一夜の話・終
シュルルルルル……
目の前で、穿った筈の傷が闇に飲まれる様に消えていく。
「あ……あは……ははは……なに……?あなた、何!?」
引きつった顔に泣き笑いを浮かべ、弥生は脱力した様に立ち尽くす。
そんな彼女を前にして、叉夜は酷薄に笑む。
「何を怯える?今や君もこちら側の人間だろうに」
そう言って笑う叉夜の顔は、ゾッとする程に美しい。月明かりの中、朱く輝くその瞳はまるで人外のそれを思わせる。
「私にも、ちょっとした事情があってね。今ではすっかりこちらの存在だ」
「!!」
それを聞いた弥生の顔が凍りつく。赤く上気していた頬が見る見る青ざめ、全身がガタガタと瘧にでも罹った様に震え出す。打ち合う歯が、カチカチと乾いた音を立てた。
「その様子だと、私がここに来た理由は承知の様だね」
後ずさる弥生。それを追う様に叉夜も一歩踏み出す。
「そう」
白い顔に月の様な笑みを浮かべながら、叉夜は言う。
「君達はやり過ぎたのだよ」
夜風に流れる白髪が、サワリサワリと夜気を揺らす。霧色の髪の下から覗く、白磁の顔。それを、弥生は震えながら凝視する。
「妹さんの発作とやらを抑えるためだろうが、少々喰い過ぎさね。向こうでは、大概騒ぎになってきている」
言いながら、また一歩。
「闇と光の境界は曖昧だが、絶対だ。君達はそれを犯し過ぎた。このまま続ければ、この辺りの境界が崩れてしまう」
叉夜の右手がゆっくりと上がる。その手の中のメスが、冷たく光った。
「遊戯はもう、終わりだよ。その子を土に返し、君は現世に戻るがいい」
その言葉に、怯えていた弥生の表情が一変した。身体の震えは止まり、だらりと下がっていた手に再び力がこもる。短刀をもう一度腰に構えながら、彼女は問う。
「それって……皐月に死ねって言う事……?」
「とうに死んでいるんだよ。その子は」
冷淡に告げる叉夜。憐憫の影も見えない朱い瞳。その輝きを、弥生の狂気の瞳が受け止める。
「死んでない!!この娘はここでこうして生きてる!!」
ユラユラと揺らぐ皐月の形をしたものを守る様に、その前に立ちはだかる。
「言ったでしょ!!許さないから!!そんな事は絶対に!!皐月はあたしと一緒にいるの!!ずっと一緒に!!」
「堂々巡りだね。どうしてもと言うのなら、実力行使と行くよ?」
叉夜がそう言った途端、彼女の黒衣がザワリと蠢く。蠱虫の群れの様に蠢いたそれが、叉夜が持つメスへと絡まり、覆っていく。そして、
ズォッ
叉夜の手の中で大きく伸び上がった“それ”を見て、弥生が息を呑む。
研ぎ澄まされたメスを核にして現れたもの。それは、“鎌”。主である叉夜の身長を遥かに超える、漆黒の首刈り鎌だった。
「さて。最後通告だ」
大鎌を右手に構えた叉夜が言う。絶句する弥生と、忘我の淵を彷徨う皐月に向かって。
「君達は、あるべき形に戻れ。さもなくば、二人ともこの場で排除する」
「………」
主の言葉に沿う様に、妖しく光る大鎌の刃。それを掲げる、黒衣の少女の姿はまるで……。
「あ……あは……」
と、青ざめた顔でそれを見ていた弥生が、急に破顔した。
「あ……あは、あはははははははは!!」
蒼い月の下で、少女の笑い声が壊れた様に響く。
「そうか!!そうだったんだね!!あなたは、死神だったんだ!!」
苦しげに腹を抱えながら、弥生は笑う。
「そうなんだね!!来たんだね!!とうとう、来たんだ!!死神が!!神様が、あたし達に罰を与えに来たんだ!!」
この上もなく愉快げに、笑い転げる弥生。けれど、その笑いが不意にピタリと止まる。
「……上等だよ……」
狂気と凶気を孕んだ声が言う。
「これも、言ったよね……?」
汗にぬめる手が、それでも健気に短刀の柄を握り締める。
「皐月を傷つける奴は……あたしから、皐月を奪おうとする奴は……」
その決意を示すかの様に、カタカタと震えていた短刀がピタリと止まる。
「神様だって……殺してやる……」
それを聞いた叉夜が、また嬉しそう笑んだ。笑んだのだけれど、弥生はその事を知らない。何故なら、その時彼女の視界は真っ赤に染まっていたから。
「あ……?」
何も分からないまま、弥生の意識はそこで途切れた。
ガシュ……ガチュッ グチャ……クチャ
全てが、真っ赤に染まっていた。裂けた口が、溢れ出る血を啜る。鋭い歯が、肉と骨を爆ぜる。彼女が肉を咀嚼する度、頭の失くなった少女の身体から真っ赤な液体が吹き出して、足元に出来た血溜りに散った。
