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9-3

 その声にハッと顔をあげた。

 座敷の奥の襖がスッと開く。

 そこに人影が見えた。

 凛とした背筋を伸ばした姿。長い髪。

 そこに雅緋の姿があった。それはどこか神々しい。

 一瞬、妖夢の動きがピタリと止まった。その体が痙攣しているかのように見える。

「雅緋さん……どうして?」

 そう、雅緋はずっと縛られたまま倒れていたはずだ。

 思わず瑠樺は振り返った。

「にゃぁ、やっと終わったかにゃ」

 背後に倒れいていたはずの雅緋がゆっくりと立ち上がる。いつの間にか彼女を縛っていた縄は解かれている。

(にゃ?)

 それが何者なのかはすぐにわかった。

 次の瞬間、その雅緋の顔が猫のものに変化した。

「おまえ、何者だ?」

 驚いたように妖夢が問いかける。

「内緒にゃ。おまえなんかにゃ教えてあげないにゃ。ただ、おまえの邪魔する者にゃ」

 猫仮面は以前と同じようにおどけたように笑った。そして、クルリと一回転した途端、その姿がまた太ったタキシードへと変わる。

 瑠樺も体を起こし、本物の雅緋を見つめた。

「……雅緋さん」

「何を驚いているの? そこの人たちのあなたへの裏切りが嘘だったのだから、私のことだって嘘になるのは当然でしょ」

「いったいいつから?」

「昨日からずっとよ」

「昨日から?」

「そうよ。あの後、すぐに入れ替わったのよ。もともと矢塚さんも本気で私を捕らえるつもりなどなかったから入れ替わるのは簡単だったわ。それに私、もともと妖気を消すのは得意なの。あなただけじゃなく誰かさんも私がどこで何をしていたか気づかなかったみたいだもの」

 雅緋はそう言って妖夢である春影へと視線を向けた。

 妖夢の気がピリリと震える。

「貴様、いつからここに?」

「そうね。あなたが暴れ始めた頃からかしら。気づかないなんて鈍いわね。まあ、これだけ多くの妖力がぶつかり合っているのだから、私の動きに気づかなくても仕方ないかもしれないわね」

「そんな馬鹿な。貴様たちのことはずっと見張っていた」

「そうね。それは知っていたわ。でも、こっちには隠密行動が得意な変態狸がいるのよ」

「何?」

「ああ、今は猫のコスプレが好きみたいだけど」

 雅緋はチラリとゴム毬のごとく跳ね回っている猫仮面に視線を向けた。

「ずいぶん手こずったみたいだね」

 矢塚がハァハァと息を切らせながら声をかける。

「いえ、簡単だったわよ」

 チラリと視線を矢塚のほうへ向けて雅緋は言った。

「それにしては遅かったんじゃないかい?」

「あなたたちが苦しむのを楽しんでいただけよ。出来ればもう少しのんびりしたかったものだわ」

「意地悪だねぇ。キミの友達だっているというのに」

「だから仕方なく出てきたのでしょ」

 そう言ってから再び視線を妖夢へと向ける。

「何をしていた?」

「決まっているでしょう? あなたの握る奥の手って奴をつぶしていたのよ」

「それじゃ、あ奴らは――」

「囮よ。まんまとひっかかってくれたわね。あなたのような妖夢を倒すのにわざわざ策を弄するなんて面倒だったんだけどね」

 雅緋はそう言いながら瑠樺のほうへゆっくりと歩んでくる。

「何をバカなことを言っている。この儂の手のなかのこの娘の姿が見えぬか」

「愚か者め。我が何者か忘れたか?」

 雅緋の背後にスゥッと沙羅が現れる。

 そして、小さく笑う。「我は九怨の生まれ。傀儡使いじゃぞ。おぬしが捕らえていた茉莉穂乃果は既に我が手により貴様の術から逃れた。おぬしが今捕らえているのは我の術で茉莉穂乃果の気を纏った人形じゃ」

 沙羅の姿を見て、春影の表情が変わった。妖夢の手の中に握られていた穂乃果の姿が途端に土人形へと変わり崩れ落ちる。

「そんな……おまえは封印されたのでは?」

「封印などされておらぬ。そもそも矢塚の術で我を封ずることなど出来ぬ。我を封印出来るのは呉明の術だけじゃ。我はただ三文芝居に付き合ったまでじゃ。すでに茉莉穂乃果の心が閉じ込められた神楽箱は見つけ出したぞ」

