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 体が小刻みに震える。

 もちろん寒さのせいではない。

 これまでに経験したことのない「死」という恐怖に押しつぶされるような気がする。

 喜多村の上半身を呑み込んだ妖夢は、再び霧のように飛散して瑠樺の周りをグルグルと蠢いている。それはまるで餌を前に遊んでいる獣のようだ。キキキと笑い声さえ聞こえてくる気がする。

 その時――

「何をしているの?」

 その声にハッとして振り返る。そこに音無雅緋の姿があった。淡いブルーのワンピースが暗闇に輝くように光って見えた。

「雅緋さん、どうしてここへ?」

「散歩よ」

 当たり前のように答えながら近づいてくる。その長い髪がツヤツヤと濡れて光っているように見える。

「こんな時間に?」

「散歩に時間限定があるのかしら?」

 いつものように無表情で答える。まるで目の前で起きていることなど気にもとめていないように。

「そういうわけじゃないですけど……」

「あなたこそどうしてここに? あなたは散歩じゃなさそうね」

「私は八神家の……いえ、そんなことより早くここを離れて! 雅緋さん、わからないの? この状況が?」

「この状況? まあ、そうね、大変なことになっているみたいね」

 上半身を失い、血溜まりのなかで倒れている喜多村の下半身に視線を向けながら、それでも平然として雅緋は言った。

「そんな落ち着いていられる状況じゃ――」

「そうね、もう囲まれたみたいよ」

 雅緋の言葉の通りだった。

 周囲を完全に妖夢の気が囲んでいる。

 それに明確な形はなかった。

 霧のように薄く、不穏な空気を纏っていた。それがいつさっきのように襲いかかってきてもおかしくない。

 瑠樺はカラカラに乾いた喉にゴクリとツバを呑み込んだ。

 知らぬ間に恐怖が心を占めていることに気づいた。

 それも当然のことだ。その周囲にまとわりつくように張り巡らされた妖気は、自らが持つそれとは比べ物にならないほどに濃く、大きかったからだ。

 それでも――

(符術)

 その手に呪符を握りしめる。

 術士にとってもっとも基本の符を使った戦いだけはこの一年間、ずっと学んできた。逆にいえばそれしか自分には出来ない。

 今はただ自らに出来ることをするしかない。

 何よりも目の前にいるクラスメイトを守らなければいけないという強い気持ちが瑠樺の心を奮い立たせた。

 呪符はそれだけではただの紙切れでしかない。そこに書かれているのはこの世界に自然にある妖力を導き出すための術式。その術式を自らの持つ妖力で解放し、時には剣、時には鉾とする力に変えることが符術だ。

 術者によってはその符を剣や弓、杖や槍などに仕込むこともある。力は増幅されるが、その扱いはより難しくなる。

 今の瑠樺に出来るのは純粋な呪符を使った戦いだけだ。

 瑠樺が手にしているのは『爆裂の符』。

 もっともシンプルな攻撃のための符だ。

 瑠樺は符に力を込めて妖夢に向けてぶつけた。

 だが――

 それはあまりに虚しく空で小さな爆破を起こしただけだった。妖夢に小さなダメージすら与えていないことは瑠樺にもハッキリとわかる。

(まるで効いていない)

 これではコンクリートに小さなか弱い針を打ち込もうとするようなものだ。

 大きな気が瑠樺のほうへぶつかってくる。

 それを感じとった次の瞬間、強い衝撃が体に響く。

 あっという間に自らの体が弾き飛ばされるのはわかった。

 重く鈍い痛みが全身に広がる。

 その初めての経験は体の痛みよりも頭を混乱させる。

 それでも、瑠樺はその痛みをこらえて体を起こした。

 妖夢の力を精確にはかることなど出来ない。それほどまでに力に差があることがさきほどの一撃でハッキリとわかった。

「大丈夫?」

 歩み寄ってきた雅緋が瑠樺を見下ろす。

 その雅緋の顔を見て、瑠樺は自分のやるべきことをすぐに切り替えた。

 震える足に力を入れて立ち上がると上着のポケットから呪符を取り出す。

(防御の符)

 渾身の力を込めて、その符を雅緋の周囲に張り巡らせる。符は術士の力で効果は大きく違ってくる。今の自分でどれだけの力になるかはわからない。それでも今の自分に出来るのはこんなことくらいだ。