「………」
頬に散った血飛沫を拭い。叉夜は目の前の光景を見つめる。
弥生だった肉塊を齧る、皐月だったもの。すでに半分しか人間の形を残さない、顔。
その琥珀の瞳から、ポロポロと溢れる涙。それだけが、まだ彼女に人としての心が残っている事を示していた。
自分の足元に転がる、弥生の頭。それを見下ろし、叉夜は言う。
「さて。これが君の望んだ結末かな?」
彼女はもう、答えない。ただ、もう何も映さない瞳から、代わりの様に涙が一筋溢れた。
「ふむ。だとしても……」
叉夜はその朱眼を細め、視線を上に戻す。そこでは、皐月だったモノが今だ弥生だったモノを貪っている。それを見ながら、彼女は言う。
「どうにも、面白くはないね」
ユラリ
その手に握られた大鎌が、ゆっくりと掲げられる。
「私の目の前で、死のうと言うのはね」
そして、闇色の刃が鋭く一閃した。
……春に桜が香る夜は……雲雀が恋歌歌うまで……父の背に乗り眠りましょう……
……夏に蛍の灯火燃ゆる夜は……椎に空蝉止まるまで……婆の歌にて眠りましょう……
目が冷めた時、其処に見えたのは大きな蒼い月。そして、聞こえてきたのは、鈴が転がる様な声で紡がれる、優しい歌。
「……?……」
身を起こそうとした瞬間、身体を激痛が走った。たまらず脱力し、また横たわる。
「……気がついた様だね?」
流れていた歌が途切れ、そんな声が聞こえた。何処かで、聞き覚えのある声だった。
「今少し、寝ていればいい。身体がまだ、“馴染んでいない”」
「……?」
言われている事が分からない。いや、そもそも自分が何かが分からない。自分は一体、何だっただろう?
「ああ、思考もまだ曖昧だろう。心配はいらない。じきに魂魄も同化して、一つの人格となる」
そんな言葉と共に、人の顔が覗き込んできた。黒い帽子に白い髪。朱い瞳の、女の子だった。知らないけれど、やっぱり何処かで見た様な気がした。
彼女は、言う。
「”妹”の方の下半身は、完全に妖化していたので廃棄した。代わりにしたのは、”姉”の下半身だ。あちらは上体の損傷が激しかったので、丁度良かった。体躯に、さほど差がないのも好都合だったな。お陰で、余計なサイズ合わせをしなくて済んだ」
何を言われているのかは、分からない。けど、聞いているうちに何故か視界が滲んできた。
「”核”は、お互いの骨片を使わせてもらった。文字通りの、一心同体だ」
ああ、そうか。ようやく、分かった。”あたし達”は、取り戻せたのだ。一番大事な、お互いを。そんなあたし達の目尻を、白い細指が拭う。
「先刻、言ったな。「神でも殺してやる」と。結構な話だ。抗ってごらん。そして、あかしてやるがいいさ。あの力ばかり持った能無しの鼻を」
言葉とともに、朱い瞳が近づいてくる。優しく、蠱惑する様に。額に冷たい感触を感じた。口づけされたのだと気づいたのは、一拍の後。
「さあ、契約は成立だ。これで君達は私のもの」
優しく。美しく。そして冷たく笑いながら、彼女は言う。
「連れていってやろう。君達が生きれる、その場所へ」
ああ。そうか。そうなのか。生きれるのだ。あたし達は。
「この隠里世が絶えるまで、今しばらくの間がある。今一度、眠るがいい。”君達”が、”君”になるその時まで」
その言葉に誘われる様に、また眠気が襲ってくる。遠ざかる意識の中で、あたし達は言った。
「うた……」
「ん?」
覗き込んでいた彼女が、小首を傾げる。
「うた……きかせて……」
あたし達の願いを、聞き入れてくれたのだろう。視界から、彼女の顔が消える。そして、代わりに聞こえてきたのは、鈴音の様な優しい子守唄。
……秋に雁が渡る夜は……サルナシの実が熟れるまで……爺の語りで眠りましょう……
……冬に雪虫舞う夜は……雪が星に変わるまで……母に抱かれて眠りましょう……
歌の帯は風となって、蒼い月の大気へと溶けていく。
誰も、歌ってくれなかった子守唄。
それに身を委ねながら、あたし達はそっと抱き合う。
……お目々覚めたら上げましょう……雲雀が歌った恋歌を……空蝉止まった椎の枝……青くて甘いサルナシを……雪色に光る星の屑……だからお休み……可愛い子……お眠り……お眠り……愛しい子……
優しい闇の中で、あたし達の心はゆっくりと溶け合っていった。
終わり