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不明瞭な世界の中で揺蕩う感覚、おぼろげな意識が見ている物は夢か現か。
誰かわからない人の悲鳴が聞こえる。それも一人じゃない。何人かわからないくらいには多いが、その人達が同じ場所にいるのか、バラバラにいるのかもわからない。
そもそもこの悲鳴は同時に聞こえているのか?
異なった時間に存在している物を今一度に感じているだけではないのか。
わからない。それにこの声達を知ってる気がするし、知らない気もする。聞いたことがあるのを思い出しているだけな気もすれば、何かを比喩するために想像で出来上がった悲鳴なのかもしれないとも思う。
ただ一つ、わかることは、この悲鳴達に自分は何も感じてないと言うことだ。
不安も煽られはしない、同情もわいてこない、恐怖なんてもってのほか。
いや…
今、ただ一つ…
感じるこれ、は…
「…っ!」
堅い寝台を跳ね起きる。自分の顔の上に乗っていたであろうタオルがひらりと腰のあたりに落ちた。
「あ、目が覚めました?」
声のする方へ慌てて目線を向けた。そこにいたのは、看護師のような白いワンピースの上から、看守のような黒い上着を羽織った、不思議なファッションをした若い女性だった。
「あの、意識がはっきりしていないのですか?返事はできますか?」
こちらがただ呆然と女性を見たままでいるのに、疑問をもったらしく、慌てた様子で問いかけてくる。その人間味になんだかほっとした。
「あ、いえ…大丈夫です」
少しかすれつつもなんとか声を出す。その声はまるで他人の声のように無感情に響いた。
「そうですか?ならよかった!でも軽い検査をしてもよいですか?一応確認しておかないといけなくて」
「はい、勿論」
「ありがとうございます!では早速体の調子から見ていきましょうね。まず右手を挙げてみてください。はい、ありがとうございます、次に足を曲げて体育座りに…そうです。そうしたら最後にこのペンを目で追ってみてください。…はい、異常はなさそうですね」
どこからか取り出したカルテのような物に何かを書き込んでいく彼女を見つめる。少しずつ意識がはっきりしてきた。なんだか、ひどく深く寝ていたようで、なかなか覚醒しない。
おかしい、自分は寝起きはいい方だったはずなのに。
「それでは精神の方を確認しましょうか!まず気分はどうですか?」
「なんだかぼんやりします。眠いわけではないのですが、夢からまだ覚めきってないようで」
「それは少し時間をおいてまた確認しなくてはいけませんね。それでは、記憶の方はどうでしょう?まず貴方の名前は?」
名前…そうだ、俺は…
「ウィル…です。みんなからはそう呼ばれてました。」
「では年齢は?」
「正確にはわからないけど、20 にはまだなってないはずです」
「正確にはわからないのですか?ではもしかして誕生日も…?」
「ええ、わかりません。スラム生まれなんてみんなそんなものですよ」
そう言えば少し痛ましそうな顔をされた。彼女は感情が出やすいタイプなのだろう、恵まれた人間にありがちな傾向だ。
そういう人間は…いや、違うな、好ましい、だ。俺はそういう人たちを好ましく思っている。
だから彼女の同情も少し、むずがゆいものの、悪い気はしないのだと思う。
「えっとそれでは、ここに何故いるか、それはわかっていますか?」
「…親代わりに売られたから、ですかね。ああ、冗談です、そんな顔、貴方には似合いませんよ。って俺がいうなって話ですよね、はは…」
「いいえ。貴方の言っていることは正しいです。貴方は保護者に金銭と引き替えに身柄を我が研究所に引き渡されました。貴方には何の利益もないこの取引のせいで、貴方はこれから辛い思いもされるでしょう。そのことで私を責める権利が貴方にはあります」
「いやいや!さすがにこんなかわいらしい女性を責め立てるなんて、そんなこと俺にはできませんよ!それに、俺は体を他の貴族に売ったのだと思っていましたから。俺が俺のままこの体を使えるだけでもありがたいですよ。…だってここは本来そういう研究所でしょう?」
そうだ、この研究所に売り渡された瞬間は絶望した。この研究所は国家に多大な貢献をしている、不老長寿の代名詞だったから。
不老長寿といっても人間の体は老いる、それは止められない故に、他のアプローチをした研究である。体は老いるが、内側、精神あるいは魂と呼ばれるそれらは永遠の生命力を持っていると仮定し、若い人間の体に国家にとって重要性の高い魂と記憶を移すことを目的とした研究。
それは科学の進歩により成功し、今では金を持った貴族であれば望めば誰もが手軽に得られる不老長寿として完成していた。
体を差し出すのは当然貧困層の役目で、若いうちから借金でがんじがらめになれば、自殺よりもずっとまともな解決法として肉体の提供は選択肢にあげられる。
ただし、それだけ民間に不老長寿を提供しておきながら、その技術を一切漏らさず、この商売を独占しているのがこの研究所なのである。