一夜の話・陸
件の術は、「撰集抄」という古書において記されている。
現代より千年ほどの昔、西行という名の僧侶がいた。
彼は高野山での修業中、人恋しさに耐えられず、一つの禁呪を成す。
かの術は、本来鬼の術法を見真似したものであり、正真正銘の外法である。
方法は、下記に準ずる。
7日ほど断食を行った後、人のいない荒野に出る。そこで、あらかじめ手に入れた死人の骨を並べ置く。 骨には砒霜を塗り、イチゴとハコベの葉を揉み合わせ、骨にまぶす。 その後、骨を水で洗い、頭部の髪が生える箇所にサイカイの葉とムクゲの葉を焼いて作った灰を塗る。土嚢に畳を敷き、骨を畳の上に寝かせる。そのまま27日間放置した後、人間の母乳を炊く。そして骨に魂が戻る事を願えば、反魂の呪は叶うという。
しかし、元より自然の摂理に反した代物。成功する道理は少ない。
事実、西行も苦心の末に術を成したものの、黄泉帰った人間は顔の色青白く、符抜けた笛の様に奇妙な声でぼそぼそ喋るだけ代物。気味悪く思った西行は、結局それを山奥に捨ててしまったという。
「何処で仕入れたのか知らないが、無茶をしたと言うべきか大したものだと言うべきか……」
そう言って、叉夜は手の中の白片をカリリと鳴らす。
「反魂は、西行程の術者さえ完璧には成せなかった難術だ。それを、形ばかりとは言え君の様な素人がよくも……」
その言葉に、床に崩れ落ちていた弥生がボソリと答える。
「だって……だって、それしかなかったんだもの……。妹を、皐月を生かす方法は……」
うわ言でも言う様に、紡がれる言の葉。それを飾る様に、周囲の木々が夜風に揺れる。
「妹さんが足が不自由と言うのは、見ての通り嘘。両親と一緒に住んでいると言うのも、嘘だろう?」
「……どうして?」
「家の中に残る人の気配が薄かった。少なくとも、一家族が暮らしてる様子はなかったからね」
「はは……。本当に、変な人……」
乾いた声で、弥生が笑う。
「そんな事まで分かるなんて、あなたは一体、何?」
「何。些か、そっち側に足を突っ込んでいるだけさ。君と同じようにね」
言いながら、叉夜は持っていた欠片を弥生の前に放る。カツンと乾いた音を立てて、白い骨片が床で跳ねた。
「!!」
「戻しておやり。このままでは、術が解けてしまうだろう」
目を剥いた弥生が、欠片に飛びつく。そのまま、倒れている皐月の姿をしたモノに駆け寄った。落ちていた短刀を拾い、皐月の服の胸を引き裂く。そのまま、左側の淡い膨らみに短刀を突き刺した。紅い雫が散り、白い身体がビクリと跳ねる。しかし、弥生はそれに構わず、握っていた骨片を開いた傷口に強引にねじ込んだ。
「……先刻、それを摘出した時に気づいたんだがね……」
傍らでその様を見ていた叉夜が、問う。
「今のその娘の身体、構成している素材でまともなのはそれを含めた、数片だけだ。残りは、そこらの木枝で代用しているな?」
「………」
朱色の瞳がキョロリと動いて、沈黙する弥生を睨めつける。
「どういう事かね?ただでさえ成功率の低い術だ。何故、そんな余計なリスクを?」
「……しようがないよ……。これしか、残らなかったんだもの……」
荒い息をつく皐月の肩をさすりながら、消え入る様な声で弥生は言う。
「……何があったのかな?」
叉夜の問いかけに、妹の形をしたモノを愛でながら弥生は言う。
「……パパはいない。ずっと昔に、あたし達を置いて何処かへ行った」
語る話は、こんな事。
比奈野弥生は、劣悪な環境下で育った。
たった一人の妹、皐月は生まれつき下半身に障害があり、他者の手を借りずしては生きる事もままならない身であった。
そんな彼女を捨てる様に、父親は姿を消した。
