六夜の話・拾弐
「ウ……ゴホッ!!ゲホッ!!」
喉を焼くアルコールの刺激と、鼻腔を満たす酒の香り。たまらず咽せ込んだ瞬間、彼女がパッと身を離した。同時に戻る、身体の自由。
「ゲホ……、こ、これって、お酒!?」
そう。このきついアルコールの味には、覚えがあった。以前、客に戯れで飲ませられたブランデーの味だ。
涙ぐみながら咽せ続けるあたしに向かって、魔女は笑う。
「おいおい。吐き出さないでおくれ。安い酒ではないのだから」
そう言ってもう一本の小瓶の栓を弾くと、クイッとそれをあおった。
その言葉を聞いて、あたしは確信した。
そう。これは万能の霊薬なんかじゃない。ただの、酒なのだ。
「だ……騙したの!?」
「言っただろう?エリクシアは精製が難しい。そうそう、現物は手に入らんさ」
「これがそうだって言った!!」
「まんざら嘘でもないぞ。ブランデーやウィスキーの上質品は「命の水」とも呼ばれる。文字通り、百薬の長だ」
ケタケタと笑う彼女。胸の中で、黒い炎が燃え上がる。
「馬鹿に、しやがって……!!」
横に転がっていたナイフを、もう一度掴む。
あたしや、シェミーが掴みかけた希望。それを戯れで弄ばれた。例えようもない怒りと憎悪が湧き上がる。
チャキ……
ナイフをもう一度、かの魔女に向かって構える。彼女は変わらずに、笑っている。きっと、あたしの事などそこらの掃き溜めを這い回るゴミムシ程度にしか思っていないのだろう。実際、もう一度突きかかった所で、さっきの様におかしな術で防がれてしまうのが関の山だろう。ひょっとしたら、今度こそ殺されてしまうかもしれない。
でも、そんな事関係なかった。
どうせ、病に罹った事で先の知れた命だ。ここで絶えたって、その時が少し早くなるだけの事。それよりも、こいつに。この魔女に刻んでやる。一筋でもいい。あたし達の、彼女がゴミムシと見下すあたし達の怒りを。憎悪を。その綺麗な顔に刻んでやる。
人間の想いを、二度と踏み躙ろうなんて思わない様に。
そして――
「うわぁああああああっ!!」
あたしはナイフを構えたまま、彼女に向かって再度突っ込んだ。
……結論から言おう。結局、今度もあたしの刃は彼女に届く事はなかった。もっとも、彼女の術によるものではない。急に横から伸びてきた手が、あたしの腕を掴んで捻り上げたのだ。
「いたっ!!いたたたたっ!!」
「悪いね。それをさせる訳には、いかないんだ」
耳に囁く、涼やかな声。涙の浮かんだ目を向けると、いつの間に戻ってきたのだろう。魔女の弟が、困った様な眼差しをあたしに向けていた。
「は、放せ!!」
「その前に、落ち着いておくれよ」
話す声も、露骨に困っている。
「おや、早かったね。煌夜」
「早かったね、じゃないよ。姉さん。嫌な予感がして戻ってみれば、この有様だ」
ポトリ
あたしの手から、ナイフが落ちる。
それを見届けると、彼はようやくあたしを放した。
そのまま、ヘナヘナと崩れ落ちるあたし。
「ちくしょう……ちくしょう……」
漏れる言葉と一緒に、涙が溢れる。
情けなかった。悔しかった。いつも、こうだ。あたし達の掴みかけた希望は、こうして目の前で霞の様に消えてしまう。沢山だ。もう、ウンザリだ。いっそ、この場で殺してくれればいい。
ただ泣くしかないあたしを見て、彼がぼやく。
「全く。その、気に入った相手をからかう癖はやめてくれと言っただろう。じゃないと、僕はそのうち本当に人を殺めなきゃならなくなる」
「くく。そう言うでないよ。煌夜。私の数少ない娯楽の一つなのだから」
そんな事を言いながら、近づいて来る魔女。あたしの目の前に立つと、腰を屈めて座り込むあたしの顔を覗き込んできた。
「……何よ……?」
「先刻、言ったね」
「………?」
「神など、いないと。いても、ただのロクデナシだと」
「それが、何だってのよ……?」
泣きはらした目で、彼女の顔を見る。さっきあおった、ブランデーのせいだろうか。その雪の様に色のない肌が、微かに薄赤く染まっている様に見えた。
「それは、半分外れで半分当たりだ」
「………?」
「神はいる。間違いなくね。ただし、ロクデナシだ。加えて、無能ときている」
彼女の朱い瞳が揺れている。まるで、血色の焔が燃える様に。
「そんな奴が、無駄に力ばかりを持って世を好き勝手している。全くもって、腹立たしい」
「………」
「特に、死と言うのはその極みだ。あれは、神が自分の好みの者をはべらす為にふるいをかけているのさ」
何だ?何を言おうとしているのだ。この魔女は。
「お眼鏡に叶った者は、早々に天上に引き上げる。気に入らない者は、枯れ果てるまで顕界で飼い殺すか、魔性の餌にして地獄に落とす。それが、神のやり方だ」
「………」
「そう言う意味では、君達は選ばれた方だと言えるだろう。あと十年、美しいうちに逝けるのだから」
「……!!」
思わず、息を飲んだ。燃える様に揺れていた、彼女の瞳。そこから、唐突に雫がこぼれた。その瞳と同じ。朱い、朱い、紅玉の様な雫。血の、涙だった。
「それを悟った時、私は決めたのさ」
目を。頬を。朱く濡らしながら、彼女は紡ぐ。
「あの能無しから、全てを奪ってやろうとね」
全てを奪う?神様から?何を言っているのか、分からない。分からないけれど、その言の葉には何かゾッとする様な迫力があった。
「神が欲しがるもの。その全てを、かっさらってやるのさ。その手で、救い上げる前にね」
グイッ
彼女が、顔を寄せてきた。間近に迫る、朱く濡れた瞳。恐怖か。それとも畏怖か。胸が、ドキドキした。
「さあ、ここまで言えば分かるだろう?」
彼女は笑う、まるで、白塗りの仮面に血化粧を施した道化の様な顔で。
「君は、神に選ばれている。忌々しい事だ。私の前に立つ者を、救おうなどと」
ポツリ ポツリ
滴る雫が、あたしの上に朱い色を描く。深い。闇よりも深い、血の色だ。
「だから、決めたよ」
彼女は言う。最後の言葉を。神に対する、反意の呪を。
「君に宿る”死”。私が喰らおう」
ゴクリ
乾いた喉が泣く。怖かった。目の前の、少女の姿をした者が怖かった。揺れる朱い瞳も。滴る涙も。まるで、闇そのものが囁きかけてくる様だった。
「答えは聞かない。君には、その権利も資格もない」
彼女が、手を上げた。ツと伸ばした、白い指。それが、紅玉の雫をすくい取る。
白の上で震える、朱色の珠。それを、あたしの唇に寄せる。
避ける事は出来なかった。彼女の視線が、あたしを縛り付けていたから。
指が、唇に押し付けられる。そのまま、紅を引く様に、ツゥとなぞる。微かに香る、鉄錆の匂い。口に広がる、薄い血の味。
為す術もなく、あたしはその全てを受け入れた。
彼女は言う。楽しそうに。嬉しそうに。
まるで、新しい玩具を見つけた子供の様に。
「さあ。契約は、完了だ」
そして、魔女は笑った。綺麗に。綺麗に。冷たく、笑んだ。