 カラカラと愉快そうに沙羅が笑う。

「許さぬ、許さぬ、許さぬ!」

 その言葉が終わるか 一条春影が倒れた。そして、妖夢の本体が春影の体から完全に抜け出した。

 妖夢の強い力がさらに増し、それが一瞬で全体に広がる。

 だが、それは強い妖気というものとはまた違うものだった。混乱、錯綜、狂気にも似ていた。それがダイレクトにビリビリと伝わってくる。

 その強すぎる気によって、常世鴉の数人が気を失って倒れる。

 だが、そんな妖夢の激しい波動にも、雅緋は平然としていた。

「まるでヒステリーね」

 雅緋が静かに微笑む。「やっと正体を現したって感じかしら。まあ、全てをさらけ出さないといけないほど追い詰められてるってことかもしれないわね」

「邪魔者。やはりおまえは邪魔だった。おまえが現れた時から邪魔となることはわかっていた」

 既にそれは人の声、人の言葉ではなかった。妖気が念となって頭のなかに飛び込んでくる。

「そうね。そして、私に敵わないこともちゃんとわかっていたんでしょ。だからこそ、私を直接襲おうとはしなかった。たとえ私が眠っているときでさえ、怖くて怖くて仕方なかったみたいだものね」

「キサマ、キサマァ」

 威圧しようとするかのように、その気がさらに力を増す。

 だが、雅緋はまるでその声を気にすることもなく、平然と瑠樺に向かって近づいてくる。そして、瑠樺の眼の前までやってくると――

「大丈夫?」

「ええ、雅緋さんは?」

「私は大丈夫よ。あなた、こんな時でも他人を心配するのね」

「ごめんなさい」

「いいえ、ありがとう。あなたみたいに本音でいつでも他人のことばかり心配している子、腹も立つけど、それでも嬉しいわ」

「なんか……微妙な言い方ですね」

「そう? 正直な気持ちよ。ま、その話はまた後にしましょう。今はとりあえずこの自体をなんとかしなきゃね」

 雅緋はやっと妖夢のほうへ顔を向けた。

「娘、キサマに何が出来ると?」

「あら、一条春影の殻を破った途端に理性も知性も捨ててしまったみたいね。客観的な力の差もわからないのかしら。私が現れた瞬間、勝負はついているのよ」

「確かにおまえの力は強い。だが、おまえに何が出来る。おまえが使うその娘、ほとんど妖力を持たぬその娘では、いかにおまえが強かろうと儂を倒すことなど出来ぬ。おまえに儂を攻撃することも、捕まえることは出来ぬ」

「たかが妖夢のくせに生意気ね。妖力を持たない? そうね、確かにあなたの言うとおりよ。あなたが逃げてしまえば私は追うことは出来ない。でもね、こういうことは出来るわよ」

 雅緋が左の手の平を妖夢のほうへと差し出した。その手の平から赤い一筋の光が天に向かって放たれ、巨大な妖気がこの屋敷全体を包み込む。それは妖夢のそれを大きく上回っていた。

「バカな……なんだこの力は」

「これは茉莉穂乃果のものよ。彼女の力のほんの一部」

「どうして?」

「彼女の化身、火喰鳥の力の一部を私に貸し与えたからよ」

「そんな……」

「知らなかったみたいね。あの火喰鳥が茉莉穂乃果の化身だということを。そして、もうあなたはここから逃げることは出来ないわよ」

「おのれ……ならばなぜ今まで儂と戦おうとしなかった?」

「私はあなたのような低級の妖かなどに興味はないの」

「儂が……この儂が低級だと?」

「陰陽師一人の式神として仕えていたような妖夢、低級以下よ。私が呑み込んだ沙羅はね、もともと魔化専用で作られた存在なの」

「魔化だと?」

 その声にわずかな怯えが感じられた。

「そうよね。あなたは知らないのよね。魔化専用の沙羅の存在を。1400年前、この世界に現れた魔化、あなたみたいな妖夢が百匹集まったところで魔化の力には届かない。そんなもの倒すための存在、それが沙羅なの。そして、私はその沙羅を呑み込んだ。そんな私にあなたのような昨日今日生まれたようなちっちゃな妖夢が勝てる可能性が万に一つもあると思っているの。いいえ、あなたは思っていない。なぜならばあなたのなかには陰陽師である一条春影がいる。一条春影はちゃんと力の差をわかっている。だから、あなたもわかっている。あなたは私には勝てない。だからこそ茉莉穂乃果を自らのなかに取り込もうとした。けれど、あなたは失敗した。六角左内が変化した妖鬼に邪魔されたから? いいえ、違う。あの夜、あなたは茉莉穂乃果その人の力に抗われた。呑み込めなかったから、捕らえて離さないことにした。そういうことでしょ」

 雅緋の妖力が膨れ上がっていく。

「きさま……きさま……」

 その妖気は雅緋の前で弱々しく蠢く。

「もうあなたと話すことなどないわ。私が現れた時、全ては終わっていたのよ。あなたは逃げ出すしかなかった。でも逃げられなかった。それで終わり」

 雅緋の膨れ上がった妖力に、妖夢が怯え震え、そして、逃げ出そうともがく。だが、穂乃果の力が屋敷全体を包んでいる。

 妖夢は既に言葉を失っていた。

「消えなさい!」

 雅緋の右拳が妖夢を捕える。大きな衝撃音と共に閃光が走った。

 空間に真っ黒な穴が空き、そこに妖夢が吸い込まれていく。

「ぁぁぁぁぁぁぁ」

 悲鳴にも似た叫び声が辺りに響く。

 やがて――

 静寂がその場に戻ってきた。


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