2.さよならは、言えない
「ただいまー、おかあさ」
いつものように家に帰り着いて、リアはびくりと肩をふるわせた。
またエレンを振り回して、と困ったように怒るはずの母親の顔が、奇妙にゆがんでリアを見つめる。若々しいと評判の細面にぎゅうっと苦渋のしわを寄せて。
「リア。……エレンは?」
「え、家帰ったと思うけど…?ねえ、お母さんお父さんは?今日お仕事おやすみだよね?」
休日はいつでも一日寝転がってのんべんだらりと過ごすはずの父の姿が、見えない。雪使としての過剰なまでに厳しい一面と、家での優しい姿と。娘と妻には何より甘くと公言して憚らない父はリアが帰ればすぐにお帰りと顔を出すはずなのに。
「ねえ、お母さん」
どうしてだろう。なんで、声が震えるんだろう。
「お母さんってば」
ねえ、どうしてですか?やまない胸騒ぎをいつも笑って吹き飛ばずお母さんが泣きそうな顔をしているのは。
「リア…エレンのところに、行きなさい」
今ならまだ間に合うかも知れないと、続けられた不吉な言葉はもう身を翻して駈け出していたリアの耳には届かなかった。
(…エレン、エレン、エレンッッ!!)
日頃なら重たくてかき分けなければならない雪も、飛び越すには大きすぎて回り込む岩も、鬼気迫る表情のリアにたちまち蹴散らされていく。
エレンに何があるのか、お母さんの言葉の意味は。お父さんは。
気になることばかりで、なぜか知りたくないことばかりで。
「エレンッ!」
いつもより随分早くたどり着いたその場所にいたのは。
「リア…?どうした?なんか忘れ物でもしたっけ」
いつもと寸分変わりなく、ゆったりと笑う幼なじみだった。
「エレ、ン…?ねえ、なんともないの?大丈夫なの?」
「なにがだよ、けがしてそうに見える?」
不思議そうなエレンの問いかけにぶんぶんと首を振る。
「病気そうな顔色でもしてる?」
ぶんぶんぶん。
「両足ちゃんとあるし、生きてるよ?」
こくり。
「…………リア?どうしたんだよ、ほんとに」
「お、母さんが、早くエレンのとこにって、いって、それで」
ひっ、と不自然に喉がつまる。
「お、と、…さん、いなくて。エレン、いないかもって、思って…!」
「…………あー…」
しばらく黙って聞いていたエレンは、やがてすっと天を仰いで目を閉じた。微かにつり上げた口元はとても十二の少年のそれではなくて。
「リア、ありがとう、教えてくれて。でもって、おれも一個教えていい?」
「え…?な、んか、やだ」
「この流れでやだはひどい」
「だっで、エレ、の、顔がなんかちがっ…」
見たこともないほどに大人びて綺麗で、そして儚げで。こんなエレンは、エレンじゃないのだ。だから、これはきっと夢。夢でしかなくて、こんな辛い胸の痛みもきっと、ただの思い過ごしで。
「リア。今までありがとう」
「なにが!」
「なにもかも。一緒にいてくれて、笑ってくれて、…大好きだっていってくれて。」
「そんなん、ふつうのことでしょ」
「うん、でもちがうんだ。おれは、雪使だから。リア、覚えといてな」
困ったように笑って、リアの最愛の人は言った。
「雪使が崇められてるのは、表だけなんだよ。一応の機嫌は取っとかないと、国が滅んでしまうから」
「な、にいって…」
「でも雪使は減るばっかりで、もう国が完璧に制御しきれるほどの人員しか残っていない。だから、もう表向きすら必要がなくなったんだ」
「エレン」
「おれたちは、どこかへ連れて行かれて強制労働だ。…誰よりも国に尽くしたはずなのにね。その結果がこれとは思わなかったなぁ」
「エレン」
「だから、さよならだよ。……ごめん、こんなこと言ってもリアが困るだけなのに」
「エレンってば!」
何度呼んでも聞いてくれないのに耐えかねて揺さぶると、エレンはちょっと驚いたように目を瞬いた。
「エレン、………なんで」
「リア?」
言いたいことはたくさんあるのに、涙が溢れてままならない。ボロボロと大粒の涙をこぼしながらリアはエレンの肩に顔を乗せた。今はまだほんの少しリアが勝る身長は、きっとすぐにエレンが抜き去っていくのだろう。それを悔しがる未来を、喜ぶ未来を、疑ったことなど無かったのに。
雪使として頑張る人々を、裏がどうであれリアは本当に尊敬していたのに。
「ずっと、一緒にいるって約束したのに………っ!」
「……ッ」
それまで異常なほどにに穏やかな表情を保っていたエレンの顔が、そこで初めてゆがんだ。
「エレン~…お願い、だよ」
黒目がちの目を真っ赤に染めて必死に自分を見上げる幼なじみに、懸命に平静を保っていたエレンの心が揺れる。
「ずっと、一緒に、いてよぉ……!」
「リア…、!」
悲痛な声音にぐっとエレンの顔がゆがんだ。
叶うならそうしたい。否、叶わなくともそうしたい。けれど、世界が許さない。どんなに望んでも、希っても、それを世界は踏み潰す。
「エレ――――――――――」
伸ばした手は、呆気なく振り払われて届かなかった。
「え…?」
「そこまでだ。雪使のエレン・シュノットで相違ないな?」
雪の中にぽすん、とひどく軽い音を立てて少女が転ぶ。なにが起こっているのか分からないような顔をして、彼女はエレンを見ていた。
「………おむかえですよね」
「その通りだ。」
「準備時間は、貰えるんですか」
「いいや」
今すぐ、着の身着のままで出立だと告げられて、エレンはぴくりと肩をふるわせた。
「エレン!?」
まっすぐで透き通ったリアの声が、雪を伝って高く響く。
その声は、―――――――――――何よりも守りたくて、何より大切で、大切で、大切で。
ずっと、一緒にいたくて。
「リア!」
抑えていた感情が一気にあふれ出して、エレンは思いきり声を張り上げた。『迎え』にきたとかいう男のことなど一切視界に入れず、リアへと近づく。
「エレン、うえぇぇぇん!」
「………ごめん。」
ぎゅうっと抱きしめた背中から、痛いほどにリアの悲しみが伝わってきた。訳が分からないままに、恐怖を抱えて震えることしかできないリアはそれでも、エレンを失いたくない一心でぎゅうっと抱きしめ返した。
「ごめんな、リア。今は、一緒にいらないみたいだ。」
「エレッ…!」
「でも!」
リアの悲鳴を遮って、エレンはぐっと回した腕に力を込めた。先ほどのリアのように頭をこてんと肩に着けて、耳元でそっと囁く。
「…………おれは、必ず帰ってくるから。帰ってきたら、もう二度とどこにも行かない。だから、まってて」
泣きながら頷いた気もするし、怒った気もする。
そのときの記憶はすぐにリアの中で曖昧になって消えてしまったけれど、エレンがしてくれた約束だけは、その一字一句を覚えている。
自分が、それを信じて彼と別れたことも。
そうやって、月日は巡っていく。
恨みはつもり、怨嗟は谺し、心は閉ざされてゆく。
けれど、そこに確かに在った約束は、変わらない。
増えもせず、減りもせずに淡々と、降り積もる雪の中で目覚めの時を待っていた――――。