親としての責任も果たさず、父としての愛情も示さず、弥生達家族を捨てて失踪した。
母親は、親となるにはあまりに未熟だった。
いつまでも。いつまで経っても、消えた伴侶の影を追い続け、二人の子供を省みる事をしなかった。
彼女は弥生を夫を追うための足かせと疎み、皐月を夫が自分を捨てた理由と憎んだ。少女二人が母から与えられたのは、愛情でもなければ食事でもない。躾という名の暴力だけ。
皐月の介護は、全て弥生の仕事。
その代わり、皐月は弥生が受ける心の傷の全てを受け止めた。弥生がいなければ皐月は生きていけなかったし、皐月がいなければ弥生はとうの昔に自分で自分の命を絶っていただろう。
少しづつ、真綿で縊られていく様な毎日。その中で二人の姉妹は睦み合い、絆を強めていった。細い綱で奈落の上を渡る様に、二人は日々を生きていた。昨日も。今日も。これからも。
けれど、破滅は訪れた。突然に。そして、あっさりと。
それは、雪の降る寒い冬の日の事。弥生は自分と皐月のために調達したパンを持って、家路を急いでいた。
最近、町内では食べ物を手に入れる事が難しくなっていた。同じ事を何度も繰り返したせいで、店側の警戒心が高くなってきていた。
捕まる事は出来なかった。捕まって母親が呼ばれれば、家で待っているのは罰という名の暴力だった。
それも、自分だけではない。原因を作ったとして、皐月も咎められ、殴られるのだ。そんな事は出来ない。
けれど、食べない訳にもいかなかった。仕方なく、まだ顔の知られていない隣町にまで足を伸ばした。道は遠く、途中から降ってきた雪で薄い布地しか身につけていなかった身体は冷え切っていた。それでも、何とか食料は手に入れる事が出来た。
小さな菓子パンが二つと、パック牛乳が一本。これで、今日一日を過ごす事が出来る。パンは、片方がクリームパンだった。皐月の好物だ。きっと、喜んでくれるに違いない。そう思いながら、家の戸を開けた。
家の中は、冷気と異様な臭気に満たされていた。
少しの混乱。
けれど、次の瞬間にはそれがガスの臭いである事に気づく。
ガス漏れ。
そう悟ると同時に、弥生は家の中へと駆け込んだ。早くガスを止め、換気をしなくては。そう思った瞬間、
バタン
背後で、大きな音を立てて戸が閉まった。驚いて振り返るのと、ガチャリと鍵が掛かる音がするのとは同時だった。
……戸の前に、母親が立っていた。壮絶な姿だった。顔と服は真っ赤に染まり、ダラリと下げた右手には、鮮血の滴る包丁が握られていた。
言葉を失い、立ち竦む弥生に向かって母親は言った。
「こうすれば、良かったんだねぇ」
壊れた蓄音機が回る様な、そんな声だった。
「荷物を。邪魔なものを全部捨てれば、あの男の所に行けるんだ」
生乾きの血で引きつる顔を歪ませ、母親は笑う。
「この家も。あんた達も。みんな。みんな、なくなればいいんだ」
マズイと思った。
母親は、完全に正気を失っていた。逃げなければ。そう思った瞬間、皐月の事が頭を過ぎった。反射的に皐月のいる部屋に視線を向けるのと、包丁を振りかざした母親が襲いかかって来るのは同時だった。
咄嗟に避ける。振り下ろされた包丁が、頬を掠める。感じる、熱い痛み。バランスを崩して転ぶと、母親が覆い被さってきた。仰向けに組み敷かれた視界に、鋭い切っ先が迫る。咄嗟に、刃を両手で掴んだ。焼ける様な痛みが手に走るが、かまってはいられない。必死で、握り締める。滴り落ちる手で赤く染まる視界に、母親の壊れた笑みが映った。
「いい娘ね。弥生は、本当にいい娘。だから、ママの言う事、聞いてね」
その言葉に、血を吐く思いで反論する。
「嫌だ!!いい娘なんかじゃなくていい!!やめて!!お願いだからやめて!!」
