終夜の話・陸
ブクブクブク……
……浮いてこない。
噴水の水盆に沈んだミアが、一向に浮いてこない。
おかしいな。
そんなに深い様には、見えないんだけど。
何だか不安になってきたので見に行こうとすると、ススス、とトナミが前に入ってきた。
「な……何さ……?」
トナミは思わず身構えるあたしに向かって微笑むと、何処から取り出したスケッチブックに、同じ様に取り出したペンで何かしらをスラスラと書いた。
「?」
怪訝な思いで見ていると、トナミは書いたページをあたしに向けた。
[心配しないで。死にはしないから]
そこには、流暢な文字でそんな事が書いてあった。
「で、でも、上がってこないよ?」
すると、ページをめくって再びスラスラ。
[大丈夫。あの噴水は、色々な所につながってる。そのうちの何処かに落ちただけ。その内、戻ってくるから]
「色々な、所……?」
[そう]
そして、彼女はまたページをめくる。
[世界は、一つじゃない。並行に。直列に。幾重にも連なって、いくつもの世界がある。その中の一つに、落ちただけ]
その言葉が、あたしを驚かせた。
「世界が……幾つも……?そんな……」
サララッ サラッ
あたしの言葉よりも早く、ペンが動く。
[馬鹿な事だと思う?どうして?]
「だって……」
[貴女達はこうして、ここにいるのに?]
「!!」
その言葉に、心臓がドキリとした。
そう。ここは、そういう場所。半ば感覚が麻痺していたけれど、ここはすでに数刻前まであたし達がいた場所じゃない。
魔女に招かれ、拐かされた先にあった世界。青い月は何処までも青く、満ちる空気は何処までも透麗。あたし達の生まれた世界には、有り得ない程に。
ここは異界。あたし達の思いなど、届きもしない場所。
改めて突きつけられた現実。思わず、心が冷える。
ふと後ろを見れば、皆が青ざめた顔をしている。そして、それはあたしもきっと同じ。
ゴクリ
思わず生唾を飲み込んだその時、
トントン
肩を叩かれて振り返る。
そこには、スケッチブックの新しいページを見せるトナミの姿。
[怖がらせて、ごめんなさい]
書かれた声で、彼女は言う。
[心配しなくていい。貴女達は招かれたの。この世界では、叉夜さんや煌夜君、そしてわたし達が貴女達を守る。だから、何も怖がらないで]
ただ紙に書かれただけの言葉が、不思議と染みていく。波立っていた心が、静かに凪いでいくのを感じる。
ハヅキが、彼女は言霊使いだと言った。その彼女が書く言葉。ひょっとしたら、その文字にも何かの力が宿るのかもしれない。
[ね。大丈夫でしょう?]
音にならない声が、あたしを撫ぜた。
「少々、時を取ってしまいましたね。そろそろ、参りましょう」
ハヅキがそう言って促した先は、中庭の向こう。本館らしき建物と、その外壁に取り付けられた扉が一つ。
「まだ、歩くの?」
いい加減うんざりした様子で、シンディが言った。
けれど、ハヅキはどこ吹く風。
「本館の中に、ここの主がいらっしゃいます。まずはその方にお目通りしていただかなければなりませんので」
「主?」
「ここの主人って、あんた達じゃないのかい?」
サヤとコウヤに向かって、カリーナが問う。
そんな彼女に、コウヤは何を今更といった体で答える。
「僕達は雇われ人だよ。もとより、顕界には居場所がない身だからね。ここの主の依頼に応じる代わりに、居場所を提供してもらっているのさ」
「まあ、君達と私の関係と同じ。等価交換というヤツさね」
そう言って、サヤはククと笑った。
「それではわたくし達は参りますが、唱未さまはどうなさいますか?」
問いかけるハヅキに向かって、トナミはパタパタと手を動かす。
手話と言っただろうか。書くよりも早くて便利そうだ。
(覚えてみようかな……)
何となく、そう思った。
トナミ(あの娘)とは、仲良くなれそう。
そんな気が、したから。
「そうですか。ここで、魅鴉さまをお待ちになられますか」
トナミは頷くと、トコトコと歩いてまた噴水の縁に腰掛けた。
それを見届けると、ハヅキはあたし達に向き直る。
「それでは。主がお待ちです。少々、急ぎましょう」
「あの……」
「はい。何でございましょう?」
歩き出そうとしたハヅキに、シェミーがおずおずと声をかける。
「さっきの女、別の世界に落っこちたって言ってましたけど、大丈夫なんですか?ほっといて」
流石、シェミー。あんな目に合わされた相手を、心配するなんて。それでこそあたしの……
そんな問いに、ハヅキはサラリと答える。
「ご心配は無用です。”扉”はあらゆる場所にございます。かの方々は、その全てを把握しておられます。加えて、唱未さまが導として座しております。ほどなく、お帰りになられましょう」
「そうですか……」
シェミーが、ホッと息をつく。カリーナの、「お人好しだな~」の声を聞きながら振り返ると、気づいたトナミが微笑んで手を振った。
だからあたしも、同じ様に微笑んで手を振った。
そこは、酷く不思議な場所だった。
一切の光もなければ、一切の音もない。
まるで、深海の様だ。
グルリ、と周囲を見渡してみる。暗いのに、視界は妙に明瞭。そして、その中に映るのは、
「棚」だった。
一つ一つが馬鹿馬鹿しいくらいに大きな、黒塗りの棚の群れ。それがいくつも列になって、視界の果てまで延々と続いていた。
よく見ると、それ全部にギッシリと本が詰め込まれている。
全部が、本棚らしい。
上流階級の皆様が利用する、”図書館”とやらがこんな感じだろうか。もっとも、規模は桁外れなのだろうけど。
本を読む様な趣味はないし、文字を読むのだって得意じゃない。ただ、それでもそこにあるのが世界中の書を集めたものである事は分かる。だって、見た事もない文字のものが幾つもあるから。
「うわぁ~」
「凄いね。こりゃあ」
読書が趣味で、独学で学んだシェミーや、没落貴族の身であるシンディには、その凄さが分かるのだろう。
しきりに感嘆の声を上げている。
まあ、凄い事くらいはあたしにも分かる。ただ、それ以上に気味が悪かった。
終わりの見えない棚の群れ。
満ちる本の匂い。
不自然に明瞭な、闇衣。
その全部が、異質だった。
早く、抜けたい。
のしかかる違和感に、そう願ったその時、
「ご心配はいりません」
あたしの心を読む様に、先頭のハヅキが言った。
「”ここ”にある”子”達は、ただ己の主を待っているだけ。何をする事もありません。どうぞ、ご安心を」
「そ……そう?」
彼女がそう言うのなら、そうなのだろう。多少の不安は残しつつも、あたしに出来るのは皆と一緒にハヅキの後をついていく事だけだった。
それから、どれほど歩いただろう。突然、棚の群れが途切れた。たどり着いたのは、放射状に伸びる棚の列の中心。
広間の様に開けた、丸い空間だった。
そこで、スカートの両端を持ったハヅキが優雅に会釈する。
「ただいま、戻りました。切人さま」
静かに傅く声。
それに、もう一つの声が返る。
「ご苦労様」
聞きなれないその声に、背伸びをしてハヅキ達の向こうを覗く。
そこにあったのは、一つの円卓。
その中心に空いた穴の中で、”彼”は両手で頬杖をついてこっちを見ていた。
「長い道中、お疲れさまでした」
カーキ色のハンチング帽と、長いマフラー。揺れる長虫の様なその真ん中で、端正な顔を笑ませながらもう一言、キリトと呼ばれた彼はそう言った。