いだす。
「今でも覚えている。六月半ばの雨が降っている日の放課後、誰もいない教室! 『好きな人ができたの』って言ったときの、頬を真っ赤にした花凛の顔!」
「かわいかったろうな」
「そうだよ滅茶苦茶かわいかったんだよ! 相手にお前の名前さえ出さなければ、一点の曇りもなかったのにな畜生!」
握りしめた拳を落とすと、お通しのカシューナッツが小さく跳ねる。
「お前に彼女がいるか聞かれて否定したときの、花凛のほっとしたような表情を思い出すと、多幸感と絶望とで胃がひっくり返りそうだ。『よかった、じゃあ私にもチャンスがあるかな』って、あんなはにかみ顔で言われて恋に落ちないやつがどこにいる」
「それで、俺の元に殴り込みに来たのか。表に出るよう促した時のお前の顔が怖すぎたって、後輩だけじゃなく先輩までビビってたぜ」
「だろうな。その後しばらく、誰からも話しかけられなかったからな」
怒りに任せてナッツを頬張る。耳の近くでガコッと不快な噛み合わせ音がした。
あの日、人気のない廊下に卯月を連れ出し、衝動のままに殴り飛ばしたのを覚えている。呆気にとられている彼に向かって、僕は唇を噛みしめ詰問した。
――同じクラスの、坂本花凛。わかるな? 話したこと、あるよな?
――ああ、お前と幼馴染の? 委員会が一緒だから、まあ。
――今日、彼女から相談を受けた。お前に惚れてしまった。どうしたらいい? って。
――……は?
――なんで。なんでお前なんだよ。ふざけんなよ。
窓の外から聞こえる細い雨音が、耳鳴りのように響いていて。当時を思い出すから、今でも雨は大嫌いだ。
「捨て台詞は『僕のほうが、百倍も二百倍も花凛が好きなのに』だっけか。ずーっと言ってるよな、それ。飽きないの?」
「事実なんだから仕方ないだろ。……八つ当たりだって、わかっちゃいるけど」
卯月が、大きな大きなため息をつく。
「それに付き合わされる俺の気持ちにもなってみろ」
「僕の苦しみに比べたら屁でもないんだから、それくらい諦めるんだな。それに今更、関係を取り繕ったって無駄だろ。元々仲は良くなかったんだから」
「……まあな」
卯月は、ぐっとグラスの中身を飲み干す。そして片手を挙げ、店員にお代わりを要求した。
「ま、ぎゃーぎゃー言いながらも俺と花凛を繋いでくれたことには、少しは感謝しているよ。花凛の気持ちを知らなければ、俺から声は掛けられなかった」
「……不本意だがな」
「それに、何だかんだ花凛との仲を上手く取り持ってくれたこともありがたいとは思っているよ。花凛が言いづらいことも代わりに伝えてもらえて、俺もあいつの気持ちを知ることができたし」
花凛にとって卯月は初めての彼氏だったから、身の振り方や気持ちがすれ違うことに悩むことも多かったようだ。花凛から相談を受けるたび、僕は嫉妬を隠しながら親身になって話を聞き、その一方で卯月に文句や厳しいダメ出しを行い続けた。
「あの子は優しいから、不満があっても自分が我慢すればいい、って全部抱え込もうとするんだ。お前のせいで花凛が苦しむなんて、僕が許すわけがないだろ」
その結果、二人の交際は順調に進み、結婚するに至ったのだが。
……なんだかすごく惨めな気分になってきた。頬杖をついてそっぽを向けば、視界の端で不機嫌の元凶は新しい焼酎のグラスに口をつけている。
「……邪魔しようとは、思わなかったのか?」
「あ?」
「山崎なら、花凛にあることないこと吹き込んで、俺たちを仲たがいさせることもできたはずだ」
前を向くと、透明な液体越しに卯月と目が合う。馬鹿にしているのかと頭に血が上りかけたが、その双眸があまりに真剣な色をしていて、浮かせた腰がすとんと落ちた。
「……そんなことをしたら、花凛が悲しむ」
テーブルに置いたグラスで、溶けかけた氷がからりと回った。