実の娘の言葉に、母親は困った様な顔をした。
「ダメよ。我が儘言っちゃあ。皐月は、ちゃんと言う事、聞いてくれたのよ?お姉ちゃんのあなたが、そんな事言ってどうするの?」
体中の血が、一瞬で下がった。反射的に、皐月がいる筈の部屋を見る。
……真っ赤だった。見える範囲の部屋の内部が、血で真っ赤に染まっていた。その床に、手が見えた。小さな。小さな手だった。ピクリとも動かないその手は、やっぱり真っ赤に染まっていた。
――頭の中で、何かが切れた――
「うわぁああああっ!!」
弥生は絶叫すると、覆い被さる母親の腹を力いっぱい蹴り上げた。
「ぐふっ」
くぐもった声を上げて、母親の身体が転がる。弥生は起き上がると、母親が手放した包丁を手に取った。それを振り上げ、悶絶している母親に向ける。
「よくも……」
躊躇いはなかった。
「よくも!!」
憐憫も湧かなかった。
「死んじゃえ!!」
憎悪の言葉とともに、包丁を振り下ろした。
……手応えは、酷く不快だった。
「はあ……。はあ……」
肩で息をしながら、血糊でぬめる手で顔を拭う。
「皐月……待ってて……」
フラリと立ち上がり、玄関に向かう。家に、電話は引いていない。助けを呼ぶには、外に出るしかない。震える手で、ドアノブを握ったその時――
「……康夫さん……」
か細い声が、聞こえた。自分達を捨てた、父親の名前だった。振り返ると、血の海に横たわった母親が笑んでいた。
弥生を見るでもなく。皐月を想うでもなく。ただ、その男の面影だけを夢に見て。
「……今、行くわ……」
真っ赤な手の中に、何かが握られていた。それがライターだと気づいた瞬間、弥生の全身が怖気立つ。
家の中には、ガスの臭いが充満していた。
「やめ……!!」
カチリ
幸せそうに笑んだ母親の手の中で、ライターが乾いた音を立てた。
平屋建ての貸家は、木っ端微塵に吹き飛んだ。玄関にいた弥生は外に吹き飛ばされて一命を取り留めた。けれど、それだけ。母親も、皐月も、全ては炎の中に消えた。
その後、通報を受けた警察や消防が駆けつけ、現場処理にあたった。弥生も事情を聞かれたが、何も分からない。住んでいたのは自分と母親だけだと、シラを切った。
幸か不幸か、母親は皐月の事を世間に知らせてはいなかった。身体の不自由な我が子の存在を隠したかったのか。それとも、そんな我が子に成した所業を知られたくなかったのか。とにかく、警察も消防も弥生の言葉を信じ、原型を止めない遺体を母親と認定して捜査を終了した。もう一人の犠牲者、皐月の存在には気付く事もなく。
その夜、弥生は保護所を抜け出して現場に戻った。目的は、ただ一つ。妹を。皐月をこの手に取り戻すため。月明かりだけが照らす中、弥生は探し続けた。今も変わらず、ここで自分を待っている筈の妹を。
やがて、月が天頂を過ぎた頃、焼け焦げた残骸の中で佇む弥生の姿があった。
その手の中には、黒く焦げた数個の欠片。指で擦ると煤が剥げ、白い地肌が覗く。弥生はそれを大切に。大切に胸にかき抱いた。
「やれやれ……。さして珍しくもない話を、よくぞここまでこじらせたものだね」
話を聞き終わった叉夜が、そう言って乱れた髪をかき上げる。
「……同情、してくれないんだね……」
「涙の一つも欲しかったのかい?」
「まさか」
ボソリと呟いた言葉に返ってくるのは、酷く素っ気のない言葉。けれど、それを歓迎する様に弥生は笑む。
「そんな事されちゃあ、やり辛くなるもの」
そう言う彼女の向こうで、横たわっていた巨体がモゾリと動く。
「この娘は、こんなにお腹を空かせているのに……」
肩越しに叉夜を見て、ほくそ笑む弥生。そして、
カシャリ……
半人半樹の妖魅が、ゆっくりとその身を起こした。