六夜の話・拾
「おお、よしよし。いい稼ぎじゃねぇか」
あたしから五枚もの金貨を渡されたエイブラムは、この上なく上機嫌な調子で笑った。
チップだよと、魔女の弟から与えられた金貨。半分くらい自分のものにしても良かったけれど、何か気味が悪くて全部渡してしまった。
「何でもあの坊ちゃん、しばらく滞在してくれるそうじゃねぇか。よっぽど、お前の具合が良かったんだな。いいぞ。がっぷり咥えて、放すんじゃねぇぞ」
下品な冗談と一緒に、ガハハと笑うエイブラム。こっちの苦労も知らないで。
「ほら、モタモタするな。早く部屋に戻って、なんなりとサービスして差し上げろ」
「……はいはい……」
酒臭い息に促されて、再び部屋へと向かう。部屋は宿の一番奥。長い廊下を、歩いていく。その途中で、ふと立ち止まる。
周りに誰もいない事を確かめて、ポケットに手を入れる。
ゴソリ
中をまさぐって取り出すのは、琥珀に満たされた小瓶。
霊薬『エリクシア』。
これを飲み干せば、あたしを犯す病はたちどころに消えると言う。
けれど……。
本当に、いいのだろうか。ここには、あたしと同じ病を患う娘が何人もいる。そんな仲間達を差し置いて、自分だけがそんな幸運を享受する事が許されるのだろうか。何より、その病を得ている者の中にはあの娘がいるのだ。あたしを、愛していると言ってくれたあの娘が。
(とにかく、これはあげよう)
脳裏を過るのは、かの魔女の言葉。
(これをどうするかは、君の自由だよ)
耳元で囁く、冷たい吐息。
(ただ、覚えておいで)
誘う様に。惑わす様に。
(先にも言った様に、人には神に定められた運命と言うものがある)
まるで、悪魔の蠱惑の様に。
(君は選ばれた。それだけは、自覚しておおき)
魔女は、囁いたのだ。
「……選ばれた……。あたしが……」
独りごちて、手の中の小瓶をジッと見つめる。
思えば、生まれた時から酷い人生だった。
貧しさのあまり、両親の手で人買いに売られたのは五つの時。
そのまま、ある貴族の屋敷に奴隷として売られて、相応の扱いを受けて育ってきた。毎日の労働に加え、叱咤され殴られる毎日。
とうとう我慢できなくなって、逃げ出したのは十三の頃。
行き場もなく流れる中で、身体を売る事を覚えた。初めて花を散らした時の、痛みと惨めさは今でも覚えている。
そうやって、野良犬の様な生活の果てに流れ着いたのが、宿。
退廃した毎日の中、挙げ句の果ては死病持ち。
本当に、ゴミ溜めの中でもがきながら、薬で殺されるのを待つ蛆虫と大差ない生き方。
神様に愛されているなんて、一度も思った事はない。
その神様が、ここに来てあたしを選んだという。
そう。ここまでこんな生き方を強いられてきたのだ。
一度くらい、その慈愛にすがったって、いいじゃないか。
あたしは、選ばれたのだから。
決意し、小瓶の蓋を掴む。
それを、ひと思いにねじ切ろうとしたその時――
「セシル!!」
「!!」
背後から聞こえてきた声に、ビクリと心臓が跳ねた。
振り向くと、こっちに向かって駆けてくるあの娘の姿。
「シ、シェミー!?」
慌てて振り返りながら、手にしていた小瓶をポケットに押し込んだ。気づく様子もなく、駆け寄ってくるシェミー。
「はあはあ、追いついた……」
「ど、どうしたの?」
狼狽するあたしの肩を掴みながら、シェミーは言う。
「身体、大丈夫!?」
「え?へ?」
「ベティーナに聞いたの。何だか、酷く疲れてるみたいだって。どうしたの?”あいつ”に、何か酷い事でも無理強いされたの!?」
物凄く、真剣な顔だった。本気で、怒ってる顔だった。
彼女は、あたしに詰め寄る。
「ねえ!!どうなの!?何、されたの!?」
「え、あ、いや、それは……」
口篭るあたしに、何かを察したのか。ますます憤るシェミー。
「そうなんだね!?そうなんだね!!」
そう言って頷くと、シェミーはあたしの肩を放して走り出そうとする。
「ちょ、ちょっと!!何処行くのよ!?」
慌てて引き止めるあたしに向かって、彼女は言う。
「あいつに一言言って、叩き出してくる!!」
「ええ!?」
今にも突貫しそうなその勢いにビビリながらも、かろうじて引き止める。