「あの子にとっては、初恋だったんだ。想いが叶って、本当に毎日幸せそうで。それをこの手で壊すなんて、とてもじゃないけれどできなかった」
花凛の悲しむ顔なんて、見たくない。好きな相手が笑っていられるのなら、何だってしてやりたいと思うのが人間というものだろう。
たとえ、自分の幸せと結びつかなくとも。
「それなら、さっさと想いを伝えてしまえばよかったのに。……お前にとっても、初恋だったんだろ?」
「だからだよ。相手が僕じゃ、花凛を困らせるだけだ」
項垂れて視界に入るのは、スーツのタイトスカートから覗く自分の膝。斜めに足を揃える座り癖は、入社時のマナー研修で叩き込まれてからすっかり治らなくなってしまった。
「……花凛は、性別なんて気にする子じゃない」
「そんなの、わかってる。きっと正直に打ち明けたとしても、一人の人間として僕を受け止めてくれるだろう。……でも、たとえ想いが叶ったとしても、今の社会じゃこの関係はなかなか認められない」
法律、制度、偏見。二人の間に障壁がなくとも、周りには様々な壁が立ちふさがるに違いない。その中には現時点で予想できるものだけでなく、もしかしたら思わぬ障害だって待っている可能性すらある。
「周囲からも……下手したら家族からも拒絶されるかもしれない。そんなリスク、彼女には負わせたくない、負わせられない」
花凛が、大事で仕方ないから。悩んだり、苦しませたくないから。
胸がきりきりと冷えて痛むのに、目の奥はじんわりと熱い。
たまった熱をこぼさないよう、いつの間にかきていたお代わりのウィスキーを、天を仰いで飲み干した。
「男とか女とかLGBTとか、そんなの関係ない。花凛が花凛だったから、僕は彼女が好きなんだ」
そして、空になったグラスを卯月の胸に突き付ける。
「大事な大事な花凛を託すんだ。泣かせたらただじゃおかないぞ」
「……言われなくても、泣かせやしねーよ」
卯月は顔をしかめて、つきつけられたグラスを手の甲で押しやる。
「それにお前、偉そうに言ってるけれど自分の気持ちから逃げてるだけじゃねえか」
眉間に皺をよせ、僕に真正面から向き合う。敵意むき出しの、本当に嫌いなやつと対局するときと同じ表情だ。
僕はこれを何度も見てきた。そして、同じ顔で立ち向かったものだ。
「花凛を困らせたくない? 違うだろ、自分のせいで花凛を悩ませるって罪悪感に負けたんだろ。そんなの、お前が弱いだけじゃないか」
「ああそうだよ。僕はあの子を悩ませる勇気も度胸もないから、それができるお前に負けたんだ」
花凛に告白されたとき、腹の底がすうっと冷える心持がした。花凛の一番は僕でなかったという事実に血の気が引いて、そこで初めて、自分がどれほど花凛を愛していたかということに気が付いた。
けれど弱い自分が様々な言い訳を並べ立ててこの気持ちから逃げ出したせいで、彼女に想いを伝えることはできなかった。そのときに気づいたのだ、僕には花凛の幸せを手に入れる資格はないのだと。
わかっていた。花凛を幸せにできるのは、逃げずに花凛と向き合えた卯月しかいないと。
「……わかっているよ。わかっちゃいるけど、だからこそ花凛の隣に立てないことが心底悔しいし、それができるお前が死ぬほど羨ましいんだよ」
グラスを置き、身を乗り出す。心底憎いが心から信頼できる男の面構えを、持ちうる限りの目力で睨めつけて。
「お前に、この気持ちはわからないだろうな。だから僕は、一生言い続けてやるんだ」
「……俺が、羨ましい?」
卯月が吐き捨てるようにつぶやく。眉間の皺が、一層深くなった。
「冗談じゃない、それはこっちの台詞だ」
グラスを握った右手を、ドンと机に打ち付ける。苦虫を噛み潰したような表情で、卯月は僕を睨み返した。