「何のつもり?」

 雅緋が瑠樺に声をかける。

「……逃げて」

 瑠樺は絞り出すように声を出した。「早く、あなたは逃げて!」

「何よ、あなた。妖かしを倒して私を助けてくれるんじゃないの?」

 冷たく軽蔑するかのような声で雅緋は言った。「命をかけて人を護る。それがあなたたちの仕事なんでしょ」

「ふざけないで!」

「ふざけているのはあなたのほうでしょ。まるで弱いじゃないの。これでどうやって人を護るというの?」

 雅緋に言われるまでもなく、それは瑠樺自身が嫌という程に理解している。

「もういいから、早く逃げて!」

「嫌よ」

 雅緋はキッパリと言い切った。

「何を――」

「自分の命を投げ出して私を助けるというの? こんな形であなたが死んで私が感謝するとでも思っているの? いい迷惑だわ」

「じゃあ、どうしろっていうの?」

「どうする? そうね。私、本当はくだらない戦いは嫌いなのよね。でも、今は仕方ないわね。あなたに死なれるわけにもいかないのだから」

 雅緋はそう言って瑠樺の前に立った。

「何を――」

 その後姿にハッとした。

 何の妖気も感じない。

 雅緋を知ってすぐに瑠樺はそのわずかな妖気を感じ取った。だからこそ瑠樺は雅緋に声をかけたのだ。

 だが、今、雅緋からは何の妖気も感じられない。

(いったい――)

 そこまでしか考えられなかった。

 妖夢の力がすぐそばまで近づいてきていた。

 明らかな殺意を持っていることが強く感じる。

 さっき見た喜多村の最後が脳裏を過る。

 強い力が襲いかかってくる。

「雅緋さん! 逃げて!」

 叫ぶことしか出来なかった。

 だが――

 次の瞬間、雅緋の体がフワリと浮いたように見えた。さっきまで霧に包まれていた月が彼女を向こう側に輝いて見える。月の光を浴びた雅緋の体はクルリと宙を回り、その蹴りが妖夢を捉えた。


 ゴン!


 それは正確には音ではなかったのかもしれない。だが、その衝撃は一つの音となって瑠樺の耳に届いた気がした。

 そして、炸裂。

 姿無き妖夢が吹き飛ばされ、奥に置かれていたベンチが粉砕される。

(何? 蹴った? 妖夢を蹴った?)

 一瞬、何が起きたのか、瑠樺には理解出来なかった。

 だが、明らかに妖夢の強い気が大きく揺らいで砕け散る。

 散り散りになった妖夢の気が弱々しく小さくなり闇の向こう側へと消え去っていく。

(助かった?)

 周囲を見回し、妖夢がいなくなったのを確認する。

 まださっき吹き飛ばされた衝撃なのか、それとも恐怖のせいなのか、足にまともに力が入らない。

 さっきまでの禍々しい気に包まれていたことが嘘だったかのように、静かに落ち着いた空気に戻っている。

 瑠樺は改めて雅緋へと視線を向けた。

「雅緋さん、いったい……何をしたんですか?」

「逃げたわね。しょせん使い魔、追ってみても意味はないわね。途中で切り捨てられるだけでしょうね」

 雅緋は振り返ると、しゃがみこんでいる瑠樺を見下ろした。

「ところであなた、私を護ってくれるんじゃなかったかしら? あんな妖夢のシッポなんかに遅れをとってるようじゃダメじゃないの」

「シッポ?」

「そうよ。あれが妖夢本体だとでも思ったの? 本体は離れたところで高みの見物ってやつよ」

「どうしてそんなことがわかるんですか?」

「さあ、どうしてかしらね」

「あなた、何者なんですか?」

「音無雅緋。知らなかったの? クラスメイトの名前くらい憶えておいてほしいわね」

 澄ました顔で雅緋が答える。

「名前なんて聞いてないです」

「じゃあ、聞かないで」

「そんな意味じゃ……だって、妖夢ですよ。あんな強い妖夢相手に――」

「私はそれよりも強いってことよ」

 雅緋は平然と言った。

「どうして?」

「私のことなど気にしないでいいの。そんなことより、あなたはもっと強くなりなさい」

「……」

 何も言い返せなかった。

「誰か来るわね」

 雅緋が遠くを見つめ言った。

 いくつかの気が近づいてくるのが瑠樺にも感じられた。

「きっと一条家の人たちです。味方です」

 瑠樺はやっと立ち上がった。まだ足がふらついている。今、命を失いかけたということが夢まぼろしだったかのように思えてくる。

「本当に味方なのかしら?」

「え?」

「じゃあ、私は行くわ」

 そう言って雅緋は背を向けた。だが、すぐに振り返り――「ねえ、あなたの話では今、八神の歴史は矢塚の家で管理されているのよね」

「はい」

「じゃあ、矢塚の家の者に遭わせてちょうだい」

「何のために?」

「言ったでしょ。八神家に興味があるからよ。それで? 会わせてもらえるのかしら?」

「はい、大丈夫だと……。明日にでも」

「いいえ、たぶん明日は休むことになるわ。だから来週」


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