何しろ、相手は魔女とその眷属だ。下手な事をして機嫌を損ねたりしたら、頭の中身を引っくり返されるとまではいかなくとも、何をされるか分からない。
「いいから!!そんな事しなくて、大丈夫だから!!」
「でも!!」
「大丈夫!!、ホント、大丈夫!!」
あたしの必死さに、何かを察したのだろう。シェミーはようやく足を止めると、視線をあたしに向けた。
「……本当?」
「う、うん!!確かに変な奴だけど、あたしを傷つける様な事はしていない。それは、本当!!」
「なら……いいけど……」
あたしを、しげしげと見つめるシェミー。どうやら、怪我でもしていないか、確かめているらしい。
「もう、心配性だなぁ。ほら!!」
上着のホックを外して、服をはだける。顕になる肌に傷も痣もない事を確認すると、シェミーはようやく安心した様に息をついた。
「どう?納得した?」
「うん……。取り乱してごめん……」
彼女が、頭を下げる。その様が酷く申し訳なさそうで、何だかこっちまで気まずくなってくる。
「分かってくれればいいよ。じゃ、あたしあいつのお相手しないといけないから……」
そう言って、逃げる様にその場を去ろうとしたその時――
ギュッ
不意に、後ろから抱きしめられた。
心臓が、跳ね上がる。
「シ、シェミー?」
戸惑うあたしを抱きしめながら、シェミーが言う。
「ねえ、セシル……」
「な、何?」
「辛い事とかあったら、わたしには、隠さないでね……?」
「!!」
その言葉が、ガンとあたしの頭を殴った。
「何も出来ないけど、せめて分け合いたいの……。だから、お願い……」
「………!!」
一瞬、声が出なかった。黙りこくるあたしに、シェミーが不安げに問う。
「……セシル……?」
「わ、分かった……。何かあったら、シェミーには全部、話すから……」
そう絞り出すのが、精一杯だった。不自然な声音。あたしの真意を確かめようとする様に、シェミーはその身を寄せてくる。振りほどき、逃げ出したい衝動が沸き起こる。これ以上この温もりが続いたら、耐えられない。あたしが、そう思ったその時――
「シェミー!!何してやがる!?買い出しに行けと言っただろう!!」
遠くから響く、エイブラムの怒鳴り声。シェミーがハッと身を離した。
「セシル……」
「大丈夫だよ。本当に、大丈夫だから……」
あたしがそう言うと、シェミーは切なげに息を吐いて、「分かった」と呟いた。そして、
「じゃあ、また後でね」
走り去る音が、背中越しに聞こえる。彼女の気配が完全に消えると、あたしは大きく息をついて壁にもたれかかった。
見返す事が、出来なかった。彼女の。シェミーの眼差しを。今あの娘と目を合わせれば、全てを見透かされる気がして。
ああ。あたしは何を考えていたのだろう。
知っていた筈なのに。あの娘は、こんなにもあたしの事を想ってくれていると言う事を。一度は誓った筈なのに。あの娘の想いを、受け止めようと。
何て、情けない。
何て、見苦しい。
ポケットに手を入れ、小瓶を取り出す。
透明な容器に満たされた、琥珀色の液体。
全てを癒す、魔女の霊薬。
あたしの手にあるのは、この一人分だけ。
どうするべきかは、分かりきっていた。
これを。この一口を、彼女の為に。
けれど。
けれど。
この事を伝えて、彼女はそれを受けてくれるだろうか。
思い出される、昨夜の事。
自分の身を呈してあたしを助けようとした、あの想いの強さ。
(ありがとう。セシル。こんなわたしの人生に、光をくれて)
あの娘は、もう自分の未来を見てはいない。きっと、助かるのが自分だけと知れば薬を飲む事を拒むに違いない。
あの娘だけでは、駄目なのだ。
彼女を生かすためには、あたしも生きなければならない。
でも、手にある術はこの一口だけ。
どうすれば、いいのだろう。
どうすれば、あたしはあの娘を救う事が出来るのだろう。
分からない。
分からない。
いっそ、この小瓶を叩き割って、残りの時を彼女と共に過ごそうか。
そう思った瞬間、ある言葉が頭を過ぎった。
(――エリクシアは、精製に非常な手間がかかる。私の手持ちでも、二本しかない。そのうちの一本を、君にやろう――)
そう。薬は一本だけじゃない。
あるのだ。もう一本が。
ゴクリ
乾いた喉が、引きつる様な音を立てた。