「昔から花凛は、何かあると真っ先にお前に話す。嬉しいときも悲しいときも、本当に困ったときも、だ。それはお前が花凛の隣にずっといて、長い時間をかけて関係を築いてきたからだ。俺がそこに入る隙間はない。彼氏として旦那として、それがどんなに悔しいことか、お前にわかるか?」
そして、半分ほど残っていた焼酎を一気に呷った。
「花凛は、確かに俺を愛してくれている。けれど、同じようにお前のことも愛している。花凛の『一番大事な人』の筆頭は、間違いなくお前だ。どうせ俺は、同率一位がせいぜいだよ」
卯月の顔が真っ赤に色づく。アルコールのせいか別の理由かは知らないが、もう一度大きな舌打ちをして顔をそむけた。
「……それ、本心で言ってるのか?」
「お前を喜ばせるような嘘をついてどうする」
こいつとの付き合いも長い。本音だということは、確認するまでもなくわかっていた。
僕はふーっと息を吐き、背もたれに寄り掛かる。木目調の天井が、火照った頭をゆっくり冷やした。
「それじゃあ、お互い様ってことだな」
この焼けるような嫉妬心を、一生抱えて生きていかねばならないと思っていた。しかしその矛先にいた奴も同じ思いを抱いていたと知り、肩の力が抜ける。
僕の敵は、案外小さな存在だったのだ。一人で息巻いていたのが少し馬鹿らしい。
「それなら、せいぜい羨ましがってろ。いつかお前をその座から引きずりおろしてやる。寝首をかかれないように気を付けるんだな」
「ふざけんな、誰がお前にやるもんか」
卯月が身を乗り出し中指を立てたところで、入り口のカウベルがカランと鳴る。そちらを見やると、カーディガンに薄い色のスカートに身を包んだ花凛が、息を切らせて店に飛び込んだところだった。
「葵、翔太さん、ごめんね。終業間際に上司から呼び出されちゃって」
「いや、大丈夫だ」
「疲れたでしょ。さ、早く座って座って。好きなもの注文して」
僕は席を立ち、花凛をテーブルまで案内する。卯月も脇に置いた荷物をどかし、彼女が座るスペースを確保する。
「今日は花凛の分は僕の奢りだから、好きなものを頼んでいいからね。あっ、卯月は自分で払えよ」
「おいふざけんな」
もう二人とも、と苦笑しつつ、花凛がこちらへと向かってくる。
天使のような、僕の自慢の親友。離したくないほど大好きなのは自分だけなのだと思っていたけれど、花凛も同じくらいに僕のことを思っていてくれていた。
今は、その事実だけでいい。たとえ、ずっと隣にいることはできなくても。
「かり~~ん、結婚してもずっと友達でいてね~~! 仲良くしてね~~!」
正面に座った花凛の手を取ると、彼女は満面の笑みでぎゅっと握り返してくれる。ああ、こういうところが本当に愛おしい。
「もちろん! これからもいっぱい遊ぼうね。旅行も行こうね。新婚旅行は国外だけど、葵となら国内ゆっくり旅がいいなぁ」
「行こう行こう! あ、また宅飲みもしようよ。新しい円盤買ったんだ」
「えー、本当? 見たい見たい」
盛り上がる僕らの隣で、卯月が頬杖をついてぼそりと呟いた。
「……やっぱり、俺のほうがお邪魔虫なんだよなぁ」
お読みいただき、本当に本当にありがとうございました……!
6月、結婚という幸せにしかならないはずのテーマなのに、こんなドロドロした嫉妬心の塊みたいな話にしてしまって、大変に申し訳なく感じています。
最初はお蔵入りにしようかとも考えたのですが、このままだと怨念が凝り固まって大変なことになる予感がしましたので、ここで供養させていただきました。ここまで見ていただけた方には感謝しかありません……。
次回はもう少し肩の力を抜いたものができたら、と考えております。またどこかでお会いできましたら、懲りずにお付き合いいただけたら幸いです。
ありがとうございました。