終夜の話・参
それは、とても奇妙な建物だった。
とても大きいのは、分かる。だけど、形が分からない。あまりにも大きくて、視界の端々が闇の向こうに消えている。遠くから見た時には、輪郭が見えるくらいの大きさだった筈なのに。本当に、奇妙な建物だった。
煉瓦造りらしい黒塗りの壁に、取って付けた様な扉が一つ。右脇には燭台が一台ついていて、ボンヤリとした灯りを灯していた。
と、先頭を歩いていたハヅキがピタリとその足を止めた。
「ブベッ!?」
建物の威容に気を取られていたあたしは、前を歩いていたアビーの背中に思いっきりぶつかって変な声を上げてしまった。
「あれ?だいじょぶかい?」
「ら……らひひょうふ……」
気遣うアビーにそう答えると、あたしは赤くなった鼻をさする。
「もう!!何なのよ!?急に止まらないで……」
先頭のハヅキに文句を言おうと列の前を見ると、扉の前に誰かがしゃがみこんでいるのが見えた。
……女の子だった。青みがかった黒髪で、東洋風の着物を着た女の子。そんな娘が、何か大きな棒状のものを抱えて座り込んでいる。それが、とても大きな剣だと気づいて、少しドキリとした。
一瞬、行き倒れかとも思ったけれど、どうも様子がおかしい。
耳を澄ますと……
クゥ~…… クゥ~……
聞こえてくるのは、小さな寝息。どうやら眠っているらしい。
そんな彼女に、ハヅキが声をかける。
「流凪さま。流凪さま~」
”ルナ”と言うのが、女の子の名前らしい。熟睡しているのだろうか。声をかけられても、なかなか目を覚まさない。
「流凪さま、お役目の途中で居眠りしてると、また炎凪さまに怒られますよ~」
ハヅキがペチペチと頬を叩くけど、やっぱり起きない。相当、寝穢いタチらしい。と、
ハヅキの後ろにいたサヤが、ツツ、と前に出た。ゴソゴソと、懐をまさぐって取り出したのは、小さな瓶。中には、ルビー色に光る液体が満ちている。
……何か、すごく嫌な予感がした。
「葉月、下がっておいで」
「はい。叉夜さま」
そう言って、下がるハヅキ。
くっついて、あたし達も下がる。
キュッ
蓋を外す音。そして――
ポタリ
瓶から滴る液が、ルナと呼ばれた女の子の鼻先に落ちた。
途端――
ボウン!!
「ぶわっ!!」
「ちょ、何これ!!きっついー!!」
真っ赤な煙が上がり、強烈な刺激臭が漂う。鼻に痛い。目に痛い。ついでに、喉にも痛い。辛い!!って言うか、辛い!!
何だか分からないけど、こんなものを鼻先で炸裂させるなんて、明確な殺意を感じる。
あの娘、無事なのだろうか……。
そんな事を考えていると――
「ゲホゲホ。ああ~、ビックリした~」
赤い煙の中から聞こえる、妙に間延びした声。煙をはらいながら出てきたのは、件の女の子。目がショボショボしているのは、薬のせいか眠気のせいか。何か、後者っぽい。
「あ~、さやりんとこうくんだ~。おっは~」
そんな調子で手を上げる彼女を見て、コウヤが呆れた声で言う。
「全く、相変わらずだね。流凪。門番の役くらい、真面目にやったらどうだい?」
「だって~。どうせ~、招かれた人しか来ないんだし~。黒眚くん達もいるんだし~。別にいいじゃん~」
「まあ、その鷹揚な性格が、君の良い所ではあるけどね」
「おぉ~、流石はこうくん~。分かってる~」
「煌夜さま。あまり甘やかされても困ります」
咳込んで涙を流すあたし達を他所に、連中は平然と会話を続ける。
やっぱりこいつら、人間じゃない。
カヤカヤと言い合う彼らを見ながら、あたしはそう思いを新たにした。
「へぇ~。それじゃ~、君達、新しいお手伝いさんなんだ~」
相変わらずの間延びした声で言いながら、ルナがニコリと笑う。
って言うか、何だ?”お手伝いさん”て。
あたし達が怪訝そうな顔をしていると、ルナが小首を傾げた。
「あり~?ひょっとして~、まだ、お話聞いてないかな~?」
お話も何も、あたしらここがどこかも教えられてないんだけど。
「ご心配なく。その事については、おいおい説明いたしますので」
あたし達の心を読んだ様に、ハヅキが言う。
「まあ~、とにかく新人さんって事だね~。ボク、『白南風 流凪』って言うんだ~。これから~、よろしくね~」
そんな言葉と共に、ルナが手を差し出す。戸惑っていると、ベティーナがあたし達を代表する様に前に出た。
ルナが差し出した手を、ベティーナが握る。
「お話はまだよく分からないけれど、どうやら貴女達が私達の新しい雇い主である事は、間違いない様ですね」
そして、彼女はルナという女の子と契りの握手を交わした。
「アハハ~。汗かいてる~」
ルナが笑った。言われて見れば、ベティーナの顔は蒼白で、身体も微かに震えている。
そう。彼女も怖いのだ。
得体の知れない場所。得体の知れない建物。そして、得体の知れない雇い主達。怖くて、当然だ。
これからのあたし達がどうなるのか、誰も分かりはしないのだから。
すると――
「大丈夫だよ~」
微笑みを浮かべながら、ルナが言った。
「ちょっと性格悪いけど~、さやりんは優しいからね~。悪い様には、ならないから~」
澄んだ水が、流れる様な声。それが、不安に揺れるあたし達の心を、少しだけ凪いだ。
「挨拶は、済んだかい?そろそろ、戸を開けておくれ」
サヤが言うと、ルナが「はいはい~」と頷いてドアに向かう。
「ほれ、開けゴマ~」
そんな言葉と共に、ルナが持っていた剣でコンコンとドアを小突いた。
すると――
キィ……
か細い泣き声を上げて、開くドア。ヒヤリとした空気が流れ出て、あたし達の肌を冷たく拭った。
ドアの向こうには、通路が伸びていた。長い、長い廊下。壁に並ぶ燭台の灯りだけが照らすそこに、ハヅキが踏み入る。
「どうぞ。おいでください」
正直、とても怖かった。でも、他に道はない。先に入ったサヤ達の後を追って、あたし達も次々と中へと入った。そして、しんがりのカリーナが敷居を越えると、
「ようこそ。『術渡の宇』へ」
その声に振り向くと、ルナがニコニコと笑っていた。そして、
キィ
また、一声。か細く泣いて、ドアは閉まった。